以仁王 1151‐80(仁平1‐治承4)

もちひとおう

 

後白河天皇の第3皇子。異説に1150年(久安6)の誕生。母は権大納言三条季成の娘高倉三位成子。兄の守覚法親王が早くに出家したため,普通には第2皇子といわれる。三条宮,高倉宮とも称し,のち挙兵時には最勝(親)王と号した。幼少のおり天台座主最雲の弟子となったが,師の没後還俗(げんぞく)し,65年(永万1)元服。八条院猶子。若くして英才の誉れが高く,皇位継承の有力候補と目されたが,異母弟憲仁(高倉天皇)の母建春門院平滋子の妨害により,親王宣下も受けられぬ不遇をかこった。79年(治承3)平氏のクーデタにより父法皇が幽閉され,王も多年知行してきた常興寺(領)を没収されるに及び,翌年4月源頼政を語らい,平氏討伐の令旨(りようじ)を発した。しかしこの企ては早々に漏れ,三井寺から南都に敗走する途中,5月26日光明山鳥居の前(京都府山城町綺田(かばた))で戦死した。挙兵には失敗したものの王の令旨は治承・寿永内乱の起爆剤となり,生存説も長く絶えなかった。          杉橋 隆夫

 

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