物語を生きる
河合隼雄さんがその著書「物語を生きる(2002年1月、小学館)」の中で「場所の重み」について書いておられるが、「劇場国家にっぽん」はまさにその「場所の重み」に注目し、人々にできるだけそれを体験してもらおうとするものである。その要旨をここに紹介しておきたい。
そういう場所の体験を通じて人々は感性というものを磨き、或いは想像力というものを鍛えていくことができると思うからだ。急がば回れ・・・・・、これからの日本は、仮に遠回りだと感じても、やはり王道を歩いていかなければならない。そこに気づくだけでも現在のピンチをチャンスに転ずることができるというものだ。構造改革も必要だし景気対策も必要だ。その緩急よろしきを以って今の危機的状況はともかく脱出しなければならないが、本来の構造改革としては、やはり王道を歩かなければならない。それは、私に言わせれば、新たな町づくりであり、新たな地域づくりであり、新たな国土づくりである。それが、何度も言うようで恐縮だが、「劇場国家にっぽん」を提唱する所以である。「劇場国家にっぽん」は、「場所の重み」に注目した町づくりであり、「場所の重み」に注目した地域づくりであり、「場所の重み」に注目した国土づくりである。中村雄二郎流に言えば、これからの公共事業はそういった「トポスの知」にもとづくものでなければならない。では河合隼雄は「場所の重み」についてどのようなことを言っているのか・・・・・。以下に、その要旨を紹介しておきたい。
物語において、特定の場所が大きい意味を持つことがある。それは、その場所自体が何らかの重要な特性をもっているようにさえ感じさせられる。(中略)・・・・。特定の意味をもつ場所、トポスという考えは、近代になって個人を中心とする考えが強くなるにつれて、急激に薄れていった。個人のあり方、性格が大切であり、それがあちこちと場所を移動しようとも、中心的性格は変わらない、と考える。ある人物が、ある場所において、何かを感じるとしても、それは、あくまでその個人の感じることである、と考えられる。これに対し、トポスの考えを重視する者にとっては、その場所そのものが、何らかの性格をもつと感じられる。「ゲニウス・ロキ geiniusu loci」(「土地の精神」とでも言うべきか)の存在を信じるのである。近代になるまでは、このような考えは、世界中のあらゆるところにあったと思われる。したがって、王朝時代の物語にトポスのことが大きくかかわってくるのも、当然のことである。
(中略)・・・。大和の長谷(初瀬)もトポス性の高い場所である。中世には長谷にまつわる多くの物語が生み出されている。長谷寺に参篭していると、夢によるお告げがある。そのお告げによって、いかに生きるべきかの指針が得られる。実際に、長谷に行ってみると、今でも、そこは山々に抱かれた奥まった場所として、特別の雰囲気を伝えてくれる。
近代は、そのような場所のゲニウス・ロキを殺してしまった。土地はまったく平板化されて、何も特別な精神や霊などと関連するものではないようになった。誰もが、どこへでも、好きなように行くことのできる「便利さ」を、われわれは獲得したが、何事にも犠牲はつきもので、それはゲニウス・ロキの殺害という犠牲の上に成立していることを、われわれは忘れてはならない。
現在、アメリカでは、いろいろなワークショップをするときに、「リトリート」するのが流行である。人里はなれたところに、何日間かすっこんで、精神的、心理的な体験をしようというわけである。それは、なんとかして近代を乗り越えようとする努力の現われと見ることができる。たしかに、都会の真ん中での集まりよりも、それは効果的であることは事実であるが、ゲニウス・ロキの大量殺害の後で、それらが簡単に復活してくれるのだろうか、と思ったりもする。プレモダーンの知恵が、ポストモダーンをどれだけ活性化してくれるのかはともかくとして、われわれは少しずつでも、このような努力を積み重ねていかねばならないだろう。そのような努力の一環として、トポスの知に満ちた物語を心をこめて読む、ということがある。
以上であるが、私としては、そうした物語を心をこめて読むと同時に、その物語を生みだしたトポスに出かけてほしい。そしてさらに言えば、場所によっては今なおゲニウス・ロキがいるので・・・・それを自分で探してほしい。歴史や伝統文化を尋ねながら・・・、ゲニウス・ロキの語りかけるところの物語を聞いてほしいのだ。そして、その物語の場面を頭の中に描いてほしい。創造力は歴史や伝統文化を肯定し、否定し、さらに否定するところから生じる。まずは、歴史や伝統文化を好きになることが大事である。私が、「劇場国家にっぽん」を提唱する所以である。