孝明天皇を悼む

 私は先に、ドナルド・キーンの「明治天皇」に触れて、なぜ明治天皇が神格化されるようになったのか、その秘密を解き明かすことの重要性を指摘した。そして、その秘密は王政復古までさかのぼらないと解けないだろうと言った。王政復古は尊皇攘夷の声が挙がって以来の・・・まあひとつの時代の流れのゆきつくところであったのであろうが、それにしても時代の流れというものは恐ろしいもので、一気に倒幕までいってしまったのである。そして、遂に時代の流れは天皇神格化までいってしまう。以下、ドナルド・キーンの著書から要所要所を引用し、私の所見を申し述べる事としたい。

ドナルド・キーンの著書によれば、明治に入って暫く経った明治7年12月、岩倉具視は、嘉永6年のペリー提督率いる米国艦隊の来航以来の激動の日々を振り返り、その大勢を天皇に上陳した。岩倉は言う。廃藩置県、岩倉使節団の欧米派遣等々の大事が首尾よく成功を収めたのは、ひとえに国家の難局に際しての陛下の英断に帰するものである。一方でまた、数々の悲惨な出来事があった。事実、混迷の20年を経た今、初めて国内は平和、四海また静穏になったと言えるかもしれない。これまでにも増して陛下は鋭意精励し、国家の大計の下に諸臣を育成し、上下一致協力して復古を旨とした維新の聖意を貫徹していかなければならない。その成否は、ひとえに陛下の手綱さばき如何にかかっている、と。

悲惨な出来事の最たるものは、先の天皇(明治天皇の父君)・孝明天皇の暗殺とも噂される不可思議な死であろう。かって文久3年(1863)に朝彦親王(中川宮)が孝明天皇呪詛を企てたという噂が流れたことがあったが、慶応2年(1867)12月に、孝明天皇は不可思議な死をとげられる。孝明天皇の死因には天然痘と毒殺の二つの説があるようだ(注:日立デジタル平凡社の世界大百科事典には、<病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い>となっている)・・・・・・。ドナルド・キーンの著書によれば、孝明天皇は天然痘に罹り加療中であったが、回復に向かっていたその日、孝明天皇はにわかに激しい嘔吐と下痢に襲われた。顔には紫色の斑点が現れたと諸資料は語り、また「御九穴より御脱血」とも語る。西暦1867年1月30日、孝明天皇は、断末魔の苦しみの内に息を引き取られた。まことに悲しい出来事であり、私は、孝明天皇の死を今更ながら愛惜の情を以って悼む。孝明天皇は、今、京都の東山の・・・・天皇家の菩提寺・泉涌寺の奥山に眠っておられる。後月輪東山陵(のちのつきのわひがしのみささぎ)である。

孝明天皇は、まことに悲惨な運命の方である。孝明天皇が公武合体の理想を捨てて新しい王政復古の理想に順応することさえできたら、定めし幸運な道が開けたに違いない。しかし、孝明天皇は頑として古い信念を捨てようとはされなかった。けだし、肝心なことは相手の立場にたって考えるということだ。孝明天皇はそれを立派に成し遂げられたと私は思う。それがなければ分裂が融合に向かうはずがない。動きには得てして行き過ぎを伴うものだ。幕藩体制から公武合体へ、そしてその動きは一気に明治維新へと向かった。明治維新は確かに時代が求めたものであろう。しかし、それは必ずしも孝明天皇、正確に言えば歴史的自己としての天皇ということだが、そういう孝明天皇からすれば、その後の動きというものはまったく皮肉な動きであったといわざるを得ない。歴史的自己としての天皇を立派に生きた人・・・・・それが孝明天皇である。

先に述べたように、時代の流れは一気に天皇神格化まで押しやってしまった。それが歴史的必然性であったのかもしれない。しかし、伊藤博文のまったく正論というべき意見もあったということは決して忘れるべきでないだろう。ドナルド・キーンの著書によれば、斬新派である伊藤は、天皇の将来の役割について深く憂慮していた。外債募集、及び地租米納論を否定した天皇の裁断は、もはや受動的、象徴的役割にとどまることなく自ら重大な決定に積極的に関わりたいという天皇の意思の表明ではないか、と伊藤には思われた。伊藤が恐れたのは、このことが天皇の政治的責任問題の発生や、天皇制の是非を問う論議にまで発展するのではないかということだった。伊藤の考えでは、天皇はあくまで天皇を輔弼(ほひつ)する内閣の象徴的な指導者としての役割を演じることが望ましい。特に伊藤は、政治的責任のない宮中派が天皇を通じて影響力を振るうことを心配した。それは内閣の国家運営の不安定に繋がるだけだ、と伊藤は考えた。伊藤博文の考えはまったく正しい。そのとおりだ。しかし、伊藤の上には、三条実美太政大臣、たるひと親王左大臣、岩倉具視右大臣という三人の権威ある公家がいたので、さすがに伊藤といえども自説を押し通すことはできなかったようである。

ドナルド・キーンの著書によれば、立憲改進党の党首・大隈重信も、改進党権勢大会で演説したように、立憲君主が率いる英国式議会制民主主義の確立を強く望んでいた。それが結党の目的であったのである。ドナルド・キーンの著書によれば、大隈重信は、その演説の中で、自分が考える民主政体における君主の・・・・積極的というよりはむしろ象徴的な役割を強調した。大隈重信は決して皇室に献身的でなかったわけではない。が、同じ演説の中で、大隈重信は次のように述べている。「維新中興の偉業を大成し、定刻万世の基礎を建て、そして、皇室の尊栄を無窮に保ち、人民の幸福を永遠に全うせんことを冀望(きぼう)する。」・・・と。

象徴天皇の考え方がすでにこの時期に大きな政治課題として浮上していたということは、私にとって、大変な驚きであるが、よくよく考えてみれば、それは必ずしも驚くに当たらないことかもしれない。そもそも幕藩体制の天皇は典型的な象徴天皇であり、その起源は古くそもそも武家社会が発足した鎌倉時代までさかのぼる。すでに「武家社会源流の旅」で述べてきたように、いうまでもなく象徴天皇の思想的裏打ちは明恵の「あるべきようわ」にある。伊藤博文や大隈重信の如何にも進歩的に見えながら実は歴史的にはそれがむしろ日本の伝統といえる考えにもかかわらず現実の流れはそうは流れなかった。三人の権威ある公家の意向というか時代の流れというものが、憲法の草案作りの流れをも・・・・決めていったようである。この年、板垣退助は凶徒から襲撃を受けあの有名な言葉「板垣死すとも自由は死せず!」を叫んだ。すべて時代の流れである。私が思うに、その大勢は王政復古がなった時点で固まったのである。明治憲法も王政復古が原点である。孝明天皇が生きていたら、公武合体がなったであろうし、違った政治体制になっていたかもしれない。そうすれば伊藤博文や大隈重信の影響力がもっと発揮できたかもしれないと思うのだ。まことに残念なことである。

ドナルド・キーンの著書によれば、天皇は、明治21年4月に、枢密院を設置した。枢密院は、政府と議会の間に介在し、天皇の輔翼の任を果たすことにあった。伊藤は枢密院の主唱者だった。伊藤は断固として、憲法は天皇が国家に授ける欽定憲法であるべきだと考えていた。天皇の権威は神聖にして侵すべからず、また天皇の裁断は決定的なものでなければならなかった。枢密院の役割は、特に政府と議会の間に対立が生じ、例えば大臣を罷免するか議会を解散するかといった事態が生じた際、天皇の裁断を正しく導くことにあった。

ドナルド・キーンの著書によれば、新たに結成された枢密院の重要性を強調するかのように、伊藤は内閣総理大臣を辞職し、枢密院議長に就任した。天皇は、病気のときを除き、枢密院には毎回臨御されたと言われている。その月の内に、伊藤は、憲法草案を天皇に奏呈した。伊藤は、すでにウィーンで憲法研究を重ねていたし、明治17年以来、多くの優秀なスタッフを使って調査も進めていた。十分な蓄積があったのだ。伊藤は、憲法政治の「機軸」ということであったのではないか。枢密院での憲法起草趣旨演説で、伊藤は次のように述べている。「ヨーロッパにおける憲法政治の萌芽は遠く往古に発し、数世紀にわたり着実に発展してきた。そのため、人民はこの制度に習熟している。のみならず宗教はヨーロッパ諸国の機軸を成し、人心に深く浸透し、これを統一することに役立っている。日本には、宗教として仏教と神道がある。しかし人心を統一するにはあまりに力が弱く、機軸の用をなさない。日本人が持つ唯一の機軸は、皇室である。憲法の草案を作成するに当たり、常にこのことが頭にあった。君権を尊重し、あえてこれを束縛することがないように努めた」・・・と。

「君権」は、伊藤等が準備した憲法草案の機軸となった。私は、「君権」を国の機軸とすることにはまったく同感である。今私はそれを主張しているのだ。私は先に、「劇場国家にっぽんと天皇制」というタイトルで自説の概要を述べたが、その中で、「宗教というものはえてして権威の源泉となるから、権力と権威との分離ということと政治と宗教の分離ということとはほぼ同義語である。わが国における政教分離は、山折哲雄によれば(蓮如と信長、PHP研究所、1997年12月)、蓮如と信長によってもたらされた。戦後に始まったことではない。戦前が異常であったのだ。わが国おける政教分離が非常に永い歴史を有しているということをまず念頭においてもらいたい。こういう国は世界でも珍しい。さらに言えば、最澄と徳一の宗教論争、法然と明恵の宗教論争・・・・・、これほど知的な論争は世界にもそうは見当たらない。宗教の違いを理論的に認めようとする国、また実際にも無数の神が共生する国、そういう国は世界でも実に珍しいのである。ところで、権威の依って立つところはそもそも何か?・・・・いうまでもなく日本の場合は宗教ではない。では何か?・・・・天皇しかないではないか。」と述べた。劇場国家にっぽんの、元気国家にっぽんの、平和国家にっぽんの「機軸」は天皇制になければならない。しかも、わが国の歴史と伝統文化を深く考えていくと、その天皇はどうしても象徴天皇でなければならないのである。わが国においてあるべき天皇の姿は歴史的に象徴天皇である。

再度申し上げるが、私は、象徴天皇の典型を孝明天皇に見る。歴史的自己としての天皇を立派に生きた人・・・・・それが孝明天皇である。孝明天皇及び皇后はまことに清貧な生活を続けられ、明治天皇はその極めてお粗末なお屋敷でお生まれになった。私は、そこに西田幾多郎のいう「無の有」の姿を見る。

Iwai-Kuniomi