先ほど、私は、「上記の妖怪リンクを楽しむのも良いけれど、科学的認識だけはしっかり持った上で楽しんでもらいたい。この辺の呼吸は大変難しいのだけれど、非科学的な言論にはよほど注意してかからなければならない。決して興味本位の言動に惑わされてはならない。」と述べた。この点に関連して、・・・・・・私のもっとも尊敬する中村雄二郎さんがその著書「正念場」(1999年4月、岩波新書)の中で・・・・・次のように言っておられるので紹介しておきたい。
「デッラ=ポルタの<魔術の知>の核心をなすのは、無意識を退けずにそれに訴えかけることであり、万物を<共感と反発>の関係でとらえることである。また、ものごとを生物モデルに即して考えることであった。パーマンの説く<再魔術化>の方向は、基本的にはまさにこれと軌を一にしている。けれども、パーマンはそこに一つの重要な留保条件をつけている。彼は述べている。ユングやウィルヘルム・ライヒのように夢の知や身体の知から<意識的な知>を簡単に切り捨ててはならない。
その点で、われわれが顧みるに値するのは、近代科学の理論的根拠づけに当たって、なぜデカルトが精神と物体の二元論を打ち立てか、ということである。この心身二元論は今日では、特に我が国では、悪名高い。しかし、ここでわすれてならないのは、デカルトが<精神>と<物体>とを独立した二つの実体とみなすことによって、一方では、自然界の客体とそれに対する数学的合理性の適用が可能になるとともに、他方では、人間の主体性と自由が保証されるようになったという事実である。
というのも、精神と物体とがその成立原理をことにするならば、そのかぎり、自然界を支配する機会論的因果性も決定論も、精神に対しては無力だからである。したがって、いま求められているのは、ベイトソンがみごとに行ったように、<世界の再魔術化>のなかで、そのような<近代知>の正の遺産を受け継ぐことである。」
中村雄二郎さんは、広島で、「21世紀はどういう世紀になるとお考えですか」という私の質問に対し、「リズムの時代」とおっしゃった。中村雄二郎さんの<汎リズム論>である。
「正念場」では、リズム感覚というものはものをよく感じるためだけでなく、よく考えるためにもふかけつであると述べておられるが、デカルトの<心身二元論>について、これはかならずしも心と身体のつながりを否定するものではないということも強調しておられる。その一つの証拠として、若い頃であるが、デカルトの言っていたことを紹介しておられる。「太鼓に張られた羊の皮は、ほかの太鼓で狼の皮が鳴り響いていると、叩かれても鳴ろうとしない。それは、情念の<共感と反感>のゆえである。」
なお、近年の傾向として、オーム真理教事件や酒鬼薔薇事件を見てもわかるように、精神の希薄化という問題がある。そういう精神の希薄化という問題は、特に、デジタル社会において加速されつつあるところが大問題なのだと思う。中村雄二郎さんは、「正念場」のなかで、「デジタル社会の軽快さに流されずに、意味と存在の希薄化に対抗し、抵抗する強力なパトス<情念>を、大人は勿論のこと子供たちもひびの生活の中で鍛え上げることである。それは、他人をないがしろにする粗暴な力ではなくて、他人の痛みを感じ、開かれた感受性にもとづくような能力である。」とおっしゃっている。その通りであって、私が「怨霊や鬼或いは妖怪」の世界を取り上げているのは正にそういう視点があってのことだが、その際大事なことは、ものごとは<近代知>にもとづいて正しく認識されなければならない。「怨霊や鬼或いは妖怪」の世界は正視されなければならないのであって、そうでなければかえって社会は混沌の度合いを深くする。
この精神の希薄化の問題と根っこのところで繋がっている問題に、自然破壊の問題がある。この自然破壊の問題については、もうひとり私の尊敬する哲学者梅原猛さんが一つの答えを出しておられるので次にそれを紹介したい。