矛盾システムを生きる
私は 先に、現在が時代の大 きな変わり目であるという観点から、「日本の産業のかかえる問題点」に関する内橋克人の指摘を紹介しながら、次のように述べた。『 元気の種それ は・・・・コミュニケーション・・・、つまりさまざまなプラットフォームであるし、元気的環境それは・・・・自然や歴史・伝統・芸術の息づく場 所・・・・、つまりさまざまな響き合いの場所である。「ゲニウス・ロキ geiniusu loci」 (「土地の精神」)である。「劇場国家にっぽん」、「元気国家にっぽん」における国土政策の基本・・・・、それは、プラットフォームと響き合いの場所であ る。』・・・と。このなかで元気の種や元気的環境というのは、いま元気のない日本が・・・ともかく今後21世紀において元気を出すため、もっとも重要では なかろうかと思われる施策を・・・ソフトとハードに分けて表現したのだが、果たしてそれで良いのかどうか。
地 域のとり方はさまざまであるが、地域の課題に応じて施策の中身が違う。当然だろう。しかし、国全体の問題を考える場合も、地方の問題を考える場合も、都道 府県レベルの問題を考える場合も、市町村レベルの問題を考える場合も、源流地域という切り口で地域の問題を考える場合も、居住地区レベルの小さな地域の問 題を考える場合も、思想は同じであって、私は、「共生の思想」で施策のあり方を考えるべきであると思う。「共生の思想」を支える論理は、「種の論理」と 「場所の論理」ではなかろうかと考えているが、果たしてそれで良いのかどうか。
「種 の論理」からはコミュニケーションとかプラットフォームが、さらにいえば異業種文化との交流というようなものが、そして「場所の論理」からは自然や歴史・ 伝統・芸術の息づく場所とか響き合いの場所というものががそれぞれ重要な施策として浮かび上がってくるように感じているが、これもそういうことで良いのか どうか。
「共 生の思想」は<違いを認める>ことが基本であって、集中より分散、集権より分権が大事にされなければならない。行き過ぎを是正するという意味で、これを強 調して強調しすぎることはないが、他方において、これも行き過ぎを是正するという意味で、これからは分裂より統合、分化より融合がより重視されなければな らない。ところで、私は、昨年の参議院選挙で、小泉改革は断固やらなければならないけれど、<強者の論理で弱者を切り捨ててはならない>と訴えた。小泉改 革にその虞があると感じたからだ。私は、必ずしも、大都市と地方、都市と田舎という対立構造のみのことを言っているのではない。大都市にも高額所得者と低 所得者の対立構造があって、自由経済は往々にしてそういう対立構造を顕在化させる。対立は必要である。分裂、分化、対立によっていろんな矛盾が生じてこな いと創造のエネルギーは出てこない。私はそう考えているのだが、その創造のエネルギーによって何を創造していくのかといえば、新しい文化である。平和の文 化である。それら新しい文化、平和の文化というものは、分裂が統合へ、文化が融合へ向かう過程の中で生まれてくるのではないか。
佐 々木雅幸は、ニューヨークの場合だが、こう言っている(「創造都市への挑戦」、佐々木雅幸、2001年6月、岩波書店)。「好景気の中で拡大したサービス 業の雇用には大企業を顧客にする専門職種と個人を相手にする未熟練職種の二つのグループがあり、勤労者の所得は高額所得者と低所得者にはっきりと分かれ、 ますます両極への分化が激しくなってきた。」・・・と。彼によれば、ニューヨークの場合は、その低所得者のさらに下に、非合法の移民労働者が極端な低賃金 で働かせれていて、それを取り仕切る闇の世界が蔓延っているとのことである。闇の世界にはアングラマネーがつきものであるが、そのアングラマネーによって 金融市場が乱されて、<悪化によって良貨が駆逐される>という社会問題も出てきかねないということらしい。あんまり極端な対立構造はやはり好ましくない。
ニューヨークの場合は、プ ラット研究所というNPOの援助、それは政策研究、技術援助、教育活動、資金集めなど多岐にわたる援助のようであるが、そういうNPOの援助によって、低 所得者の住民参加のもと、住宅の再生を目指した地域づくりが行われているとのこと。対立がなくなるのではない。そうではなくて、大事なことは対立を超越す ることである。そしてやはり対立構造を超越するためには、住民参加が必要だということだろう。低所得者がなくなるのではない。低所得者が存在するそのまま の社会において高額所得者と低所得者との対立を超越するのである。住民参加にはコミュニケーションとプラットフォームが欠かせないということだろう。
こ のニューヨークの例が示すように、低所得者の住民とか高齢者や身体障害者などの・・・弱者に重点においた施策というものが、「創造都市」すなわち「元気な 都市」を創るうえで、今後の都市政策の中心になければならない。私にはそう思われるのだが、果たしてそれが正しい考えなのか。弱者を切り捨てるというので はもちろんないけれど、弱者に重点を置くよりむしろどちらかといえば・・・・強者に重点を置いて「創造都市」を目指すべきではないのかという・・・・・、 そういう考えもないではない。しかし、私は、やはり、老若男女、強者も弱者もともに共生しうる社会・・・、平和社会を目指さなければならないと思う。平和 社会・・・それは善も悪も共存する平和な社会である。・・・悪はなくならない。悪があって善がある。善があって悪がある。悪はなくならないのだ。しかし悪 は飼いならされなければならない。日々の生活の中でうまく飼いならされなければならないのである。それはとりもなおさず・・・・、これから私たちみんなが 向かうべき日々の生活文化であり、芸術文化が目指す平和社会ではないのか。だとすれば、そういう真の芸術文化社会を目指す・・・、そのことこそ真に創造性 豊かな都市をつくることになるのではないか。私にはそう思われてならないのである。
ま あ、いろいろと考えねば ならない問題があるようだ。それらは追い追い「劇場国家にっぽん」の旅を重ねながら考えていくことにしよう。急ぐまい。旅の始めに当たり、現在考えている 私の考えなり、どうしてもこれだけは欠かせないと思われる人の考えなりを紹介してきた。参考にすべき意見はまだまだ多いと思われるが、最後に、上に述べた 「創造都市への挑戦」から大事な部分を紹介して、次回からは逐次「旅」の報告をしていきたい。
「都 市の世紀」の本格的幕開けを前に、「国家の世紀」の行き詰まりと「国民経済の黄昏」がもたらした世紀末の閉塞状況の中で、欧米でも日本でも困難な現状を打 開するためのキーワードとして「創造性」が話題になっている。
すで に、1970年代末から福祉国家の見直しに直面していた欧米では芸術文化のもつ「創造性」に関心が集中している。
たと えば、イギリスでは「ニューレーバー(新しい労働党)を標榜するブレア首相が登場して、大規模な行政改革が行われている。そのポイントの一つ は、社会の創造的な力を引き出す芸術文化政策への転換であり、イギリス政府も広義の芸術文化産業を「創造産業(Creative Industry)という定義のも とで分類し直し、その「豊かさ創造能力」を引き出すために専門委員会を置き、振興策を打ち出そうとしている(文化・メディア・スポーツ省 「創造産業」)。
具体 的には、音楽、舞台芸術、映像、ファッション、デザイン、クラフト、美術品市場、建築、テレビ・ラジオ、出版、広告、そしてゲームソフトを含むソフトウェ アの各産業を「創造産業」として一括すると、1995年には140万人(全産業の5%)以上が雇用され、約250億ポンドの付加価値(GDPの4%)をあげる一大産業となって おり、その成長可能性が注目されるとしている。
アメ リカでは1997年2月に芸術と学術に関する大統領諮問委員会が答申した「クリエイティブ・アメリカ」と題する冊子において、アメリカ社会の創造性をどの ように高めるかという課題を投げかけている。
その 中で芸術と学術がもつ創造性こそアメリカ社会に多様性をもたらし、アメリカの民主主義社会の基礎を強化するものであるという理由から、芸術と学術を「(準)公共財」として位置付け、公共 部門が積極的に推進する政策を確立することが重要であると述べている。
以上 はイギリスとアメリカ の事情を紹介したものであるが、佐々木雅幸は、もっと大事な考えとして、野中郁次郎の説を紹介しながら、結論として、「都市や地域そのものが創造的でなけ ればならない」としている。そうだ。私もまったく同感だ。引用が長くなって申し訳ないが、もっとも大事なところなのでしばらく続ける。よく咀嚼してもらい たい。
日本 における「創造性」に関する議論は時代の閉塞感を打ち破り、新世紀にふさわしい社会や企業の新しいあり方を模索する動きと重なり合ってくる。焦点は個々人 の創造性を奪っている社会や企業のあり方をどのように変革するのかという点にある。
野中 郁次郎は最近の論文 (「ダイナミックな組織知に向けて」)の中で「創造する力は単に個人の内にあるのではなく、個人と個人との関係、個人と環境の関係、すなわち<場>から生 まれる」と述べ、知識創造の<場>を重視した企業経営論を展開している。この<場>とは、空間と時間とをあわせ持った概念であり、「現在の知識が十分に作 用していないとき、または新たな生存のレベルを打ち立てねばならないときに、知識の創造が主体的に生まれる」と言っている。
いっ たいどのような意味で 彼は「新たな生存のレベル」を問題にしているのだろうか。グローバルな金融危機の迫っている中で、単に「企業が生存し続けられるか」という認識であれば狭 すぎよう。今、まさにグローバルな構造変化や地球環境の危機的な状況に直面して、「都市や地域社会が生存し続けられるか」というレベルの問題を創造的に切 り開いていくことが我々に突きつけられているのではないだろうか。
した がって、我々の視点からすると、創造の<場>という点から見れば、企業の中だけでは狭すぎる。まず、企業が存在し、労働者が生活する「都市や地域そのもの が創造的でなければならない」と考えられる。
以上 であるが、けだしよく 言った。労働者が生活する<場>そのものが創造的でなければならないのである。生活文化が創造的にイキイキと息づかないといけないのである。生活文化とい うものは、社会の中の・・・・老若男女の、弱者も強者も、マジョリティーもマイノリティーもみんな含めた・・・全体から生まれ出てくるものであろう。だと すれば、若者よりも高齢者を、男性よりも女性を、強者よりも弱者をより重視する政策の展開が必要ではなかろうか。市場原理の競争社会の中で若者や男性や強 者は現在も幅を聞かしているし、規制緩和の中で、これからも高齢者や女性や弱者に比較して、相対的には、元気にやっていけるはずだ。規制緩和はドンドン進 めなければ国際競争に勝てない。河合隼雄がいうように、東西文明のはざまで、今後ますますひどくなるであろう「矛盾システム」をわが国は立派に生きていか なければならないのである。しかし、その矛盾を生き抜くことによって真の改革のエネルギーが出てくることをけっして忘れてはなるまい。