中村雄二郎の「リズム論」と私

 

 中村雄二郎の「リズムの論理(リズム論)」は、中村自身も言うように人類文化の将来にあたらしい展望を開く上で役立つはず・・・・のすばらしい哲学である。私はその確信を得るまでに大分時間がかかったが、今ははっきりそう言える。中村雄二郎のリズム論を聞いたのは、平成4年9月だったから、もう10年程が経つ。その間ほとんど哲学の勉強はしてこなかったので、その間は、そういう予感はあったもののはっきりはそうとはいえなかった。そうはっきり言えるようになったのは「劇場国家にっぽん」に関する自説を思いつくまま書き始めたここ数日のことである。中村雄二郎の「リズムの論理(リズム論)」は、西田幾多郎の「場所の論理」及び田邊元の「種の論理」とともに、私の提唱している「劇場国家にっぽん」の骨格になると思われる。しかし、今ここで私が言いたいことは、それらが先にあって私の「劇場国家にっぽん」があるのではないということだ。逆なのである。

なお、「劇場国家」というのはひとつの国家像としてすでに概念が定着しているようであるが、これも最近中村雄二郎の著書を読み直して知ったことである。まことにお恥ずかしいかぎりであるが、私の国家象がその概念にあっているのかあっていないのかはともかく・・・・、私は、「劇場国家にっぽん」という言葉が気に入っているので、今後もこの言葉を使うことにする。関係者に多少の混乱を与えるようなことがあれば、お許しいただきたい。私の「劇場国家にっぽん」は、「芸術家の心をもくすぐるような芸術的・文化的な地域で、かつ、創造的な地域」というものを念頭においている。まだ、概念がしっかりとでき上がっているわけではないので、これからそれを求めての「旅」に出かけようという訳だ。ひょっとしたら「リズムの論理」という言葉についても間違った使い方をするかもしれないが、お許しいただきたい。指摘があればすぐに修正したい。

歴史に「もしも」はない。あるのは事実のみである。それが歴史というものであろう。そして我々は、身体を生きるのと同じように、歴史を生きている。我々が身体を動かすと同時に身体の動きが我々をつくっていくが、それと同じように、我々が歴史を動かすと同時に歴史の動きが・・・・混沌の世界の人間の生きる原理を教えてほしいと思う。

我々をつくっていく。そういう意味で、歴史は歴史をつくるのだ。ゴルバチョフは「歴史は歴史に遅れたものを罰す」と言ったが、蓋し名言である。

 我々は、我々を変えうる。それ故に我々の今を知らなければならない。歴史は、歴史を変えうる。それ故に歴史の今を知らなければならない。そして、今を知るということは、変えるということだ。今動いている歴史の今を知るということは、歴史を変えるということだ。今、世界における歴史的な動きはそれぞれがドラマだ。しかし、そのドラマは、紛れもない事実であり、歴史的な必然である。必然がドラマをつくるのだろう。そして、そのドラマは当然、歴史的な意味があって、それを知ることは、今を動かしている文明の原理を知ることであり、そしてまたこれからあるべき文明の原理(秩序=コスモス)を知ることだ。

 ところで、人間の心の深層部分は昔も今も変わっていない。したがって、宗教は本来、カオスに応じて変わらなければならないのだろうけれど、今もそのまま健在だ。しかし、カオスは大きく変わった。その変化するカオスに、世界はついて行けなくなっているのではないか。世界における冷戦後のカオスを見ていると、むしろ今の宗教というものが世界平和(秩序=コスモス)の邪魔になっているように見えてならない。

 私は、密教信者ではないけれど、密教の持つ奥義の深さとその創造者空海に憧れとでも言ったらいいような情念を抱いている。空海はインド哲学から生み出された金剛頂経系(精神の原理)と大日経系(物質の原理)との体系化を図った。空海は、不出世の、地球規模の宗教家であり哲学者であると思う。さればこの地球規模のカオスの時代に空海はもう一度現われ出てきてほしいと思う。人間の心の深層部分は昔も今も変わっていないので金剛頂経系は今も通用するだろう。しかし、文明は大きく変わったので、大日経系はもはや通用しないかもしれない。だから、空海を生き返らせて済む話ではないのだが、それでも私は空海に生き返ってほしい。空海は統合の知恵だ。そんな想いを持ちながら私は、宗教ではもはやこの世は救えないのではないかと思っている。やはり、ここでは哲学者が登板し、釈迦、孔子、ソクラテスやキリストなど偉大な四聖に想いを馳せ、できれば空海にも想いを馳せて、混沌の世界の人間の生きる原理を教えて欲しいと思う。

私がつくづく実感するのは、わが国の哲学者が怠けているように思えてならないことだ。国づくり、地域づくりの方向が見えない。ネオ・コスモスがおぼろげにも見えてこないのだ。これからあるべきコスモスを見いだす、それが哲学者の使命なのに、である。

わが国も今は新たなカオスの時代。世界のカオスと見て、それからわが国のコスモスを考える。私には直感でしか考えれないが、国づくり、地域づくり、川づくりの立場からそれを考え、実践している。これは当然のことと思うが、これからあるべきコスモスというものは、国づくり、地域づくり、川づくりにも当てはまるものでなければならない。逆に、これからあるべきコスモスというものを考えていくとすれば、私などが考えている望ましい国づくりのあり方、地域づくりのあり方、川づくりのあり方をも包含したものでなければならないだろう。ところがこれからあるべきコスモス(文明の原理=秩序)が明らかでない。哲学者が怠けているからだ。だとすれば、当面は、政治、経済、行政それぞれの立場、これからあるべきコスモス(文明の原理)を直感にもとづき感得し、それによって政治、経済、行政のあり方を考えるしか方策がないではないか。所詮、我々は直感でしか物事はできないのだが。

 以上は、拙著「桃源雲情」(平成6年12月、新公論社)から引用したものであるが、空海に対する憧れと哲学の重要性を述べたものである。そのころ、私は、広島で中国地方建設局長をしていたのだが、「中国・地域づくり交流会」という会をつくって、いろんなところで・・・・「ロマンある地域づくり」というものの必要性を訴えていた。ほぼ10年程前のことである。それが拙著「桃源雲情」に紹介してあるので、この「劇場国家にっぽん」と関係ある部分を再掲しておきたい。私は、あるシンポジュームで、J・ホールの「日本の歴史」に対する見解や中村雄二郎の「歴史観」を紹介した後、次のように述べた。

ロマンある地域づくりとは、その地域の自然的特性と歴史・文化的特性にもとづいて、人の感受性の深層部を震わせるよう気配りされた個性ある地域づくりであります。そのためには、それぞれの地域の自然や歴史・文化を語り、それを地域づくりに生かしていかなければなりません。そして、ロマンある地域づくりは、先にも言いましたように、本質的に連携というものを前提にしておりますので、豊富に存在するそれら歴史のネットワーク化を図らなければなりません。さらに、ロマンある地域づくりは、本質的に交流、コミュニケーションというものを前提にしておりますので、歴史・文化を生かした地域づくりの過程においても、歴史・文化をテーマにした交流活動が重要であります。しかも、それは、国際的視野に立つ、外国人も含めたものであることが望ましいと思います。一般の外国人にも、日本の歴史の特質、日本文化の特質、日本の特質というものを正しく理解してもらう、そういう努力が必要であると思います。地域において歴史・文化を語る、そして歴史・文化ををテーマに外国人も含め、いろんな人々と交流をする、国際的な視野にたってあたらしい地域文化の創造を目指す、それがこれからの時代における「歴史を生きる」ということであります。歴史を生きるとは、歴史を語ることであり、そしてそれは、あたらしい文化の創造であります。

 講演の内容は以上であるが、私は、ロマンある地域づくりについて、「感受性の深層部を震わす・・云々」と言っている。ここが大事なのである。実は、このシンポジュームの数日前に、私たち「哲学のみち研究会」に中村雄二郎さんをお呼びしたのである。先生は、講演の最後に・・・、「宇宙のリズム」を会場いっぱいに流され、私たちはそれにびっくりしたのだが、・・・・あとの飲み屋で・・・、私が先生に「21世紀はどういう世紀になるか?」と聞いたところ・・・・、先生は・・・、「私もまだはっきりしていないが、多分・・・、リズムの時代になるのでは?」という答えをされた。その後私は先生の著書を多少読んでみたりしてみたが、その言わんとするところが十分に判らないまま今日にいたっている。おそらくそれは西田幾多郎の「場所の論理」がきっちりとは理解できていないからだろう。追い追い「場所の論理」をきっちりと勉強していくつもりであるので、そのうちに先生の「リズム論」も正確に理解できるようになるものと思う。当分は、不十分な理解のままえらそうにいろんなことを言うことをお許しいただきたい。いずれ訂正すべきは訂正する。しかし、中村先生の「リズム論」を聞く前から、私は、私なりの地域政策論を持っており、それは今も基本的にはほとんど変わっていないと思う。それを上の紹介で示したつもりである。

したがって、今私の提唱している地域論は・・・・「リズム論」にもとづき提唱しているものではないし、同様に、今私の提唱している「劇場国家にっぽん論」は・・・・すでにある「劇場国家論」にもとづき提唱しているものではない。逆である。私の地域政策論を中村雄二郎の「リズム論」を使った説明したり、C・ギアーツらの「劇場国家」という名称を借用したりしているが、「論」の立て方としてはややいい加減なところがある。学問的ではない。そこは自分でもよく判っているつもりだ。しかし、それをわかった上で再度申し上げるが、「劇場国家にっぽん」という言葉は、引き続きそのまま、これからの新らしい国家像として使っていく。ご了承願いたい。

Iwai-Kuniomi