劇場国家にっぽん

                          平成13年11月24日

                          参議院議員 岩井國臣

ピンチはチャンス

「ユニクロ現象」とも呼ばれる現象がわが国の地方経済を疲弊のどん底におとしめようとしている。中国の産業競争力が高まり、わが国の資本が大挙して中国に生産拠点を移す一方で、日本の各地域の工場は閉鎖や縮小に追い込まれているのだ。セーフガード(緊急輸入制限)の発動により少し息を継いでいる農業もいずれは大打撃を回避できなくなるかもしれない。本当にピンチだ。大ピンチだ。

しかし、よくよく考えてみれば、こういうピンチは今に始まったことではなくて、世界の経済が経済合理性を追及する中で、農業や林業はずっと前から大打撃を受けてきている。自由貿易体制のもとでは比較優位説の考え方が基本である。このピンチを前向きに捉えるしかあるまい。災い転じて福となす。ピンチはチャンスではなかろうか。過疎問題を何とかしなければならないと思っている私としては、この大ピンチをチャンスに切り替える絶好の機会がきたと考えたい。「共生、コミュニケーション、連携・・・これこそ21世紀における大事なキーワードだ!」・・・・・、「都市と農山村との共生を図れ!」・・・・・、「ITとビジター産業に舵を切れ!」・・・・、「劇場国家にっぱん!」などと・・・・私は言ってきた。そういった私の持論の受け入れられる可能性が出てきたと考えたいわけだ。わが国ありようを真剣に議論するべきときがきた。わが国の地方経済のありようやわが国経済のありようを議論しなければならないし、わが国の社会システムのありよう、わが国憲法のありようを議論するべきときがきたのだ。この機会を逃してわが国に希望に満ちた新しい時代の訪れるわけがない。今こそ絶好のチャンスなのだ。

産業空洞化と地方経済の関係について、去る11月5日の日経新聞の経済教室で、伊藤元重東大教授がわかりやすい説明をしておられる。私の興味のあるところだけ紹介しておく。

単純化して日本を大都市圏と地方経済に分け、それに中国という国を入れて三つの地域で貿易や競争をしていると考えてみよう。ここで重要なのは、地方経済と中国経済が大都市圏の企業や市場を巡って競合しているということである。

大都市圏の企業が地方経済から中国に立地を移したり、中国の農産物や繊維製品が大都市圏に入ってきて地方経済の製品を駆逐してしまったりするのは、大都市圏の経済において地方経済と中国の経済が競合していることを示している。

貿易の拡大は国内経済の分断を伴う。国境を越えて財や企業が自由に動く中で、大消費地であり、大企業の拠点地である大都市圏と同じ国の中にあるいうだけでは地方経済は地の利を得られない。大都市圏から企業を誘致するというこれまでの地域活性化策とは違った方向を模索しなくてはならない。

そうなんだ。貿易の拡大によって国内経済の分断が引き起こされている。これまでの地域活性化策とは違った方向を模索しなければならないのだ。しかし、その違った方向とは何なのか・・・、そこが問題である。

イ、地方経済、或いは過疎地域の問題は、日本の問題である。日本国の問題であるがゆえに、新興工業諸国(ニックス)からやられるのだが、国内の分断によって、問題はより深刻になっている。

ロ、すなわち、地方経済、或いは過疎地域の問題は、国内の分断によってあくまでも地方の問題、過疎地域の問題であり、大都市圏の問題ではない・・・というようになってきている。少なくとも大都市の人々の意識はそうである。国民レベルでの意識改革が必要である。地方と大都市圏との間に溝を作ってはならない。都市と農山村との間に溝を作ってはならない。意識の上で両者の融合を図らなければならない。それには・・・・・交流しかないではないか。

分裂から融合へ

「大分裂の時代」といわれる中で、大都市と地方の対立構造は今まで顕在化してこなかったのは不思議なくらいだ。今までは「格差是正」とか「国土の均衡ある発展」とかが国土政策の大きな目標になってきたからだが、ここにきて、それも若干おかしくなってきた。格差のあるのが当たり前で、国土の均衡ある発展なんてのは経済の効率性から問題であるという思想が力を持ち始めている。

山崎正和さんは今は「大分裂の時代」だといっておられる(大分裂の時代、山崎正和、中央公論社、1998年8月)。今少々山崎正和さんの言っておられることに耳お貸しいただきたい。

20世紀末の現実は冷戦が終わった結果、かえってより深い本質的な対立に脅かされている。この対立はまだ明快に命名されていないが、世界の多くの論者の注目をひいて、さまざまな仮の名で呼ばれている。ある人は「文明の衝突」と言い、ある人は「近代への反抗」と呼び、その表れの側面ごとに、市場と国家、国際化と民族主義、普遍主義と多元主義、西洋と非西洋、産業化と伝統文化の対立、といった言葉でとらえる論者たちがいる。

乱暴に要約すれば、その根底の本質は合理と非合理の対立であり、個人主義と集合意識の対立であり、より深くは個体生命と種族生命の対立だともいえる。それは人類の発生とともに芽生え、近代の環境のなかで強められ、すべての個人の内面にも分裂を招いてきた。誰しもが個人の自由と家族愛のあいだで引き裂かれ、近代化と伝統文化、生活の利便と自然尊重の間で悩むのも、その現れである。それが貧富の差と結びつけば、自由貿易と保護貿易の闘いと化すし、倫理観とかかわれば、妊娠中絶の賛成論と反対論の対決となって火花を散らす。

そのとおりだろう。もちろんそういう対立を山崎正和さんは心配をされ、思想界にいっそうの努力を期待しておられるのだが、少なくとも大都市と地方との対立を助長する動きが出てきている現在、そういった不毛の対立をなくすため、一刻も早く「共生の思想」、「平和の思想」の確立を急ぐ必要がある。21世紀は、分裂の時代ではなくて融合の時代でなければならない。20世紀における分裂という作用に対し、その反作用として、融合の動きが出てこなければならない。それが自然の摂理というものであろう。当然の帰結だ。融合の動き・・・、その芽生えは確かに感ぜられる。

分裂から融合に向かうには、分裂した二つのものをどう認識するか、その認識の仕方が問題となる。両義性をどう認識するかということだ。ここでは、中沢新一さんの「フィロソフィア・ヤポニカ(集英社、2001年3月)」に注目しておくことにしよう。中沢新一さんは、これからの「共生の思想」、「平和の思想」に哲学的根拠を与え、21世紀の地平を切り拓いていってくれるに違いない。中沢新一さんがこれから発展させようとしておられる田邊哲学の「種の原理」については、私のホームページ・・・・・・・・・・・・・・(../iwai/haiburi1.html)に紹介しておいたので参考にされたい。

さて、「都市と農山村との共生」という問題(これについては、是非、私のホームページ../iwai/kyousei.htmlを参照されたい。)、或いは「大都市圏と地方経済との共生」という問題は、そういう認識論から出発してその解決を図らなければならない。大都市の問題もさることながら地方の振興は大事であるし、地方都市の問題もさることながら農山村地域の活性化は大事である。大都市と地方、都市と農山村という二元性の中で、両義性をどう認識するか。要は認識論の問題である。大都市と地方をどう認識し、都市と農山村をどう認識するのか。都市と農山村との共生というときの共生ということの意味は具体的にどういうことなのか。大都市の問題は大都市の問題であるが、なおかつ地方の問題である。都市の問題はもちろん都市の問題であるが、なおかつ農山村の問題でもある。

劇場国家にっぽん

私は、広島時代、ロマンある地域づくりということを言いながら、交流とか連携の必要性を訴えてきた。21世紀の世界における・・・・大事なキーワードは、「共生」、コミュニケーション、連携である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(私のホームページ../tiiki/index.htmlを参照)。

「共生」とコミュニケーションと連携、この3つの言葉は少しずつニュアンスが違うけれど、哲学的には同根の言葉であり、「共生」というのは多少相手を傷付けてもいい。相手を殺すというようなことがなければ、「共生」というのは多少相手を傷付けてもいい。コミュニケーションというのはそういうことがあってはいけないわけで、相手の立場になって物事を考える。何も同調する必要はない。連携となると、一部でいいから、「それはいい、よし一緒にやろう」というようなことで、同調しなければならない。このように少しずつニュアンスが違うけれど、哲学的にはまあ同根の言葉である。だから、21世紀は、共生社会を目指そうといっても良いし、コミュニケーション社会を目指そうといってもいい。連携社会を目指そうといっても哲学的にいえばまあ同じようなことである。

さて、違いについて少々・・・・・。違いがあるから共生が必要であるし、違いがあるからコミュニケーションが必要である。違いがあるから連携が必要になってくるのである。バラバラで一緒・・・・。違いを大切にし、違いの中に自分を見つけるたびに出よう!・・・・・違いを求めて漂泊の旅に出よう!・・・・・・漂泊の旅を続ける中に、自ずと自分の寄って立つべき地域(コミュニティー)が見つかるであろう。

今私がここで言う地域とはコミュニティーのことであるが、コミュニティーとは、社会的な意味で、共生、コミュニケーション、連携の最小単位である。社会的な意味での基礎的な単位と考えてよい。この基礎的な単位を私たちは大切にしなければならないのである。

私たちは地域でさまざまな人と語り合い、共鳴を覚える。そればかりではない。地域の風土と響き合って、豊かな感性を磨いていくのである。地域のプラットフォーム(私のホームページhttp://www.kuniomi.gr.jp/chikudo/seisaku/pfi/plathome.htmlを参照)は、そういったコミュニケーションを楽しむためになければならない。そういう風土との響き合いを楽しむためになければならない。地域を生きる人々と地域に生きる人々が集い、また旅の人々が加わって、コミュニケーションや響き合いを楽しむのだ。

地域に生きる人々が集うためにはマルチハビテーションが前提になるのだが、マルチハビテーション政策を前提として、地域のプラットフォームが形成されなければならない。

地域の人と大都市の人、それに漂白の旅人、・・・しかも産、学、官、野の雑多な人々。そこに宇宙との響き合いがある。21世紀においてわが国が備えていなければならない感性がそこに育まれていく。21世紀の私たちは、地域のプラットフォームを生きていかなければならないのである。

けだし、これからの地域づくりは、人々や風土との響きあいを大切にして、さまざまな舞台装置を作り上げていくものでなければならない。地域がそっくり劇場であるかのごとく・・・。

PFIと劇場国家にっぽん

@、現在の世論において、公共事業に関連して借金についての誤解がある。建設国債は、借金といえば借金かもしれないが、通常言うところの赤字国債とは厳に区別されなければならない。まずこういう認識をしっかり持つことが肝要である。とはいうものの、建設国債といえども将来的には逐次減らしていかなければならないだろう。それを実現するのはPFIしかない。

A、今、金融のビッグバンがわが国経済の最大の課題になっているが、わが国の金融は、従来の間接金融から直接金融に切り替わっていかなければならないといわれている。とりわけプロジェクトファイナンスが大事である。公共事業におけるプロジェクトファイナンス、それはPFIである。

B、技術力、企画力、計画力。それらは現在民が官を越えた。公共事業の企画、計画、設計、施工、管理において、民間のノウハウを活用していかなければならない。それを実現するのはPFIしかない。

C、イギリスのブレア首相にならって、わが国も第3の民主主義革命を進めなければならない。そういう脈絡の中で、これからは公共事業にも住民参加は不可欠で、NPOを大いに活用していかなければならないのだ。また、プロジェクトファイナンスの証券化、これを大いに進めることによって、国民の公共事業への参加を可能としていく必要がある(私のホームページ../iwai/4pfi3.htmlを参照)。これらを実現するのはPFIしかない。

さて、以上の4点のうち、@の借金問題が現下における一番の問題であると思われるので、ここでは、そのことについて特に触れておきたい。PFIにおける長期債務負担行為は借金かどうかという問題だ。

イギリスでは、地方政府を中心にPFIが盛んに行われているが、PFIにおける長期債務負担行為が借金かどうかという問題は存在しないようである。長期的な財政規律を如何に図るかという問題は当然のことであり、PFIにおける長期債務負担行為といえども自ずと規律が必要だが、会計上はいわゆる借金とは区別して考えられているようである。つまり、PFI契約に伴うサービス購入は、バランスシート上、オフバランス化されることが前提であり、会計上は「長期債務」を構成しないことになっているようである。

そこで、ここでは、PFIにおける長期債務負担行為が借金かどうかということについて少し考えてみたいと思う。

PFIについては、VFM(バリュウフォマネー)が前提であり、しかもその中には事業の実施が早くなるとかならないとかは関係がないということになっているので、少なくとも利子については事業者の負担でなければならない。元本については少しでも安くなるか、同じ元本でいいサービスが受けられるということでなければならないが、少なくとも利子は事業者の負担ということが大前提である。こういう大前提のもと、PFIの長期債務負担行為が借金かどうかということについて考察を進める。

PFIの契約、これは官民の契約だが、官民の契約において利子は官が負担しないことになっているので、PFIの契約においては利子という概念は存在しない。民間事業者は、当然、利子を稼がなければならないのだが、官側つまり施設の管理者は利子を支払う必要はないので、PFIの契約書において利子は付随していない。したがって、PFI契約書は、売買の対象にならないものである。債権というものは売買が行われる。売買が行われるところには当然売買価格というものが発生し、それは変動する。投機の対象にもなり得るということだ。思わぬ変動により利子が嵩めば、支払不能になる、つまり破産ということも起こりうる。これに対しPFIの契約については、利子の変動により公的機関が支払不能つまり破産になるということは起こらない。

PFIにおける長期債務負担行為といえども自ずと財政上の規律が必要だが、会計上はいわゆる借金とは区別して考えるべきである。つまり、PFI契約に伴うサービス購入は、バランスシート上、オフバランス化されることが前提であり、会計上は「長期債務」を構成しない。

公共事業については、当分の間、前年同額の予算を続けていくべきで、その中で、借金を減らしていく、つまり国債額を減額していくべきである。その減額に対応して、PFIの事業量を増やしていく。そうすれば公共事業量は減らないで済む。つまり、PFIを活用すれば、公共事業を減らさないで財政再建が可能だということだ。もちろん、公共事業の前年同額というのは、わかりやすく説明するためにおいた説明上の仮定である。実際は、国力の指標であるGDP、国民のニーズなどを勘案の上、公共事業の量は変動させざるを得ないであろう。大事なことは、公共事業の必要性というより財政再建の観点から減額した分は、PFIによりリカバリーするということだ。公共事業というものは景気に左右されずに国力に応じ着実に行われなければならないのである。

私がPFIを推し進めようとしている理由は、すでに何度も述べているように、財政上の観点のみならず、サービス向上の観点、金融近代化の観点、第3の民主主義改革という観点などがあるのだが、財政上の観点からは以上述べたところにより今後PFIを欠かすことはできない。

最後に、劇場国家にっぽんの実現を夢見ながら私の話を終わることとしたい。

私たちは、これから21世紀において、グランドワーク、エコミュージアム、サステイナブルコミュニティーなど、諸外国のあたらしい地域づくり手法を大いに学んで、地域の風土を活かし、地域のプラットフォームをつくっていかなければならない。これを実現するのはPFIしかない。

劇場国家にっぽんは、地域を生きる人々と地域に生きる人々の・・・・・プラットフォームを基礎として、宇宙と響き合える・・・・「知のトポス」なるものを大切に育てていかなければならない。地域を生きる人々と地域に生きる人々、そして漂白の旅人、それらの人々みんなが、劇場国家にっぽんの・・・・、役者であり・・・・、スタッフである。

 
 
 
 
 
 

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