藤原百川 732‐779(天平4‐宝亀10)

ふじわらのももかわ

 

奈良後期の官人。もと雄田麻呂(おだまろ)という。宇合(うまかい)の第8子で,母は久米若女。藤原諸姉(良継の女)はその妻。緒嗣,旅子(桓武天皇夫人,淳和天皇母),継業,帯子(平城天皇妃)の父。

 

《日本紀略》宝亀1年(770)8月条にひく〈百川伝〉によると,同年の称徳女帝の没後,皇太子の決定にあたって右大臣吉備真備は天武天皇の血脈をひく文室浄三(ふんやのきよみ)を強く推した。百川は左大臣藤原永手,参議藤原良継らとはかってこれに反対し,宣命の語を偽作して白壁王の立太子を強行した。白壁王は770年10月即位した(光仁天皇)。

 

《続日本紀》の百川の伝によると,天皇ははなはだ百川を信任し,ゆだねるに腹心をもってし,内外の機務でかかわり知らないものがなかったという。

さらに《水鏡》によると,百川は772年5月の他戸(おさべ)親王の廃太子,翌年1月の山部親王(のちの桓武天皇)の立太子に際しても,内裏に長期間つめて天皇を説得し山部皇太子の実現を図ったことがみえるが,真偽は明らかでない。

779年7月の没時には参議中衛大将兼式部従三位であった。天皇は悼惜し右大臣を追贈した。

また女の旅子の子が淳和天皇として即位したことにより,823年(弘仁14)5月正一位太政大臣を追贈されている。                 

 

栄原 永遠男

 

(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

Iwai-Kuniomi