マスコミなどの弊害

 

 私は先に、『 真の歴史好きでないと創造力は発揮されない。伝統もそうであって、真の伝統を理解している者でないと創造力は発揮できない。歴史と伝統の創造力とはそういうものである。 』・・・と述べたが、こういう見解は、辻井喬の「伝統の創造力(2001年12月、岩波新書)」からの・・・ほとんど受け売りであることをお断りしておかなければならない。さて、その辻井喬はその著書の中でこう言っている。

「かって自然主義、プロレタリア文学、新感覚派の主張などが烈しく議論を戦わせていた熱気が、今のわが国の文学にはない・・・云々・・・。社会が動いていないのではない。むしろ大きく変化しつつあるのだから、文学がそうした現実を映し出す機能を失ってしまったということなのだろうか。とすれば、老化したのは若者ではなくて文学の世界にかかわっている者たち全員の意識なのではないのか。いや、文学ばかりではない。わが国の文化芸術のいろいろな分野を通じて、老化というか無気力というか、未来の方向喪失といった状態が蔓延しているのである。とすれば・・・・、それこそ文学あるいは文化芸術が人々の感性に訴える必要がある時代なのだ、というふうに考えるべきなのではないのか。」・・・と。確かに、今は、歴史と伝統の創造力が衰弱してしまっている。マスコミなどの弊害も顕著である。何とかしなければならない。文学や文化芸術が、そして政治が創造力を取り戻さなければならない。そして、マスコミなどに負けないように人々の感性に訴えなければならない。感性の時代がやってきた。マスコミなどに負けてなるものか。

今日、わが国の文化が著しく創造力を失っている第一の理由は市場原理そのものにある。そういう意見もないではないが経済の変化が早すぎて創作活動が追いついていけないからではない。辻井がその著書の中でいっているように、市場原理(マーケット・メカニズム)と呼ばれる怪物がやはり曲者なのである。芸術性と商業性とは厳に峻別されなければならないのである。私は、政治もワイドショウ化してしまっていて、本来の政治が商業性の中に埋没してしまっている。そういう姿を見るときに、辻井の見解にはもろ手を挙げて賛成する。ちなみに、今政治では、国債発行額の30兆円というキャップがわが国の浮沈を決める・・・・最重要課題のひとつになっているが、これとて本来法律上の取り扱いも異なり・・・また本質的な性質をも異にするにもかかわらず、法律の議論も本質の議論を捨象した・・・・興味本位の軽薄な論調だけが目につく。すなわち、議論としては、いわゆる建設国債と赤字国債とを厳に峻別されなければならないのであるが、それがない。そういう基本的な議論はまったく捨象してしまって、興味本位の軽薄な議論だけに明け暮れている・・・・そのようなマスコミの現状を見るとき、芸術性と商業性とは厳に峻別されなければならないとする辻井の見解はまことに迫力がある。こういう正論に出くわすときふつふつと勇気がわいてくるのは私だけではあるまい。そうなのだ。少なくとも芸術家や学者、それに政治家は、商業性によって醸し出される風潮をこれからあるべき時代の流れと見誤ってはならない。辻井が言うように、芸術性と商業性を截然と区分する物差しが働く状態こそ時代の知性なのであるが、その物差しが消滅したかに見えるところに、今日の出版や映像にかかわるビジネスマンたちの困難がある。そしてそれがわが国の危機的状況を生み出している。

文化芸術の衰退感の第二の条件は、夢がなくなったということである。夢がなくては何か新しいものを創造しようとする意欲が湧いてくる訳がない。辻井は言う。戦後私たちの前に示されたアメリカン・デモクラシーを精神的支柱としたドリ−ムも、社会主義的平等の理想も、その実態が明らかになるにつれて色褪せていった。その過程で村落共同体から職業共同体へ、そして企業共同体へと姿を変えた日本的共同体も崩壊し、家庭も仮の枠組みでしかなくなった。明るく豊かで平和な社会とは何だったのか、それは所得倍増によって実現されるはずであったけれども、現れたのは消費社会と呼ばれる、浪費と猥雑な規範のない「自由社会」であった、と。まったく同感だ。私は、今、辻井がいうところの失われた「明るく豊かで平和な社会」を取り戻そうとしている。「劇場国家にっぽん」、「元気国家にっぽん」、「平和国家にっぽん」を提唱し、その実現にまい進しようとしている。みなさん、夢を持とうではないか。

商業主義からくるところの生活様式の画一化は、ヨーロッパ諸国・アメリカと比較して、わが国の場合、ことさら徹底しているように見えるのはなぜなのか。価値観の多様化、ライフスタイルの多様化という現象は着実に芽を吹き出しているようである。しかし、現在の主流は市場原理からくるところの消費の均一化であり、生活様式の画一化である。こういうわが国文化の衰弱を見ていると、「国家の知」が衰弱してしまったと思わざるを得ない。わが国はどうも・・・・「国家の知」の衰弱という・・・大変大きな問題を抱えているようである。「国家の知」の衰弱という問題は、もちろん経済だけの問題ではないし、ましてや芸術文化だけの問題でもない。政治をも含んだ・・・もっともっと根本的な問題である。

「国家の知」が衰弱したまま・・・・マスコミの横暴がこの国の行く末を危なくしているとの意見が少なくない。確かに、マスコミの作り出す風潮というものは時により国を危くする。直感でものを言うのが悪いのではない。偏った知識のまま直感で言うのが悪いのであって、現在のマスコミはその商業性のためであろうか、興味本位の報道が中心であって、科学的論理的な分析にもとづく中立公正な議論というものはほとんど見受けられない。繰り返して言うが、物事を直感で判断するのが悪いと言うのではない。そうではなくて、直感で判断したことを科学的に、論理的に分析して、客観的に説明することが大事なのである。そして大いに議論をすることが大事なのである。中立公正な議論というものを大いにやらなければならないのである。科学的論理的に分析する用意もなく、主観的な直感だけで事の善悪を云々することが悪いのである。現在のマスコミの弊害はそういう倒錯した価値判断がまかり通っているところに起因している。マスコミに登場する評論家の多くは、そういった科学的論理的に分析する思想的素養もないまま、自分は権威者であると錯覚して、直感的判断で世論を誘導している。ワイドショウはそれでいいかもしれないが、そういう誤った世論によって現実の政治が行われるようではたまらない。現在、マスコミなどで薄っぺらな議論がはびこっているのは、わが国のオピニョンリーダーたちの判断基準が衰弱していることの結果である。その上、「国家の知」が衰弱していてはもはや国そのものが衰弱せざるを得ないではないか。私が「国家の知」を取り戻そうと必死で「劇場国家にっぽん」を提唱し、哲学の勉強からやり直そうとしている所以はそこにある。田邊元の「種の論理」と西田幾多郎の「場所の論理」にもとづく・・・・知的な旅を進めていきたい。旅のシリーズとしては、「平安遷都を訪ねて」という旅と「武家社会源流の旅」という旅につづく第三回目のたびである。今回の「劇場国家にっぽん」という旅で私は、地道に、できるだけ仲間を増やし、できるだけ多くの皆さんと一緒にりっぱな舞台を作っていきたいと考えている。きっと誰かが立派な劇を演じてくれるに違いないと信じながら・・・。

「劇場国家にっぽん」は「響き合い」をテーマに芸術家の感性で町づくり、地域づくり、国土づくりを進めていこうとするものである。「知的な舞台」を作っていこうとするものである。芸術家の感性で「知のトポス」を作っていこうとするものである。「場所」である。したがって、西田幾多郎の「場所の論理」が関係するのはすぐにご理解いただけるだろう。しかし、何故、田邊元の「種の論理」が関係してくるのか。疑問に思う向きもないではないであろう。しかし、「知のトポス」は辻井喬の言う「伝統の創造力」が働く世界である。「響き合い」の素としてのリズムを発する「場所」のことである。したがって、田邊元の「種の論理」は欠かすことができない。

現在の教育改革論に致命的な欠陥が見られるのも、「国家の知」が衰弱していることに起因している。辻井喬によれば、2000年12月にまとめれた「教育改革国民会議」の報告書では、「伝統や文化」という言葉が何ヶ所か出てくるが、辻井の分析によれば、伝統と創造活動とを分離しているのは「伝統」というものをはきちがえている証拠である。真の創造活動というものは伝統の中から生じるのである。伝統とは、三好行雄が指摘するように(「伝統とその変容」、1990年、季刊現代文学)、たえざる生成と変容の繰り返しとしての持続においてのみ真に伝統でありうるのである。伝統と創造活動とは分離して考えてはならない。伝統は郷愁ではない。郷愁と同じように伝統をそのまま肯定していたのでは伝統の創造性は見えてこない。伝統の肯定の後に伝統を否定しそして再び否定するという作業を繰り返さないと伝統の創造性は息づいてこないのではないか。そのことは、辻井の著書「伝統の創造力」を読めばよく理解できるのだけれどここではその部分の引用を省略する。辻井が言うように、伝統と創造活動の分離は、文化芸術の活動の自由を保証しながら、やがて「伝統」を強制する政策へと道を開く危険性がある。まことに鋭い指摘である。そのとおりである。私は、「両頭截断」と言いながら絶対的な認識論の重要性を訴えているが、それは・・・田邊元の「種の論理」から出てくるところの当然の帰結である。私は、「劇場国家にっぽん」における芸術文化性の種は、田邊元の「種の論理」にもとづき考えていこうと思っているが、それは・・・・伝統と創造活動とを分離しないで絶対認識の舞台に乗せるということである。分離の危険性を指摘する辻井の指摘はまことに鋭い。「劇場国家にっぽん」の舞台づくりには西田幾多郎の「場所の論理」と田邊元の「種の論理」はともに欠かすことができないのである。これを言い換えれば、芸術的環境(知のトポス)の整備をすすめ、芸術の種(響き合いの種)を播くという作業になる。

Iwai-Kuniomi