紫式部

 

 

 

 

紫式部顕彰碑

紫式部は、藤原為時(ためとき)を父として天延(てんえん)元年(973)頃に生まれた。名は未詳であるが、香子(たかこ)と言った可能性が多い。 祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼児より学芸に親しみ、頴脱(えいだつ)したその才能は夙(つと)に認められていた。長保(ちょうほう)元年 (999)藤原宣孝(のぶたか)も妻となり、翌年娘の賢子(かたこ)を産んだが、同3年、不幸にも夫を喪(うしな)った。

寛弘(かんこう)3年(1006)頃、内覧左大臣・藤原道長の長女で一条天皇の中宮として時めいていた彰子(あきこ)に仕え、候名(さぶろうな)を 父の官名に因んで式部と称した。式部は侍講(じこう)として中宮に漢文学を教授する傍ら、「源氏物語」の執筆に励(はげ)み、寛弘(かんこう)6年頃、こ の浩翰(こうかん)な物語を完成し、世界文学史上に輝かしい記念塔を建てた。

寛弘(かんこう)7年頃には、日本思想史の上で希有(けう)な虚無(きょむ)的人生観を こめた「紫式部日記」を纏(まと)め上げた。晩年には引き続いて中宮(後に上東門院じょうとうもんいん)の側近に仕え、また「紫式部集」を自選した「源氏 物語」は、執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。

没年については、長源4年(1031)とみなす説が有力である。「河海抄(かかいしょう)」その他の古記録は、「式部の墓は、雲林院(うりんいん) の塔頭(たっちゅう)の白毫院(びゃくごういん)の南、すなわち北区紫野西御所田町に存した」と伝えているが、この所伝(しょでん)には信憑性(しんぴょ うせい)が多い。

「源氏物語」は、完成後、9世紀に亘(わた)って国民に親しまれ、また研究された。今世紀に入ってからは、式部の文名は広く海外でも知られ、「源氏 物語」は、続々と各国語(かくこくご)に翻訳された。1964年、ユネスコは、彼女を「世界の偉人」の1人に選んだ。

なお、紫式部の居宅は堤第(つつみてい)と言い、平安京東郊の中河に所在した。すなわち廬山寺(ろざんじ)のある上京区北之邊(きたのべ)町のあた りである。

また、一人娘の賢子(かたこ)は、後冷泉(ごれいぜい)天皇の乳母(めのと)となり、従三位(じゅさんみ)に叙(じょ)せられた。11世紀の勝れた 閨秀(けいしゅう)歌人の大貳三位(だいにさんみ)とは、賢子(かたこ)のことである。

                           平成元年春

                           文学博士 角田文衛(つのだぶんえい)撰

 

註:頴脱(えいだつ)とは才能がとびぬけてすぐれていること。夙(つと)にとは早くからということ。中宮とは皇后に同じ。時めいていた栄えていたと いう意味。候名(さぶろうな)とは中宮にお仕えしていたときの呼び名。侍講(じこう)とは高貴な人に仕え講義する人。浩翰(こうかん)は広いという意味。 希有(けう)はめったにないということ。塔頭(たっちゅう)は大寺院の別房。所伝(しょでん)は言い伝え。信憑性(しんぴょうせい)は信頼できるというこ と。閨秀(けいしゅう)とは非常に勝れた女性ということ。

註:上記の紫式部顕彰碑は、堀川北大路(きたおうじ)を少し下がったところにある・・・・・「紫式部の墓」の前においてあったパンフレットから書き 写したものである。実際の顕彰碑は大徳寺の大慈院にあるらしいのだが、私はそれをまだ確認していない。

 

紫式部ついてはいろんな人がいろんな説明をしている。その中で、上記の説明がもっとも格調が高い。さすがに 文学博士 角田文衛(つのだぶんえい) が練りに練った文章だと思う。誠に短い文章の中ですべてを言い尽くしていると思う。その中で、角田博士が紫式部が日本思想史の上で希有(けう)な虚無(きょむ)的人生観の持ち主であったことを示唆しておられる点に注目してもらいた い。

紫式部は廬山寺に居住しながら「源氏物語」を執筆した。廬山寺は、先に述べたように、元三(がんざ ん)大師の創建になる寺である。紫式部が生まれる35年ほど前のことである。紫式部の若い頃は、すでに元三大師は亡く、その弟子・源信が有名を馳せていた 頃である。紫式部は、思想上、その源信から大変強い影響を受けていたのではないか。私にはそう思われる。源信は、浄土の教えを確立した人である。紫式部は、極楽浄土を求めて出家の道に入りたかったようであるが、現実にはそうはならなかった。したがって、悶々とした日々を送りながら、どうしても虚無的な思想にならざるを得なかっ たのではないか。私にはそう思えてならないのである。

 

 

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「源氏物語」の第五帖「若紫」で北山の僧都の場面がある。

病の癒えた光源氏が、

加持を受けた北山の僧都のために宴を設け、

咲き乱れる山桜を背景に、

二人が別れを惜しむ場面である。 

 

 

 

この北山の僧都こそ源信その人である。

 

 

 源氏物語には華やかな面と虚無的な面と両面がある。

ということは、

 

紫式部の人生にも

そういう両面があるということだ!

 

 

源氏物語の両義性・・・・それは天皇制の両義性でもある。

このことについてはいずれ触れることとして、

しばらくは、

そういう虚無的な面にスポットライトを当てて

源氏物語・虚無の旅をしていきたいと思う。