物部氏

 

 物部氏については、雄略天皇の時代に水軍と関係のある伊勢の豪族を征討したこと、また継体天皇の時代に水軍500を率いて百済に向かったことなどが伝承されており、物部氏が水軍をその傘下におさめていたことは容易に想像がつくが、学習院大学の黛(まゆずみ)弘通教授がその点を別途詳しく述べておられる(「古代日本の豪族」、エコールド・ロイヤル古代日本を考える第9巻、学生者)。以下に、その要点を紹介しておきたい。

 

 「旧事本紀」の中の「天神本紀」には、ニギハヤヒが降臨するときにつき従った神々とか、そのたもろもろの従者のことが詳しく出ているが、それによると、つきしたがった神に海部族(あまぞく)である尾張の豪族がいるし、つき従った従者に、船長と舵取りと舟子がそっている。物部氏が航海民、海人族と関係があったのは間違いがないのではないか。物部氏系統の国造を詳しく調べると、物部氏は瀬戸内海を制覇していたことが推定される。

 太田亮氏は物部氏発祥の地を筑後川流域とされているが、大分県の竹田市付近が発祥の地ということも考えられる。「日本書紀」に豊後の直入郡の直入物部神(なおりのもののべのかみ)というのと直入中臣神(なおりなかとみのかみ)というのが出てくる。

 次に紹介するように、東国で、中臣氏は物部氏の勢力を乗っ取ってしまうのであって、「日本書紀」で中臣氏と物部氏の祖先が一体のものであったと思わせぶりに書くことは、少なくとも物部氏についての記述が正しいことを伺わせる。物部氏は大野川の舟運を握っていたのではないか。大野川の舟運を握る一族であれば、それは発展的に瀬戸内海の航海権を制覇してもおかしくないし、いずれは伊勢や尾張、そして遂にはその覇権は東国にも及んだのではないか。物部氏なくして東国の制覇はあり得なかったと考えては考え過ぎであろうか。

 

 かの有名な梅原猛の「神々の流竄(るざん)」に中臣氏の物部氏勢力の乗っ取りが詳しく書かれている。中臣氏は成り上がりものであった。鎌足の父、御食子(みけこ)以前の、中臣氏の祖先はよく判らない。とにかく中臣氏は、天才政治家鎌足の時に、突然中央政界に登場し、しかも、たちまちに中央政治の支配者となった。こうして成り上がった中臣氏は、古い由緒ある神社をほしがっていた。物部氏の残した鹿島神宮、これは東北経営の拠点でもあるのだが、その神社の支配権というものは霞ヶ浦湖畔の豪族である多氏が握っている。中臣氏としては、多氏を抱き込んで、何とかそれを手に入れたい。当然のことである。かくして鹿島神宮の乗っ取りはなり、しかも東北における物部氏の勢力はそのまま中臣氏に引き継がれることとなった。藤原氏発展の基礎はここにある。

 

 

Iwai-Kuniomi