藤原仲麻呂 706‐764(慶雲3‐天平宝字8)

ふじわらのなかまろ

 

奈良時代の政治家。名は仲満とも書く。758年(天平宝字2)に恵美押勝(えみのおしかつ)と改称した。藤原武智麻呂(むちまろ)の第2子。母は安倍朝臣出身の女性で,貞吉もしくは真虎の娘と伝え,豊成は同母兄。聡敏で読書家,また算術に精通した。725年(神亀2)に内舎人(うどねり),ついで大学少允となる。734年(天平6)正六位下より従五位下となり,父武智麻呂ら藤氏四の死後750年(天平勝宝2)従二位に昇るまで11年間に9階という異例の急進をとげ,さらに760年に従一位,762年には正一位の極位に至っている。

 その間官職も741年民部,743年参議兼左京大夫,745年兼近江守,746年式部兼東山道鎮撫使などを歴任した。749年聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると大納言となり,さらに皇権を掌握した叔母の光明皇太后のために新しく設置された紫微中台の長官紫微令をも兼任し,太政官に拠る左大臣橘諸兄らに対抗して,政治の中枢に進出した。756年聖武上皇が没すると翌757年皇太子道祖(ふなど)王を廃し,大炊王を擁立した。大炊王は当時仲麻呂の私宅田村第に住み,仲麻呂の亡男真従(まより)の婦の粟田諸姉をめとっていて,仲麻呂とはミウチ的な関係にあった。同年紫微内相(ないしよう)となって軍事権も手中にした仲麻呂は,諸兄の長子橘奈良麻呂や,大伴,佐伯,多治比ら反仲麻呂勢力の反乱を未然に鎮圧し(橘奈良麻呂の変),独裁政権を確立した。ついで758年大炊王が即位し淳仁天皇となると太保(右大臣)となり,恵美押勝の姓名,功封3000戸,功田100町を賜り,鋳銭,出挙(すいこ)の自由な権限を手中にし,また,恵美家印を太政官印にかえて用いることも許され,760年にはついに太師(太政大臣)となった。

 しかし同年光明皇太后が没すると,しだいに政権にかげりがあらわれはじめた。762年近江の保良宮滞在中に孝謙上皇と淳仁天皇が道鏡の問題をめぐって不和となり,平城京に帰った後は皇権の分裂にまで発展したが,その背後には仲麻呂・淳仁派と道鏡・孝謙派の対立抗争の激化があった。加えて銭貨改鋳はインフレを招き,社会不安が高まったので,764年仲麻呂はこの退勢を一挙に回するため反乱を企て,都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となってひそかに手兵を集めようとしたが,計画は事前に発覚した。緒戦に敗れた仲麻呂は近江,ついで越前への逃亡をはかったが,いずれも失敗し,近江湖西の勝野鬼江で捕らえられ,一族与党とともに湖浜で斬首された。

 仲麻呂の施策には,雑徭日数の半減や課役年齢の短縮,問民苦使(もみくし)の派遣など人心の安定をはかるものがみられるが,多くは唐制の模倣であり,このことは乾政官(太政官),坤宮官(紫微中台)などの官号の唐風化や,歴代天皇の漢風諡号(しごう)の進にもみられ,またそこには《孝経》を各家に所持させ,《維城典訓》を官人の必読書とする政策と同じように,仲麻呂の儒教好みがあらわれている。さらに757年養老律令の施行は,祖父不比等の顕彰を目的とするが,藤原氏の《家伝》を編纂し,みずからが〈鎌足伝〉(〈大織冠伝〉)を書いたのも同じ意図に出るものであった。そのほか《日本書紀》に続く正史編修を発議し,また《氏族志》の編纂も手がけたが,それらはのちの《続日本紀》や《新姓氏録》の先駆となった。⇒恵美押勝の乱               岸 俊男

 

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