中村雄二郎の21世紀国家像

 

 

 先に私は、10年程前に書いた拙著「桃源雲情」の中から、「劇場国家にっぽん」と関係のある部分を引用した。その中に、「私がつくづく実感するのは、わが国の哲学者が怠けているように思えてならないことだ。国づくり、地域づくりの方向が見えない。ネオ・コスモスがおぼろげにも見えてこないのだ。これからあるべきコスモスを見いだす、それが哲学者の使命なのに、である。」というくだりがある。これは・・・・、まさに私の浅学を白状しているようなもので・・・・、まことにお恥ずかしいかぎりである。というのは、当時すでに、中村雄二郎先生が21世紀のあるべき姿を展望しておられたのだ。当時、私がそれをきっちり理解できなかったというに過ぎず、10年前における先生の展望はまさに正鵠を射たたものであったと、私は今やっと断言できるようになった。以下、10年前における先生の展望を紹介しておきたい(「デザインする意思」、中村雄二郎、1993年6月、青土社)

 

 各分野、とくに情報処理技術の発達によって、次第にはっきり見えてきた近未来風景から、もっと長い射程で21世紀中に人類がどのような生を享受できるようになるかが望見できるよになった。まず巨視的な展望をしておこう。

 人類のこれまでの文明史の諸段階は、大別して<自然社会>、<農業社会>、<工業社会>という順序で発展してきたが、今日では、単に<ポスト工業社会>としての<情報化社会>ではなくて、以前の三つの段階と並ぶような時期的な幅を持った<情報ネットワーク社会>が大きな可能性を帯びて浮かび上がってきたのである。これはまさに画期的なことである。(中略)

 

 そのことを別の面から裏づけてくれるのは、人間の脳機能の飛躍的で体系的な外化・外部化の進行である。脳生理学の教えるところによれば、大脳の機能は系統発生的に古い層をなす大脳周縁系(旧皮質や古皮質)の機能と、新しい層をなす連合性皮質系の機能とに分けられ、前者は、本能や情動を、後者は、論理的思考や意思決定をそれぞれ司るものとされている。このわけ方と結びつけていうなら、<自然社会>とは、前者の働きの優位な社会であり、<農業社会>とは、後者の働きが活発になって前者の働きとバランスがとれるようになった社会である。それらに対して<工業社会>は、後者の働きが前者の働きを圧倒した社会である、と言えよう。(中略)

 <情報ネットワーク社会>では、連合系皮質系の働きが、次第に高次なものに至るまで体系的・システム的に外化されるようになってきただけではない。さらにそれがシステム的に外化されるにつれて、人間の社会生活の多様な在り様から、大脳周縁系の働きまで情報機械として外化することが要求されるようになってきている。

 こうしてその結果、未来の<情報ネットワーク社会>では、まさに<人間と情報機械の共生関係>のなかで、大脳周縁系皮質の働きと連合系皮質系の働きとの、つまりは宗教・芸術と科学との、神秘主義と合理主義との、ひいては南型文化と北型文化との、あたらしい統合の可能性が開けてきたのである。また、そこでは、人間は一方では地球という母なる大地から飛び立って他の惑星や大規模な宇宙ステーションに住むこともできるようになる反面、他方では、自分の家、自分の一室にあって世界中のどこの誰とでもテレビ電話によって話せるだけでなく、情報的に世界を領有することさえできるようになるだろう。さらに、そこでは、身体的な力や強さは第二義的な意味しか持たなくなるから、身障者や高齢者などのハンディ・キャップもかってなく軽減されるだろう。家庭には紆余曲折があるにせよ、このようにかってなかったような可能性が開けてきている。

 

 では、来るべき<情報ネットワーク社会>では、いったい、どのような<基底となる価値>が要求されるであろうか。というより、どのような基底となる価値観あるいはエートスが人々の間で共有されるとき、21世紀の<情報ネットワーク社会>は、右に述べたような<人類未曾有の可能性>をよりよく実現できるであろうか。その問題をただ未来物語としてだけではなく、新情報処理の理論及び技術を開発する過程のプランに対する注文も含めて書くことにしよう。21世紀の<情報ネットワーク社会>は、つよく<人間と情報機械との共生関係>から成り立つ以上、開発・設計の段階でその情報機械にどのような役割を要求し、期待するかは、専門の研究者や技術者だけの問題でないからである。

 システム化された情報処理技術が高度に発達する未来の<情報ネットワーク社会>にあって、特徴的なことは、情報的に個々人が他者や社会や世界に対してかってなく開かれることである。ということは、個々人一人ひとりにとっての<選択の自由>が極めて大きくなることである。だが、可能性としてはそうであっても、だからといって、実際にみんながその可能性を享受できるとはかぎらない。それどころか、あらゆるシステムは一種の制度として惰性化し、人間あるいは個人を拘束してくることが多い。したがって、ここで何よりも必要なことは、氾濫する情報に流されずに、惑わされないような、自己決定し決断できるような、底力のある自己を確立することである。ここで自己というのは、無意識を含まないような意識的自我のことではなく、身体性をともなった自立主体のことである。しかも、このような自己は、情報のシステムあるいはネットワークから離れてあるのではない。むしろ、その結節点として、地球という生態系のうちに育まれ、成立するのでなければならない。ここに、ネットワークのなかにあって抽象的な存在になりがちな個々人の、大自然への着地があり、だからこそ、エコロジーがいっそう切実な問題になるのである。それに、自らが結節点にいなければ、ひとは情報のシステムを自ら使いこなすことはできない。また、情報ネットワークは、その使われ方一つによっては、個々人の可能性を広く大きく開くのではなく、その代わりに、統一された或い意思決定や共通の情報を押し付ける働きをすることもある。独裁者がそれを利用する虞ももちろんあるが、押しつける独裁者がいなくとも、横並びに同じ意見や感情を相互に強制し合う働きをすることがありうるのである。したがって、事態を裏側からいうならば、高度の<情報社会>では、個々人の立場は十分に尊重されることが必要であるし、個々人に対しても、他人や周囲のものたちと安易に同化しないようにすることが求められる。

 

 ところで未来の<情報社会>では、個々人と会社や地域社会との関係も少なからず変わってくるだろう。空間的、地域的な限定ははるかに弱まって、ノマード的・遊牧的な自由度が大きくなるからである。それによって知的な行動の範囲は拡がり、グループ的或いはボランティア的な小集団、また、自分の属する会社や地域社会を超えて、他の会社や地域社会との関係を持つことも可能になるだろう。そのような行動の範囲と自由度の拡大は、それ自体はいいことである。しかし、そうはいっても、個人はなんらかの拠点或いは場所を持つことなしには確固たる存在でありえない。その場合、現在でも有力な拠点になりうるのは家庭であろうが、その家庭にしても他の集団や組織にしても、<情報の相>のもとに否応なしに問い直されて、変貌せざるをえないだろう。

 ところで、先に述べた<文明史の諸段階>の観点からそのことを振り返ってみると、どうなるだろうか。<自然社会>では、その社会組織は、家族と血縁共同体から成っていた。それが次の<農業社会>になると、そこに古代国家が加わるとともに血縁共同体が地域共同体に変わって、家族・地域共同体・古代国家の三者がそこでの社会組織となった。それに対して<工業社会>では、前段階の地域共同体の代わりに職能共同体が生まれるとともに、古代国家が国民国家に変わって、家族・職能共同体・国民国家の三者がそこでの社会組織になった。(中略)

 国民国家或いは主権国家そのものは、そんなに急速にはなくならないどろうし、途中でいろいろな揺り返しもあるだろう。しかしそれでも、中期の趨勢としては、国境だけでなくそれにともなう主権の絶対性も、弱体化され形骸化されるだろう。そしてその代わりに、国連のもとにあってさまざまな分野で国際的な調整活動を行っている専門諸機関(世界保健機関、国際原子力機関、国際民間航空機関、世界気象機関、等々)のようなものがいっそう数多く張りめぐらされるようになる。

 つまり、来るべき<情報社会>においては、家族や職能共同体(つまりは家族や会社)とともに国民国家も風穴をあけられ、非実体化されるだろう。そして、それよりももっと機能的な組織のネットワークによってその働きがいっそう代替されることになるだろう。ということは、ここにおいても、底力のある自立した個人、人間的な魅力ある個人の存在こそが重要になり、その働きに期待されるところが多くなるということである。だからといって、組織や場所が必要でなくなくなるわけではなく、組織や場所は、積極的にそのような個人を育て、成長させる働きをもったものでなければならない。

 

先に私(中村)は、21世紀は、<人間と情報機械の共生時代>だと言った。ここで生ずる新しい問題は、情報機械が、とくに情報ネットワークがもはや人間のものでなくなることである。それは外化された脳として、人間の脳と交差・浸透しつつ働き、そこに人間も機械も変質することは必定である。しかし、そうであればこそ、人間と機械或いは技術との間に横たわる本質的な問題を突っ込んで考えておく必要がある。(中略)

 

 

 以上中村雄二郎の「21世紀をデザインする」という小論文のなかから、今私が提唱する「劇場国家にっぽん」に関連しそうな部分を少し長すぎるかもしれないと思いながら引用させていただいた。長々と引用する結果になったのは、この中村の展望が今まさに正鵠を射た唯一の哲学的将来展望であると考えるからである。これほど的確に時代を見通した人はいない。さすがである。哲学者を見直した。「21世紀をデザインする」という小論文は1993年6月に発刊された中村雄二郎のエッセー集6「デザインする意思」にすでに出ており、今ごろ何を感心しているのか自分の浅学を恥じ入る次第である。拙著「桃源雲情」で「哲学者はサボっている」と書いた私の間違いを今ここに訂正させていただく。哲学者は決してサボっていなかったのだ。それを見抜く私たちの力がなかっただけである。私たちこそサボっている。

 

 それにしても中村の脳生理学の成果を駆使しての哲学は見事である。ところで、中沢新一は、田邊哲学の「分有の法則」に関して田邊の発想を引き継ぎながら次のように言っている。『原初の絶対否定を媒介にして、「種性」と「個体性」というものが、発生したのである。この「個」と「個体性」が互いに媒介し、否定しあいながら、宇宙の中における人間の世界がつくられていく。そして、これらすべての過程を突き動かしているのが、「分有の法則」にほかならないのだ・・・・。』・・・と。動物発生学の知見を哲学に結びつけている点に注目していただきたい。これに関連して、私は先に、宇宙のフラクタル性に注目しながら細胞分裂に思いを寄せて次のようにいった。『 何故ビッグバンが起こるのかは問うまい。これはそのまま真実として受け入れればいい。同様に、なぜ細胞分裂が起こったり、なぜそういう原初の絶対否定(ビッグバン)を媒介にして「種性」と「個体性」というものが発生するのかは問うまい。これらもそのまま真実として受け入れて、そういう現象を生ぜしめている法則が「分有の法則」であることをそのまま率直に認めればいいのだ。』・・・と。いずれまた詳しく述べることもあろうが、それにしてもつくづく思うのは宇宙のフラクタル性である。脳生理学や電子物理学の成果が文明論や宇宙論に関係してくるとはまさに驚きである。その端緒を開いたのは梅棹忠夫であるのかもしれない。梅棹忠夫の「情報の文明学」(1988年、中央叢書)というのがあるが、そこでいわれているように梅棹が「情報産業論」を書き始めたのは1963年であるので、脳生理学の成果を文明学に応用しようと梅棹が思いついたのはひょっとしたらその頃にまで遡るのかもしれない。驚き以外の何ものでもない。

Iwai-Kuniomi