明恵について

 

あかあかやあかあかあかやあかあかや

あかあかあかやあかあかや月

 

 鎌倉時代という時代は正に古代から中世に代わる時代の変わり目であり、日本史上でもまれな変革期であった。「一所懸命」という言葉が表すように、命を懸けて土地を守るという坂東武士が、奢侈柔和な古代貴族社会に決別し、質実剛健な中世武家社会を作り上げていく。武家社会は地方分権社会でもある。政治体制も、御成敗式目が示すように、権力は完全に武士の手にゆだねられた。「君臨すれど統治せず」・・・・・その言葉どおり、天皇は権威に生きることになった。地方分権社会と権威に生きる天皇・・・・ここが大事なところである。さて、この御成敗式目が指し示すところの政治体制は、多くの方が指摘するように、明治維新まで続くのであるが、その源流は、私のホームページ「武家社会源流の旅」で示唆しておいたように、それは明恵の哲学・「あるべきようは」によるものである。

 

 明恵の哲学は追々勉強していくとして、まずは、明恵ゆかりの寺・高山寺のページを御覧いただきたい。明恵の臭いふんぷん・・・。「あるべきようは」の石碑もあります。

 なお、私は今までこのホームページで頻繁に明恵という名前を出しているので、この際、それらのページ(その1その2その3その4)すべてを紹介しておきたい。ちょっと見にくい部分があるので、できるなら私のホームページ内検索エンジンで検索してもらうとありがたい。他愛もない部分もあるが、全部で78ページという・・・数多くのページに明恵という言葉が登場する。それだけ私の心のなかに明恵が染み込んでいるのだといえよう。

  私は、平和の原理を見つける旅として、現在は「劇場国家にっぽん」という思索の旅を続けているその途中であるが、この平和の原理を見つける旅は「平安遷都を訪ねる旅」から始まった。そして、思索の旅を重ねながら、現在、何とか「平和の原理」が見つかったのではないかという・・・・まあ、おおよその感じをつかんだ段階であろうか。今後、明恵を追いながら、「平和の原理」に関する私の考えを整理していくつもりである。それと平行して中沢新一いうところの「東北」について、あらたな旅を始めたいと考えている。

 

 明恵については、いろんな人が書いているが、憲法との関係で勉強するとすれば、山本七平の「日本人を動かす原理日本的革命の哲学」(1982年12月、PHP研究所。PFP文庫本は1992年4月。)がいいだろう。この本は絶版になっているので、ひょっとしたら手に入りにくいかもしれない。したがって、以下において、大事な部分をできるだけ忠実に紹介することとしたい。是非、みなさんも私と一緒に勉強して欲しいと思う。なお、憲法改正にあたっての私の基本的な認識については、ここをクリックして下さい!

 

 さあ、それでは、明恵の「あるべきようは」の思想に迫っていこう。大勉強の始まり!・・・始まり!まずは、「日本人を動かす原理日本的革命の哲学」の序文を御覧いただきたい。

 

 『 いったい「象徴天皇制」はだれが創り出したのであろうか。』

 『 もちろんこれが出来たのは戦後ではなく、明治以前の日本は現在以上に徹底した象徴天皇制であった。では一体この「制度」は、いかなる思想に基づき、だれが確立したものであろうか。これが日本の伝統であり、現代の日本をも規定している以上、その基本にある思想とそれに基づく世界に類例のない体制の創出は、日本史における最も重要な問題のはずである。』

 『 この体制創出の<革命>を行ない、同時にその思想に基づく法律を天皇に関係なく制定し公布したのが北条泰時であり、その法律が『関東御成敗式目』(貞永式目)であった。これは外国から輸入した継受法でなく、自らの規範を条文化した日本ではじめての固有法である。日本人が、外国からシナリオを借りず自分の法律を自分で制定し、自分で公布して施行したのはこのときが最初であり、これが、日本独自の「自前の秩序」が成立した第一歩であった。いわば日本史において、「日本が日本になった」大きな「節目(ふしめ)」であり、この「自前の秩序」は、佐藤誠三郎氏の言われる「世間法」(山崎正和編『ものごとの思想』講談社)の基本として現在もなお存続しているのである。』

 『 もちろんその表われ方は泰時の時代と同じではなく、歴史的な情況の変化に対応している。確かに歴史にはいくつかの「節目」があるが、その「節目」における一人物の思想は、常に、前代の思想を継承しつつそれを次代へと発展させるという形でそれ「以前」を継承している。鈴木正三は徳川幕藩体制のはじめという「節目」におり、石田梅岩も享保という「節目」にいる。同じように明治という「節目」を見れば、そこには渋沢栄一がいる。彼が著した膨大な『論語講義』を読むと、彼の考え方は決して「開明欧化」ではなく、むしろ伊藤仁斎にはじまる徳川時代の論語的行動規範や浅見絅斎(けいさい)の『靖献遺言』的な天皇観とそれを基とする規範を頑として守っていた人であることがわかる。だがこのことは、もちろん彼が「頑迷固陋」な人間であったということでなく、古い伝統を新しい未来に発展させているということであろう。民族の発展は、そのような形態以外にあり得ないのである。』

 

 『 「われわれには歴史はない、今日から新しく歴史がはじまる」は、明治にも戦後にも抱かれた錯覚であり、そういう軽薄な見方はマスコミに任せておくとして、日本という国はどこで大きく転換して「日本になった」のか。そこで一体何が行なわれ、それが以後の日本をどのように形成して来たか、それを探究してみたいと思う。 というのは、それが「日本人を動かす原理」だからである。』

 

 『 なお、『貞永式目』および追加法の条文の引用は、主として笠松宏至佼注「御成敗式目・付北条泰時消息」(日本思想大系『中世政治社会思想上』岩波書店)および植木直一郎著『御成敗式目研究』(名著刊行会)を参照させていただいた。また追加法の番号は笠松宏至氏による。』

 

 それではいよいよ第1章「日本には革命思想はなかったか」である。

 

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