今までのWhatsNew

 

今までのWhatsNewにアンカーを張り整理しました。

一番下の「謹賀新年」は今年の正月のもの。一番上の「南方熊楠」は6月末のもの。

 

 実は、「サステイナブルコミュニティー総合研究所」のあと、

「大畑に学ぶ」というページを「世界水フォーラム(京都で三月に開催)」を意識してアップしました。

余りにも専門的なので、すぐにカットして、次の「世界平和をどう実現するか」につづけたのです。

しかし、一時は「大畑に学ぶ」というページが存在したので、それをここにアップしておきます。

ここをクリックして下さい!

 

南方熊楠

「身体と脳の学習プログラム」

神話と現実

結婚の条件

鳥の巣あさり

文化論と文明論

「かぐや姫」の物語とは

世界平和をどう実現するか

サステイナブルコミュニティ総合研究所 

ウソ管、バカ管

ハイデッガーの技術論を超えて 

光と陰の生活空間を生きる・・・穏やかな感性を磨く・・

光と陰の生活空間を生きる・・・鋭い感性を磨く・・・

「コミネ」

コミケ63

ネットワーク

謹賀新年

 

昨年までのWhatsNewはここ!


南方熊楠

 

 

私は先に、「鳥の巣あさり」という話の中で、『 神話というものはすこぶる永い年月をかけて民族の知恵によって磨きが得られた教訓であるので、まったく荒唐無稽と思われる中にも、真実に根ざした大変重大な内容を含んでいる。かぐや姫にもそういう神話の部分を含んでいる。それが「燕がもった子安貝」である。「鳥の巣あさり」という現在もヨーロッパで行なわれている習俗と重なる部分を含んでいるのである。こういうと、かぐや姫の物語が何故ヨーロッパの習俗とつながりをもつのかという新たな疑問がでてくるが、それは後ほど説明していくとして、ここでは女性の性器の形をした燕と子安貝のもつ謎に迫っていかなければならない。』と述べ、かぐや姫の物語が何故ヨーロッパの習俗とつながりをもつのかという疑問については説明を保留してきた。ようやくここにきて、中沢新一の「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈v(2002年1月、講談社)を紐解きながら、簡単ではあるが、その説明をしておきたいと思う。すべて中沢新一の受け売りである。

 

まずは、南方熊楠を紹介しなければならない。南方熊楠は、日本の生んだ型破りの学者だが、中沢新一によれば、近代日本が生んだ最大の博物学者だそうである。以下は、「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈v(2002年1月、講談社)における中沢新一の説明である。

 

『 (南方熊楠は、)和歌山県田辺(たなべ)市に生まれた、学問と山野をかけめぐることの大好きな少年でした。記憶力抜群、幼い頃から読んだ本は片端から暗記してしまうほどの頭脳の持ち主でしたが、学校で学ばされることの無意味さにほとほと絶望した彼は、日本の大学には行かず、アメリカに行ってしまった人です。サーカス団といっしょにキューバに渡ったり、孫文(そんぶん)と友情を結んだり、破天荒な行動で周囲をびっくりさせていましたが、大好きな植物研究、とくに粘菌という植物の研究はかたときもおこたったことがありませんでした。それからイギリスに行って、はとんど独学で膨大な勉強をしました。そして、民俗学、人類学、考古学、植物学、動物学を全部総合したような学問である博物学の大変な大家になり、一時はロンドンの大英博物館の職員にもなったほどでした。

 この南方熊楠が若き日に書いた有名な論文が、この燕石についての論文なのです。熊楠は滞英時代、雑誌「ネイチャー」にすぐれた論文を発表して、大変な話題になりました。しかしそれもつかのま博物館でイギリス人を殴り倒したりしたのがたたって、いづらくなったのか日本に戻ってきました。しかし日本の学問の世界では、外国で学位ひとつとってきたわけでもない熊楠には冷たく、なかなか認められずに、和歌山県でまったく独力で研究を続けたのでした。

 これからしばらく、この熊楠の研究した「燕石」と「シンデレラ物語」を取り上げて、神話研究の新しい方向性を模索する試みをおこなってみたいと思います。「燕石」と「シンデレラ物語」のふたつの研究を通して、南方熊楠はきわめて未来的な価値を持つひとつの構想を語ろうとしています。つまり、極東にみいだされるフォークロアが、ヨーロッパのケルト文明の伝承にあらわれてくることの意味を、彼は時代にさきがけて思考したのです。

 熊楠は柳田国男などの民俗学者の見解とは違って、世界的分布をおこなう神話伝承がきわめて古い来歴を持つものだと考えました。ユーラシア大陸の両端にあらわれる神話的思考のあいだに、不思議な構造的一致がみられる。その理由はユーラシア大陸での人々の拡散が起こる以前の、たぶん中石器あたりの時代に、これらの伝承の原型が共有されており、そののちたがいが遠く離れた場所に生活するようになっても、基本構造だけは保存されたとみるような考え方だったと思われます。熊楠自身はそういう言い方はしていないのですが、彼の着想を見ていると、そうい構想があったとしか思えません。 』

 

 

中沢新一は、南方熊楠の研究した「燕石」と「シンデレラ物語」をもとに神話研究の新しい方向性を打ち出しているのだが、詳しい話は「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈v(2002年1月、講談社)を読んでいただくとして、ここでは中沢新一の言いたいことの筋道だけを紹介しておきたい。

 

ブルターニュ地方とウエールズ地方は、ケルト文明の伝承がいまも色濃く残っている。ケルト文明は、ヨーロッパに展開した新石器文化を土台にして、青銅器・鉄器時代にかけてヨーロッパの実に広い範囲にわたって発達していったのだが、ローマ帝国がこの地に進出してくるようにると、征服や混血や文化混交が進行していく中で、純粋な部分を保ったケルトの人々はしだいしだいにヨーロッパの辺境に追いやられていき、とうとうブルターニュ地方とウェールズ地方に残るだけとなってしまった。そういうケルト文明の伝承である「燕石」の話がアメリカ大陸の先住民の神話や伝承に見受けられるということを指摘したのは南方熊楠だし、そういうケルト文明の伝承である「シンデレラ物語」と似た話が中国の古い民族の伝承に見受けられるということを指摘したのも南方熊楠だが、神話の基本構造とその世界的広がりに着目し、神話のもつ哲学的な意味を世に問うているのは中沢新一である。中沢新一は次のように言っている。

『 竹取物語が書かれたのは九世紀、同じ伝承が現代のブルターニュにもあってかなり古い来歴を持つと推測されていること、また竹取物語と非常によく似た話が中国の少数民族である苗族やチベット族にも伝わっていること、などのことをあわせ考えてみますと、この燕石伝承は大変に古い来歴を持つ人類的な分布をする伝承だということが、わかってきます。 』・・・・と。

 

 

それでは次に、「シンデレラ物語」について、中沢新一の行なっている哲学的思索を勉強することとしたい。人類最古の哲学の勉強の始まり始まり!

  


 

「身体と脳の学習プログラム」

 

 

 今、養老孟司(ようろうたけし)の「バカの壁」(2003年4月、新潮社)という本がベストセラーになっている。彼は、かって永く東大の解剖学の教授をしていて、まあいうなれば脳の専門家である。「唯脳論」などという本も書いているのだが、彼のいうことには吃驚することが多く、目からウロコが落ちるようなことが多い。今回の本もそうだ。例えば、『 現状は、NHKの「公平、客観、中立」に代表されるように、あちこちで一神教が進んでいる。それが正しいかのような風潮が中心になっている状況は非常に心配です。安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真理がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。』・・・・などと言われると、もう吃驚してしまう。しかし、養老孟司の言うことは真実であると思う。科学的であると思う。

 

 さて、私は先に、『 神話を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。宮沢賢治の童話や草野心平の詩を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。私たちは、そういう「場所の持つリズム性」に着目すべきであって、子供や若者はそういう「場所」の発するリズムに耳を傾けなければならないのである。「場所」の発するリズム、それは風土の発するリズムということかもしれないが、そういうリズムに耳を傾けることによって具体性の世界と深く結び付いた感性というものが養われるのである。』・・・と述べた。そのために「劇場国家にっぽん」などという国づくりの構想を提唱しているのだが、ここではその補強として養老孟司の身体論を紹介しておきたい。

 

 養老孟司は、その著「バカの壁」の中で「身体」について極めて重要なことをいっている。人間は「身体」を通じていろんなことを学習していく。学習というと「脳」の問題だと思われがちであるが、そうではなくて、「身体」を通じて学習する部分というのが非常に大きい、というのが養老孟司の認識の基本である。これは、西田幾多郎の「場所の論理」や中村雄二郎の「リズム論」と同じ認識である。「戦後、我々が考えなくなったことの一つが<身体>の問題です。」と養老孟司は鋭く指摘しているが、確かに戦後の日本には身体をあまり動かさない頭でっかちの・・・まあいうなれば不健全な人間が増えてしまったようだ。不健全な人間が多くなれば国家自体も健全であるはずがない。国家が健全でなければいよいよ不健全な人間が増えていくという・・・・悪循環に陥ってしまう。それを正すには、やはり原点の問題、つまり「身体」の問題に戻ることだ。養老孟司は次のように言っている。

 

『 江戸時代には、朱子学のあと、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一(ちこうごういつ)。すなわち、知ることと行なうことが一致すべきだ、という考えです。しかし、これは「知ったことが出力されないと意味がない」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がぐるぐる回らなくては意味がない、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。

 赤ん坊でいえば、ハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。ハイハイをして動くと視覚入力が変わってくる。それによって自分の反応=出力も変わる。ハイハイで机の脚にぶつかりそうになり、避けることを憶える。または動くと視界が広がることがわかる。これをくり返していくことが学習です。

 この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第にその入出力を脳の中でのみ回すことができるようになる。脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。

 赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく。学生も様々な新しい経験を積んでいく。しかし、ある程度大人になると、入力はもちろんですが、出力も限定されてしまう。これは非常に不健康な状態だと思います。

 仕事が専門化していくということは、入出力が限定化されていくということ。限定化するということはコンピュータならば一つのプログラムだけをくり返しているようなものです。健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしていることなのかもしれません。

 私自身、東京大学に勤務している間とその後では、辞める前が前世だったんじゃないか、というくらいに見える世界が変わった。結構、大学に批判的な意見を在職中から自由に言っていたつもりでしたが、それでも辞めてみると、いかに自分が制限されていたかがよくわかった。この制限は外れてみないとわからない。それこそが無意識というものです。

 「旅の恥はかきすて」とは、日常の共同体から外れてみたら、いかに普段の制限がうるさいものだったかわかった、ということを指している。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることに繋がるわけです。』

 

 そうなのだ。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることだ。私たちは、新しい世界を知るためには、ともかく身体を動かすことを考えねばならない。本を読んだりテレビを見ることも必要だけれど、私たちはもっと身体を動かすことを考えなければならない。そう考えれば、私たちの学習プログラムは無限にある。私たちは、養老孟司が言うように、「身体と脳の学習プログラム」をいろいろとつくり出さなければならない。私たちは、「場所のもつリズム性」に着目して、さまざまな舞台装置をつくっていかなければならない。私たちは、「場所のもつリズム性」に着目して、さまざまな仕掛けをしていかなければならないのだ。新しい地域づくりだ。新しい川づくりだ。新しい森づくりだ。新しい村づくりだ。いろんな人たちの出合いの場づくりだ。それが「劇場国家にっぽん」のねらいである。・・・・みなさん、大いに旅に出かけよう!「劇場国家にっぽん」の旅を続けよう!

 

 


 

神話と現実

 

 

 中沢新一がその著書「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈v(2002年1月、講談社)の中で述べているように、神話の思考方法というものは、具体性の世界と深く結び付けられたものであって、ひとつの哲学といってよいものらしい。哲学は、科学である。科学にも西洋科学と非西洋科学があるし、西洋科学にも古典科学と近代科学がある。いろいろな言い方があるが、科学は自然に関する学知を指し、広義には学問と同義である。神話の思考方法は、文化人類学的科学と呼んでいいと思われるが、レヴィ=ストロースが「野性の思考」の中に見出した「具体の科学」そのものである。

 

 現在、アニメーションが大流行であるが、これにはよほど注意が必要だ。具体性の世界とはおよそかけ離れた単なる幻想の世界で快感だけを追い求めているととんでもないことになる。私たちは、麻薬による幻覚症状に快感を覚えるようになってはならないのと同じように、幻想の世界における快感原則の怪物をはびこらせてはならないのである。中沢新一は、上記の著書で次のように言っている。

 『 今日の日本では、子供たちの文化を中心として、広範囲にバーチャルな領域の開拓が進んでいます。最先端のCGやアニメなどでも、視覚器官と大脳の視覚野の働きだけに世界を限定して、そのなかで創造力と欲望の動き操作したり変形したりして、快感原則を満足させるために、きわめて高度な技術が動員されています。こういう領域の技術開発において、日本人は他にぬきんでた達成を行なっています。

 しかし、同時にそのことが社会全体の病理を悪化させるのに力を貸していることも、否定することのできない事実です。アニメやゲーム産業を見ていますと、知性活動が大脳の視覚野を中心とするごく狭い領域に限定され、しかもその活動はバーチャルで、ということは現実の世界の確かな手ごたえのあいまいな中間領域で行なわれて、その領域を動いていうのがプログラムを動かし操作する技術的知性とこの神話的思考だけだというのが、大きな特徴になっています。子供の思考は神話の思考法と深い関係をもっています。ですから、今日の日本文化の光景は、きわめて高度な技術をもった子供のままの精神がつくりあげている、という批判を招くことになっているのです。

 どうやら現代日本のバーチャル文化は、神話的思考の様式だけをかってのまま温存しているように思えます。「様式だけ」といったのは、そこには人類最古の哲学として生れ成長してきた神話のもつ豊かな「内容」が捨てられて、ただその形態的な様式だけが、異様な快感原則の怪物として、あたりを跋扈(ばっこ)しているような気がしているからです。』

 

 

 私は、アニメーションを肯定的に見ていて、これからの発展に大きな期待をもっている。もちろん、中沢新一が言うように、形態的な様式だけが異様な快感原則の怪物としてあたりを跋扈(ばっこ)するという・・・この現在の風潮は改められなければならない。やはり今必要なのは哲学である。哲学的な「内容」をもった物語はりっぱな文学であって、そういう文学としてのアニメを増やしていかなければならない。私たちはアニメを文学といいうるレベルにまで高めなければならないのである。そのためには、哲学者は、中沢新一がそうであるように、神話を語らなければならないのである。神話のもつ豊かな「内容」というものを語らなければならないのである。さらには、宮沢賢治の童話や草野心平の詩などのすぐれた文学を子供や若者のためにもっともっと語らなければならないのである。そして、アニメのクリエータたる若者は、いろんな神話はもちろんのこと、宮沢賢治の童話や草野心平の詩などのすぐれた文学をわがものにしなければならない。神話を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。宮沢賢治の童話や草野心平の詩を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。私たちは、そういう「場所の持つリズム性」に着目すべきであって、子供や若者はそういう「場所」の発するリズムに耳を傾けなければならないのである。「場所」の発するリズム、それは風土の発するリズムということかもしれないが、そういうリズムに耳を傾けることによって具体性の世界と深く結び付いた感性というものが養われるのである。

 

 もうひとつ大事なことは、動物や植物、鉱物など自然の世界についての具体的な知識を身に付けなければならないし、社会や人間そのものについての理解を深めなければならないということである。そういう具体性の世界と深く結びついたところに神話や宮沢賢治の童話や草野心平の詩は存在している。もちろん神話のみならず文学においても、怨霊や妖怪など架空のものが登場したり、地獄など架空の世界が語られたりする。「注文の多い店」や「蜘蛛の糸」などのように、私たちが日常生活で経験することの絶対無いおおよそ荒唐無稽な物語が語られることもある。しかし、それらは現実の何かを言い表すためのものであって、具体性の世界と深く結びついたものである。具体性の世界との結びつきというものがまったくない単なる幻想は科学とはおおよそ無縁のものである。単なる幻想をもてあそんではならない。科学と非科学との違いを判断するにはよほどの知識と注意が必要だが、かのカール・セーガンが力説したように、非科学はこの世の中を混乱におとしめる。

 

 それでは最後に、中沢新一がその著書「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈v(2002年1月、講談社)の中で述べている説明を紹介しておこう。

 『 神話はいつも現実の具体的な存在や事象を離れては、ありえないものでした。神話の素材は五感がとらえる現実ですし、創造の材料となっていたのは、現実の社会構造や環境や自然の生態のことです。神話はそうした具体的な現実から完全に離れてしまわないところで、いわば「つかず離れず」の関係でつくられ、また語られていたものです。』 

 

 それではいよいよ南方熊楠(みなみがたくまぐす)の登場だが、

その前に、「身体と脳の学習プログラム」というものを紹介しておきたい。

ここをクリックして下さい!

 


 

結婚の条件

 

 

 かぐや姫が5人の貴公子に示した5つの条件の内・・・誰かが・・・どれかを満足すれば、結婚できる。そうでない場合は、「族内婚」のためかぐや姫は遠い自国に帰らなければならない。「族外婚」というのはむつかしく、なかなかうまくいかないものだなあ。竹取物語が語る神話的要素は、そのことを教えているのかもしれない。私の勝手な想像である。4つの条件は親族の応援がないと達成できないのかもしれないが、「燕の持つ子安貝」は、本人の持つ「愛の力」があればそれを得ることができる。結婚というものは、外的条件もさることながら、やはり一番大事なのは本人の持つ「愛の力」であるということであろうか。竹取物語が語る神話的要素は、そのことを教えているのではないかと思ってみたりしているが、神話について勝手な解釈は慎まなければなるまい。

 なお、ちなみに、「竹取物語」は男のあるべき姿を語っているように見え、女のあるべき姿はシンデレラの物語がそれを語っているように見えるのだが、どうであろうか。今私は、「環太平洋の環」における神話を問題にしている。私たちのよく知っているシンデレラではなくて、アメリカインディアンの神話に注目することとしたい。

 

 それでは、中沢新一の「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈i2002年2月、講談社)からアメリカインディアンの神話を紹介することとしたい。まずはここをクリックして「見えない人」の話を読んでください!

 

 如何でしたでしょうか。

 

 それでは、最後に、「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈i2002年2月、講談社)で述べられている中沢新一の解説を紹介して結婚哲学に関する一連の話を終わりたいと思いますが、中沢新一は、神話に関連して極めて重要なことを述べていますので、次回はその点に触れておきたいと思います。それでは、「見えない人」についての中沢新一の解説です。

 

 『 ここにはインディアンの結婚哲学が表明されていますが、その哲学はヨーロッパ版シンデレラにあらわれているそれとは、異質な考え方です。人類的な分布をするシンデレラ神話は、総力をあげて宇宙の重層的諸レベル間に仲介機能を発見しようとするもので、結末のハッピーエンドにしても、そうした仲介の一形態にすぎないものだったはずです。それがヨーロッパの民話に変形されると、ほかの仲介機能を、ただひたすらに社会的仲介機能である結婚のハッピーエンドになだれ込んでいこうとする傾向が、あらわれるようになってしまいました。そのために、神話の全編が「外見的なものへの欲望」によって汚されてしまっている、とインディアンは考えたのではないでしょうか。

 このお話の最後で、「見えない人」にみいだされたこの少女が、霊性高い妹の手によって、火傷の傷を消してもらい、ちりちりの髪も美しく梳(くしけず)ってもらって、みたこともないような美しい女性になったとあるのを見て、「何だ、やっぱり<見えない人>だってきれいな女の人のほうがいいんじゃない」と言ってひがんでいる人がいるかもしれませんから、ひとこと最後に言い添えておきますが、ここでいわれている<美しさ>は星や野の花や動物のような美しさのことであって、人間のお化粧やおしゃれがつくりだせるものでもなく、こういう自然な美しさは誰の中にも潜んでいるものなのだから、みなさんもどうかご安心ください。 』

 


 

鳥の巣あさり

 

 

私は先に、かぐや姫の物語には実に驚くべき内容を含んでいるということを申し上げた。そして、岩崎書店に「復刊・日本の名作絵本(2002年)」の1場面を紹介し、その絵の中にある子安貝の謎をみなさんに問いかけた。子安貝とは、女性の性器そのものではないかという問いかけ・・、そして燕がもった子安貝というのは一体全体何を意味しているのかという問いかけであった。さあ、それでは、いよいよその謎に迫っていきたいとおもう。

 

まずは、いつものように、中沢新一の言うことをお聞きください。今回は、「人類最古の哲学(中澤新一著、2002年、講談社)」からです。

 

人類最初の・・・・哲学の勉強の・・・・始まり、始まり・・・・!!!!!

 

『 「鳥の巣あさり(Bird Nester)」という民間習俗が問題なのです。ヨーロッパの民間伝承にもよく出てきますが、思春期を迎えた少年を年上の青年が、高い木の上にかけられた鳥の巣に登らせて、卵などを取ってこさせるという習慣ですが、このとき少年に先輩たちから初めての性の手ほどきがおこなわれると言われています。皆さんは、野鳥の巣の中に手を突っ込んだことはありますか。とてもいい感じがするでしょう。僕は何回もあります。なかなかあったかくて気持ちがいい。そして間違って卵のつぶしたりする。このとき卵でぐちゃぐちゃに濡れた手の感覚が、大人になってから体験するさまざまな性的感覚と、とてもよく似ています。「鳥の巣あさり」はとても性的な意味を持った習俗なのですね。 』

 

面白いですね。人類最後の哲学というのは面白いですね。是非、皆さんも「人類最古の哲学(中澤新一著、2002年、講談社)」をよんで、人類最古の哲学を勉強してください。今日ここでは、かぐや姫の物語に焦点を絞って話を進めていきたいと思いますが、まず最初に申し上げたいことは、哲学というのは科学だということです。

事実を踏まえた学問体系というものがあって、その一部に哲学という部門があるわけですから、哲学では事実からはなれた荒唐無稽なことを問題にしてはいけません。今証明はできなくても、事実は多分こういうことではないかという・・・仮説を考え、その仮説に従って思考を進めていくことは必要なことです。しかし、それはあくまでも仮説ですから、そういう仮説にたてば今問題にしている不思議なことの説明ができるのではないかという・・仮説ですから、その仮説を事実と履き違えてはいけないのです。そういう注意は必要ですが、中沢新一がいうところの人類最古の哲学も、哲学は哲学ですからいろんな学問的な研究を踏まえて真実を語ろうとしているということをまずご承知おき願いたい。

芸術作品や文学作品は、おおよそ真実とかけ離れた・・・私たちの感情だけに訴えるまったく荒唐無稽なものもあるが、よい作品は、その人の直感により、できるだけ真実に迫り真実を表現しようとしている。ですから、芸術作品や文学作品に真実の部分がないわけではないし、それを人生の糧として生きていくことがいけないというわけではないが、そこはよほど注意をしないといけないかと思う。その点、神話は違う。神話というものはすこぶる永い年月をかけて民族の知恵によって磨きが得られた教訓であるので、まったく荒唐無稽と思われる中にも、真実に根ざした大変重大な内容を含んでいる。かぐや姫にもそういう神話の部分を含んでいる。それが「燕がもった子安貝」である。「鳥の巣あさり」という現在もヨーロッパで行なわれている習俗と重なる部分を含んでいるのである。こういうと、かぐや姫の物語が何故ヨーロッパの習俗とつながりをもつのかという新たな疑問がでてくるが、それは後ほど説明していくとして、ここでは女性の性器の形をした燕と子安貝のもつ謎に迫っていかなければならない。

 

中沢新一いわく、『 「竹取物語」が書かれたのは9世紀、同じ伝承が現代のブルターニュにもあってかなり古い来歴を持つと推測されていること、また「竹取物語」と非常によく似た話が中国の少数民族である苗族やチベット族にも伝わっていること、などの事を考え合わせて見ますと、この燕石伝承は大変に古い来歴を持った人類的な分布をする伝承であるということが、わかってきます。 』・・・・と。

 

『 [Bird Nester]ということばには別の意味もあります。これはフランスなどでは今も使われているかもしれませんが、深窓の令嬢をものにするという意味です。なかなか手に入りにくい女のところへ忍んで行ってものにするということです。この場合、巣というのはベッドのことです。なかなか男たちになびかなかった女性を、ベッドの上で性の世界に連れ出していくという意味にも解釈できますから、ここにも「をかぐや姫」的な主題が見え隠れしていますし、そういう女性を「外に連れ出す」のに、燕が海から巣に運んできた石ないし貝が大いに効果を発揮しているわけですから、ここにもひとつの関連が潜んでいるのがわかります。 』・・・・・と。

 


 

文化論と文明論

 

仕事の関係もこれあり、また徳一ゆかりの山・・・「湯の岳」を歩きたいと思い、連休を利用して福島県は「いわき」に行って参りました。徳一のことはいずれシリーズとして紹介していきたいと考えていますが、今回の出張は仕事が半分趣味が半分でしたが大いに収穫がありました。もう一度ゆっくり行きたいと思っています。ここをクリヤーしないと東北が語れませんからね。

旅から帰って古い新聞の切り抜きを見ていたら、ふと・・梅棹忠雄の文化論と文明論と題しての談話が目につきました。徳一の勉強もそのことと関係がありますので、いずれ徳一のシリーズを始める前に梅棹忠雄の考えに少し触れておきたいと思います。梅棹忠雄は、私ども京都大学山岳部の先輩でありますが、御存じのように立派な文化人類学者です。でももうお年ですのでちょっとピンぼけのところがあるように感じますが、私の誤解でしょうか。

 

梅棹忠雄の言う通り、「文化は、前の時代から受け継がれた価値の体系である。それに対して文明は、建築や道具などの装置系と法律や経済などの制度系で構成されているシステムである。」・・・と思います。梅棹忠雄の言う通り、文明論は、「現代における生活の構造論」であると思いますが、私がピンぼけではないかと言うのは、梅棹忠雄の考えでは、彼がいろんなところで言っているように・・・・文化というのは遊びみたいなものと考えており、現代文明というものをまあ肯定的に考えている点であります。

 

今回の記事(平成15年3月11日、日経新聞)でも、「文化論と文明論は別の次元のものとして論じなければならない・・・・・中略・・・・。現代において必要なのは、むしろ文明論である。文明論は生活様式の問題であり、おもいれや価値の問題ではない。」・・・・と述べ、「現代文明の充実と発展をこそ考えなければならないのではないか。」と述べています。

 

今まで私が述べてきたように、今問題になっているのは現代の科学文明そのものであります。中沢新一いうところの「モノとの同盟」が必要なのであります。心の問題を真正面から論じなければならないのであります。それは「伝統の持つリズム」であり、西田幾多郎の「場所の論理」や中村雄二郎の「リズム論」をさらに発展させなければならないのではないでしょうか。以上は文明論における「伝統」の問題です。こういった思索を深めるため、わが国から立派な哲学者や文化人類学者が多数出てこなければいけませんね。多分出てくるでしょう。以上は文明論です。

ところで、文明論はともかく、わが国だけのことを考えても・・・・「伝統」ということは大事であります。わが国は「モノづくり大国」にならなければなりませんが、それに必要なものは「伝統の創造力」であります。まあ、「モノとの同盟」を判りやすくいえば、文明と文化との折り合いをどうつけるかということではないでしょうか。

 

「現代において必要なのは、むしろ文明論である。」と述べ、「現代文明の充実と発展をこそ考えなければならないのではないか。」と述べ、あたかも現代の科学文明を肯定するかのごとくいうのは、やはり年からくるピンぼけ以外の何ものでもないように思うのですが・・・・・・。 

 

文化と文明については、発言番号1337と発言番号1340で述べましたが、最新の考えを聞いていただきました。

ところで、最澄と徳一のあの宗教大論争は、文化論なのでしょうかそれとも文明論なのでしょうか。いずれのアップを乞う御期待・・・・・。

  


 「かぐや姫」の物語とは

 

 

 かぐや姫の物語は誰もが知っている。わが国の古典文学の中で、子供たちにもっとも親しまれている物語のひとつだ。正式には竹取物語という。竹から生れた光り輝くお姫様という設定はまったく童話的であり、事実、童話として古くからいろんな書物が出ている。しかし、この物語の原本は、もちろん子供用として作られたのではなくて、すぐれて大人向けの文学作品である。《源氏物語》の〈絵合(えあわせ)〉巻では,《竹取物語》を〈物語のいでき初めの祖(おや)〉とのべているとおり、平安朝初期の、かなで書かれたわが国最初の文学作品である。伝統的な形態の中に創造的な契機をふくめて,貴族社会の俗悪性と人間的な愛情の美しさを巧みに描き出した物語で,たわいなく,おもしろく,美しく,深みのある文学作品である。

 

あらすじは次のとおりである。 

昔,竹取の翁という者が竹の中から見つけ出して育てた3寸ばかりの小さな女の子は,3月ほどで輝くばかりの美女となった。その後,翁は黄金(こがね)の入った竹を見つけることが重なり,翁の家は豊かになった。

〈なよ竹のかぐや姫〉と名付けられた娘の,その美しさに求婚する者も多く,とくに熱心な5人の貴公子に姫はそれぞれ難題を課し,その解決を結婚の条件にしたが,結局,5人とも失敗する。最後には帝の求婚もしりぞけた姫は,十五夜の晩,迎えに来た天人たちとともに,みずからのくにである月の世界へと昇ってゆく。

そののち,姫に去られ傷心の帝は,姫が形見に置いて行った不死の薬ももはや不要だとして,それを天に最も近い駿河国の山で燃やすよう命じる。たくさんの士(つわもの)が命を受けて登り,薬を燃やしたので,その山を富士(不死と,多くの〈士〉に掛ける)と名づけ,その煙は今も山頂に立ちのぼっていると伝えられる。 

 

以上のことは多くの人がおおむね知っていることである(詳しくはここをクリックして下さい!)。今私がここで皆さんにお知らせしたいことは、実は、かぐや姫の物語には実に驚くべき内容を含んでいるということだ。まあ、ゆっくりお聞きください! 

かぐや姫に求婚する5人の貴公子は姫からそれぞれ難題を吹っかけられ、5人とも失敗するのだが、その中に中納言石上麿足(いしがみのまろたり)という人がいる。実在の人物である。壬申の乱のときに活躍している人で、何故この人がこの物語に出てくるのかは謎である。このこと事態今後の研究課題だが、今ここではそのことは問題にしない。中納言石上麿足(いしがみのまろたり)がかぐや姫から受ける難題のその中味である。「燕の巣にある子安貝というものをとってきてくれたら、結婚しましょう。」というのである。「燕の巣にある子安貝」というのが実は曲者で、どえらい内容を含んである。

 

まずは子供の絵本から、中納言石上麿足(いしがみのまろたり)がその「燕の巣にある子安貝」を取りに行って失敗する場面を見ていただきたい。問題の注目すべき名場面である。何が注目すべきかというと、この場面の絵を適切に描いた絵本というのがなかなか見つからない。まあ、私は探し回ったわけではないけれど、本屋に行くたびにこの場面を探し続けやっと見つけたという代物(しろもの)である。岩崎書店に「復刊・日本の名作絵本(2002年)」というのがあって、そこに私のイメージする名場面が描かれている。まずはそれを見てもらいたい。

 

 

 

 

 

 

5ばんめの いそのかみちゅうなごんは、

「つばめの すのなかにある こやすがいを ください」

と、かぐやひめにいわれて けらいに つばめのすを みつけさせては、

こやすがいを さがさせましたが いくらまっても みつかりません。

とうとう しんぼうできなくなって じぶんで みきへのぼりましたが、

つばめのすのなかに こやすがいが あるとおもったのは、つばめのふんだったのです。

そのうえ、それをとるひょうしに、はしごをふみはずして、したへおち、

こしをくじいてしまいました。

こうして 5にんの くらいのたかいひとたちは、そろって かぐやひめを

およめさんにすることに しっぱいしました。

 

 

さて、みなさん、この絵の中にありますが、子安貝とは、女性の性器そのものではありませんか?

 

一体全体、燕がもった子安貝というのは何を意味しているのでしょう????

それでは、いよいよその謎に迫っていくことにしましょう。

 

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世界平和をどう実現するか

わが国の役割

 

先ほどのニュースでブッシュ米大統領とブレア英首相の共同記者会見をやっていた。ブッシュ米大統領とブレア英首相は8日午前(日本時間同日夜)、北アイルランド・ベルファスト郊外ヒルスボロー城で2日目の会談を終え、共同記者会見した・・・そのニュースである。その後に発表した共同声明も合わせて、両首脳はフセイン政権打倒後のイラクに新たな暫定政権を樹立する方針を示したものの、明確な「勝利宣言」はしなかった。また、戦後復興について「国連に死活的役割がある」という表現では合意したが、人道支援と暫定政権の承認以上の内容を示さなかった。ブレア首相はブッシュ大統領の米国主導路線を崩せなかった模様だ。明確な「勝利宣言」はしなかったものの、私は、実質的な勝利宣言であると感じた・・・・。これからの国際的な関心は、どのような暫定政権ができるかである。

 

暫定政権の構成について、ラムズフェルド米国防長官らは、米国防総省と太いパイプを持つイラク反体制派の最大組織「イラク国民会議(INC)」のチャラビ代表に主導的な役割を期待しているといわれる。

チャラビ代表は米英軍と合流して住民蜂起の工作活動などを行うため6日、イラク国民会議の兵士約700人をイラク南部に投入し、自らも現地入りした。イラク反体制派間の暫定政権での主導権争いを有利に展開する意図があると見られる。チャラビ代表の素早い動きの影には国防総省の強い働きかけがあったと指摘される。

しかし、チャラビ代表はヨルダンで横領の有罪判決を受けていることや、イラク国内やアラブ諸国からの反発が強い。パウエル国務長官をはじめ国務省はチャビラ代表に難色を示し、イラクの部族指導者や現政権当局者と連携をはかっている。

国防総省と国務省の対立は暫定政権の顔ぶれだけにとどまらない。国務省は、民政責任者にラムズフェルド長官の友人で退役将軍のガーナー氏をあてることを最終的に認めたが、国防総省の影響が大きくなり過ぎるとの警戒感が依然として残っている。

 

まあ、そんなことで・・・・アメリカ内部の力関係、アメリカとイギリスとの関係、アメリカと国連との関係など・・・・これからも国際関係は大変だが、私たち日本としては・・・・、ここはじっくりと冷静に考え、将来のわが国の歩むべき方向を見定める必要がありそうだ。世界平和の実現のためにだ・・・!!!

私は、アメリカという国は、いろいろと批判はあるけれど、これからも世界のリーダーであると考えている。しかし、アメリカの力の政策(ハードパワー)では世界平和は実現しないとも思うのである。世界平和実現のためには・・・どうしても日本のソフトパワーというか平和ひとすじの地道な努力が必要である。これから世界が必要とするのは、中沢新一がいうところの「モノとの同盟」である。平和の原理を見極めそれを実行することである。日本の役割は実に大きい。

 

世界平和実現のため私も微力を尽くしたいと思う。そのささやかな一歩が「劇場国歌にっぽん」である。平和の民、それは「東北」であり「環太平洋の環」であり、地球最後の楽園「マダガスカル」である。「東北」というか「環太平洋の環」の思想を世界に伝え、「マダガスカル」を中心に魂(タマシイ)の再認識をしながら、「モノとの同盟」を目指さなければならない。キーワードは、魂(タマシイ)の「タマ」である。

 

1、アメリカという国

2、国連主義の破綻

3、アメリカの誤算

4、国際世論をどう形成するか

5、国際社会の一体性回復は可能か

6、イラク戦争の戦後復興は市場化が基本か

  


 

 サステイナブルコミュニティ総合研究所 

 

 

 サステイナブルコミュニティ総合研究所は、

青森県下北郡、つまり下北半島の北の端にある。

大畑町である。

 

わが国にサステイナブルコミュニティというものを最初に紹介した、サステイナブルコミュニティの第一人者・川村健一さんが私にかねがね大畑に連れていきたいと言っていた。なかなか機会がなかったのだが、去る1月にやっと大畑行きが実現した。どういうところかさっぱり知らないまま勝手に想像していたのだが、一見普通の港町である。 

 

昔は背後の山地が青森ヒバの宝庫で随分栄えたそうだが

、今はほそぼそと沿岸漁業で食っているまあ普通の漁村である。 

漁は津軽海峡のイカが主たるものらしい。 

 

その大畑が、サステイナブルコミュニティ総合研究所の誕生で、21世紀はこれから、ひょっとしたらモデル地域として世界から注目されるかもしれない。もちろんこれからの取り組み次第である。私の希望的観測によれば川村さんも応援していることだしきっとそうなるに違いない。いやそうなって欲しい。私はそんな願いを持ちながらこの文を書き始めている。大畑は実に素晴らしい。サステイナブルコミュニティ総合研究所設立の趣旨は確かにすばらしい。そのリーダーの角本孝夫さんがすばらしいのは言うまでもない。そしてやっぱり大畑の皆さんがすばらしい。しかし、私がそんな予感を抱くのは、やはり大畑の持つ風土ではなかろうか。その風土に根ざした大畑原則が素晴らしい。大畑原則については先に触れたが、詳しくはこれからである。まずは大畑へ出かけよう!

 

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ウソ管、バカ管

 

みなさんこんにちわ!

 いつものごとく昨日も民主党の菅さんが「緑のダム」などとウソをついていました。ダムの代わりに木をうえれば良いのだそうです。ダムなどは止めて植林の予算を増やすべきだとの意見です。そうすれば相当雇用が増えるではないか?

 そういう主張ですが、通常、そういう管さんの意見を聞けばほとんどの人は「そうだ!」と思うのではないでしょうか。菅さんの主張は、一見正しいように思えます。しかし、専門家が見ればウソであることは明らかです。

 山は大切です。森は大切です。緑は大切です。私は若いときから山が好きで山にのめり込んだ時期もありました。現在も、日本山岳会やAACK(京都大学学士山岳会)などの会員であり、奥秩父に山小屋を持っています。山は大切です。森は大切です。緑は大切です。私は自然の重要性について人より深く認識しているつもりです。

 しかし、緑というか森は、大切だけれど・・・・ダムの代わりはできないのです。それが真実なのです。緑というか森は、保水機能に自ずと限界があって、ものすごい豪雨とかものすごい渇水とかには、保水機能という意味では全く役に立たないのです。もちろん、山の崩壊を防ぐという意味で・・・、山を守る重要な役割を果たしているのですが、洪水調節や渇水補給という面というか・・・・ものすごい豪雨とかものすごい渇水のときには、全くダムの変わりにはならないのです。これはもう学問的に明らかであります。はっきりしているのです。

 民主党代表の菅さんがそういう真実を知らない訳はないと思います。真実を知っていてそういうウソをついているものと私は思っています。もし、そういう真実を知らないのなら馬鹿と言わざるを得ません。民主党代表の菅さんは、ウソつきか馬鹿のどちらか・・・と言えばちょっと言い過ぎでしょうか?

 

 現在平成15年度の予算を審議中ですが、管さんは今の予算案には無駄なものが相当あるとお考えのようです。それを盛んに宣伝しておられるのです。ダムなどの公共事業をカットすれば相当予算が浮いてくる、公共事業にはずいぶん無駄がある・・・・という訳ですね。その代表がダムだと言いたいようです。いろんな主張をするのは管さんの自由ですが、ウソはいけませんね!!!!ウソはだめ!!!!イラ管変じてウソ管??? もしウソだと知らないで言っているのなら、イラ管変じてバカ管か??? 

 

 いずれにしろウソ管もバカ管もいけませんよ!!!!

 ウソをつくのではなく・・・、正しい認識のもとで・・・・・、私達は、真面目に、山のことを考え、森のことを考え、緑のことを考えていきたいものです。

 真面目に自然のことを考え、真面目に人生を考え、真実をきっちり見つめながら、山の人々と私達は語り合っていかなければならないのです。ともかく・・・・ウソはいけません!!!!真実を語りなさい!!!!

 私は何が何でもダムが良いと言っている訳ではありません。遊水池で洪水調節ができるところや水が豊富にあるところでは当然ダムを作る必要はありません。洪水調節や渇水補給の必要があるかどうか、その点については十分検討する必要があるのです。ダムを作らなくて良い場合も当然あります。後日述べるように、大畑原則のような立派な考え方があってひとつのコミュニティーで問題が収束する場合はそれで当然良いのです。したがって、私は、ダムを作る必要がないということがケシカランと言っている訳ではないのです。そうではなくて、ダムを作る必要がある場合に、その変わりに緑のダムを作れば良いと言う・・・・そのようなウソをつくのがケシカランと言っているのです。もう一度声を大にして申し上げます。

 ウソをつくのではなく・・・、正しい認識のもとで・・・・・、私達は、真面目に、山のことを考え、森のことを考え、緑のことを考えていきたいものです。

 真面目に自然のことを考え、真面目に人生を考え、真実をきっちり見つめながら、山の人々と私達は語り合っていかなければならないのです。ともかく・・・・ウソはいけません!!!!真実を語ろうではありませんか!!!!

 


 

ハイデッガーの技術論を超えて 

                         

 ハイデッガーの技術論というのがある。昭和40年9月に理想社から訳本が発行されているので、それを日本語で読むことができる。中沢新一は「緑の資本論」の中でハイデッガーの技術論を取り上げ、それとの比較をしながら「光と陰の哲学」を提唱している。中沢新一の新しい技術論は、それを読んでいただければいいのだが、若干判りにくい。哲学に焦点が当てられているためだろう。そこで私は、その理想社の訳本をもとに私なりの解説を加えることとしたい。なお、中沢新一の「光と陰の哲学」による新技術論の必要性についてはすでに「モノ的技術の復権」というエッセイhttp://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/8hukken.htmを書いているのでそれも参照してもらいたい。

 

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光と陰の生活空間を生きる

    ・・・穏やかな感性を磨く・・・

 

 

 園田稔によれば、本来、わが国の「マチの構造」は、通常の日常的な生活空間のほかに、「鎮守の森」や「里山」というような日常的ではあるが非日常的な生活空間から成り立っていた。日常的ではあるが非日常的という意味は、お祭りとか山菜取りとか非日常的な生活形態の「場所」であるので非日常的、しかし行こうと思えば容易に行くことができるので日常的・・・という訳だ。ところが、近代の都市化によって、そういう「マチの構造」がすっかり崩されてしまった。これからの町づくりには、そういう「鎮守の森」や「里山」というようなコスモロジー(宇宙との響き合い空間)を考えねばならないが、都市では現実になかなかむつかしい。したがって、私は、園田実も言っているのだが、流域単位でそういう「鎮守の森」や「里山」に代わるコスモロジー(宇宙との響き合い空間)を作らなければならないと考えているのである。本来は日常的な生活空間に持つべき「鎮守の森」や「里山」を、それぞれの流域単位に日常的な行動範囲を広げて考えていこうではないかという訳だ。いずれにしろ、私たちは、そういう日常的な「場所」で、厳密な言い方をすれば日常的ではあるが非日常的な「場所」で、「歴史と伝統に根ざした精神文化のその奥ゆきを生き、陰にかくれたひそかなリズムに耳を傾けて、鋭い感性を磨かなけばならない。」・・・のだ。

 もちろん日常的な生活空間の代替は流域に限る必要はない。流域を都市の延長線上にとらまえて本来その都市の中にあるべき「鎮守の森」或いは「里山」を上流域に考えようということであるが、人によっては、流域に限らずその他の地域において、別荘生活をする人もいるわけでそれはそれでかまわない。これも日常的な生活形態である。要は、そういう日常的な「場所」で、「歴史と伝統に根ざした精神文化のその奥ゆきを生き、陰にかくれたひそかなリズムに耳を傾けて、鋭い感性を磨かなけばならない。」・・・ということなのである。

 だから、旅はその持っている本質的な意味が違う。旅は、どこまでも非日常的である。旅を日常的にしている人は特別の人である。通常、旅はたまに出かけるものだ。非日常的な体験をするという意味では同じであるが、非日常的な体験というか非日常的な生活、厳密に言えばどこまでも非日常的な生活が旅である。今ここで、私が申し上げたいのは、日常的には出かけるわけではない、例えば「お台場」のような非日常的生活空間においても、「鎮守の森」や「里山」のような「陰の空間」が必要であるということだ。中沢新一の「光と陰の哲学」からすれば、私に言わせれば、これからあるべき「劇場国家にっぽん」の「場所の論理」からすればということになるが、「光と陰の哲学」からすれば、日常的な空間でも非日常的な空間でも、「光」と「陰」の部分が必要である。「お台場」は、冒頭に述べたように、「お台場」はまさに市場原理により激しいリズムを発している世界最先端の「場所」である。「光」の「場所」である。しかし、そういう「光」の「場所」であっても、「場所の論理」にしたがう限り、「陰」の部分を有していなければならない。この点が大事なのである。それでは「お台場」のお台場たる所以の「陰」の部分を紹介することとしたい。

 

では参ろうか。

参ろう!参ろう!

 


 

光と陰の生活空間を生きる

・・・鋭い感性を磨く・・・

 

 

 昨年は「コミケ」で終わり、今年は「コミネ」で始まった。

考えてみれば「お台場」の御蔭である。

「お台場」の蔭は第3お台場だ。

こう言ってもほとんどの方は私の言っていることがお判りにならないだろう。

理屈は後から。

 

まずは第3お台場に行ってみよう。

百聞は一見に如かず・・・だ。

 

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「コミネ」

 

 

 私は先に、『 私は、哲学を語るには絵が書かせないと思う。特に子供や若者に哲学を語るには、言葉ではダメで、絵が唯一の手段となる。そのためには、「コミネ」すなわちコミック・ネットワークを利用するのが良い。「コミネ」だ! 私の提唱する「劇場国家にっぽん」では、「コミネ」を欠くことはできない。』と述べた。

註:「コミケ」の予備知識はここです

 註:「コミネット」略して「コミネ」

 

 それはこういうことだ。つまり、私は、以前に、「熊の主題をめぐる変奏曲」という中沢新一の論説を紹介した。太古の記憶、それは人類最初の哲学と言えるのだが、そういう太古の記憶が今なお残っていて、多くの神話や民話に影響を与えている。「かぐや姫」や「シンデレラ」は、大変重要な哲学を含んでいる。したがって、「かぐや姫」や「シンデレラ」の絵本は、幼児に対する立派な哲学書である。

 

 多くの民俗学者によって、そういう人類最初の哲学の系譜に連なる・・・・神話や民話が数多く集められている。そして大事なことは、それらのうち幼児や子供向きのものを・・・・絵本やアニメなどいわゆる「コミック」で語ることが今求められている・・・ということだ。世界平和のために・・・・だ。今こそ人類は人類の知恵を学ばなければならないのである。それには幼児や子供の時に立派な絵本やアニメを見させなければならない。

 

 中沢新一言うところの「東北」、これは彼のべつの言葉で言えば「環太平洋の環」ということであるが、「人類はるかなる旅」をつづけて・・・その「東北」に生きる人びとの声に私達は耳を傾けなければならない。私の今手許にある書物でいうと、「アイヌ昔話(萱野茂、平凡社)」や「アメリカ・インディアン神話(C・バーランド、青土社)」であるが、これらは「東北」の響きを伝えている。東北の風土が育てた偉大な宮沢賢治、彼の作品の多くは、言わずもがなであるが「東北」の響きそのものである。

 最近、口語訳の「古事記(三浦佑之、文芸春秋社)」が出たが、これなども名著なので、そのうちの「スサノオの神話」などは、いろんなコミック作品が創作されるといい。おおいに期待したいものだ。

 また、「光と陰の哲学」との関係でいえば、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」などは、これを題材にいろんなコミック作品がつくられて良いと思う。そういう作者・クリエータを育てていきたいものである。

 

 要は、こういう人類の知恵みたいなものをどうして幼児や子供に伝えるかである。それは絵本やアニメしかないではないか。アニメ万歳!

 

 

 さて、「コミネ(コミック・ネットワーク)」のホームページを御覧いただきたい。

 

オーダーメイドCOMというのがありますね。それをクリックすると「オーダーメイドCOM」の説明があります。次のように書かれています。つまり、

 

オーダーメイドCOMとは、あなたが望む既存でない商品を、「あなたのために」作成する受注生産型のコンテンツです。

イラストレーター、ライター、声優合わせて数百名のクリエーターが登録しています。あなたが欲しいと思った商品を選択し、そこで受注をしているクリエーターの中から、あなたの好みに合ったクリエーターを選び出し、簡単な希望を伝えるだけであなたの望む商品を作成いたします。

もっと深くオーダーメイドCOMを楽しみたい方は、タイアップ企画に参加してみましょう。きっと、普通のコンピューターゲームでは味わえない、新しい楽しみが広がるはずです。

『こんな商品が欲しいな』 『あんな商品ができたらな』―― 本企画では、そんなあなたの希望を叶えます!

 

 

 

もうひとつ、極めつきは、「eーパブリッシング」ですね。[eーパブリッシングとは?」というところをクリックしてみて下さい。次のように書かれています。つまり、

 

●ユーザーの出資によって作られるぞ!

eパブリッシングとは、コミネットが提唱する全く新しいデジタル出版のカタチです。このサイトに並べられている『新刊』は、クリエーターによって作られた『予告ページ』です。クリエーターさんからの、こんな作品を作りたい! という発表の場なのです。

この新刊が読みたい! と思った皆さんは、クリエーターさんに数百円程度の、ちょっとした「出資」を行います。一定額の出資金が揃ったら、クリエーターさんは作品の作成を開始します。お気に入りのクリエーターを支援したり、キラリと光る原石のような作品を見つけたりすることで、ユーザー自らで「自分好みの作品」を開拓していきましょう。

これが、新時代の出版システム「eパブリッシング」です。

 

 

●価格が下がったら差額が返却されるぞ!

購入数が一定の数に達すると、eパブリッシングの価格は、どんどん低下していきます。最終的には、なんと1口100円まで下がるのです。そして、下がった場合の「差額」は、購入者へと返金※されます。

 

 

●沢山出資して特典をゲット!

1人何口でも作品に出資することができます。1人でたくさん出資する熱心なあなたには、クリエーターさんから『特別限定商品』がプレゼントされるかも? 面白い作品を見つけたら、多くのユーザーで出資して、クリエーターを育ててあげましょう。

 

 

●作成が決まらなかったら全額返金

もし、購入数が、作成に必要な最低口数に達しなかった場合は、購入者へ全額返金※いたします。返金制度がありますので、安心して購入してください。

 

※コミネットウォレットで購入の場合は、価格が決定するまで、登録カードに対して正規の請求を行いません。 ウェブマネーやスマイルポイントで購入の場合は、スマイルサービスのスマイルポイントで返金いたします。但し、この場合は、返却時に8%の返却手数料をいただきますので予めご了承ください。

 

購入時には、eバブリッシング利用規約に同意してご購入ください。

 

 

※ビジネスモデル特許出願中

 

 

eパブリッシングは、デジタル出版だからできる、「先に読者を募って、充分な出資が集まってから作成できる」というシステムです。当然のことながら、従来の出版業では、自分の作品を「世に問う」タイミングは、その作品が完 成し、流通に載ってからでした。作品を流通に載せるには、自分の代わりに作品を流通してくれる「読者以外の人々」を納得させる為だけに、クリエーター性を曲げることを必要とされたり、意欲的、野心的な創作をする場を奪われてしまうことも、しばしば発生せざるを得ませんでした。しかし、eパブリッシングは違います!

あなたの作品に裁定を下すのは、あなたの作品を楽しみに待つ『お客様』だけ! あなたは、自分が求める形のエンターテイメントを、直接お客様に問う事ができるのです。流通についてまわるデメリットや、在庫を抱えるコストも発生しません。また、大規模なお客様にも対応していますから、ただあなたの才能と努力だけで、直接作品を「世に問う」ことができるのです。

また、eパブリッシングは様々な規模のデジタル出版を行う事ができるシステムになっています。少数のお客様の為にマニアックな作品を提供し続けることもできますし、誰にでも楽しめる、 数千人、数万人規模のお客様を対象とした作品にも対応可能なのです。通常の出版の代替手段、上位手段として用いることも、充分可能なシステムになっています。

 

 興味のあるクリエーターの方は、cominet@terranetz.comまでお問い合わせください。なお、既にクリエーターIDをお持ちの方は、eパブリッシングト ップページから、クリエーター専用ページにお入りください。

 

 

 以上であります。凄いですね。凄い。凄いものが出てきたもんだ!

 私は、これからどんどんアニメ文化というかコミック文化が発達すると思われてならない。もう一度言う。要は、こういう人類の知恵みたいなものをどうして幼児や子供に伝えるかである。それは絵本やアニメしかないではないか。 絵本万歳! アニメ万歳! マンガ万歳!

 川づくりもこれからは「河童」だ。河童の棲む川づくりだ。そのためには、河童を主人公にした絵本や、アニメやマンガがどんどんできなければならない。さらにいえば、世の中がおかしくなると河童が活動しはじめるという。河童がどしどし世直しの言い分を言い始めるという。河童の絵本万歳! 河童のアニメ万歳! 河童のマンガ万歳!

 

「千と千尋の神隠し」に戻る!

 


  

コミケ63

 

 コミックマーケット63が、昨年の暮れも押し迫った・・・28日、29日、30日の三日間、東京ビッグサイトで開催された。そういうものがあるとは知らず、全くの偶然にその驚くべきイベントに一般参加する機会を得た。グッドラック!全くの幸運だ!

 

 「コミケ」・・・正確には「コミック・マーケット」は今年で63回目だ。1975年に始まったのだが、その頃は、数百人の一般参加者で、ブースも100に満たなかった。回を重ねる毎に参加サークルも一般参加者も増えていって、今では、参加サークル3万5000サークル、一般参加者48万人である。コミックの威力、これに極まれり!!

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ネットワーク

 

 

大変な時代になりましたが、これもよくよく考えてみれば、

生みの苦しみを苦しんでいるのかも知れません。

私には輝かしい未来が見えるような感じがします。

感じです。確信ではありません。希望的観測といっていいのかも知れません。

 

輝かしい未来・・・、それは

欧米の力の文明、戦いの文明、「光の哲学」ではなく、

 

中沢新一のいうところの「モノとの同盟」です。

「平和の文明」、「光と陰の哲学」のことです。

 

 

ブッシュによるイラク攻撃が近付いていますが、それをどう乗り越えればいいのか。

「モノとの同盟」はどうすれば実現すればいいのか。

 

「平和の文明」を築いていくために私達は、

今、具体的に、何をすべきなのか・・・・・、

 

その答えが今求められているのだと思います。

 

 

 昨年の暮れに、私のもうひとつのホームページ・「築土構木」の掲示板・「自由の広場」において、針貝さんから「日本の文明原理を確立せよ」という極めて重大な進言がありました。まことに遺憾ながら、暮れは忙しさにかまけて、レスポンスをしないまま歳を越してしまいました。針貝さんのすばらしい進言です。上記の私の思いは「自由の広場」における元日の挨拶を再掲したものです。私の思いと針貝さんの思いとほぼ同じですね。すばらしいことです。ありがたいことです。是非とも・・・「劇場国家にっぽん」における今年の課題にしたいものです。

 昨年一年間、「劇場国家にっぽん」と題しての・・・・・「思索の旅」を続けながら、上記に指摘した課題に対する答えを、自分自身としては一応見い出したつもりでおります。一応です。まだまだ未熟です。ブラッシュアップが必要です。しかし、そういう自分の思想を世の中に訴えていくためには、やはり「実践」を積み重ねていくしか方法はありません。ここ数年、私は、哲学の勉強をして参りました。今申し上げたようにまだまだ未熟です。ブラッシュアップをしていかなければなりません。しかし、それと同時に「実践」も必要だと思います。拙著・「桃源雲情」のサブタイトルではありませんが、「哲学と実践」が大事なのです。

 

 私は、川づくり、地域づくり、国づくりの哲学を求めて、ここ数年、「思索の旅」を続けて参りました。最初は「平安遷都を訪ねて」と題して、そのあとは「武家社会源流の旅」と題しての「思索の旅」でした。そして昨年は、「劇場国家にっぽん」と題して「平和の原理」をなんとか自分のものにしたいと必死で勉強して参りました。まだまだ未熟です。まだまだ未熟ではありますが、今まで勉強してきたものを頼りに再び「実践」に乗り出そうという訳です。「juuu-net(ジュウネット)」は今まで幸野さんを中心にいろいろとやって参りました。ここにきてやっと期が熟したといいますか、ようやく「コミネ」が実用段階になったような感じがしますので、再出発したい。もちろん幸野さんを中心にして・・・ですが、針貝さん始め多くの仲間の協力を得て「juuu-net(ジュウネット)を何とか立ち上げたいと考えているわけです。 

 この「劇場国家にっぽん」(WhatsNew)では、これからの実践活動の有力な手段として「アニメ」と取り上げたいと思います。その心は「ネットワーク」です。「コミネ」に輝かしい未来の一端を見るからです。「コミネ」に「平和の原理」の重大なヒントを見るからです。「コミネ」に「モノとの同盟」の具体的な実践活動を見るからです。「コミネ」に「贈与経済」の力強い始動を感じるからです。「コミック・ネット」はgooなどの検索エンジンでいくつか出てきますが、同じ意味での「コミネ」はまだgooなどの検索エンジンに出てきません。私の造語であり、しかも昨日から使いはじめた言葉であるからです。「コミック・ネット」・・・・・略して「コミネ」です。

 「劇場国家にっぽん」は、もちろん実社会のことをいっているのですが、バーチャルなコミュニケーション活動も含めて・・・ともかく「コミュニケーション活動」を実践していきたいと考えます。今後の「劇場国家にっぽん」を是非御期待いただきたいと存じます。そして「juuu-net(ジュウネット)」に是非参加していただきたいと存じます。

 

今年もどうぞよろしくお願いします。

 

 

それでは「コミネ」の説明に入っていきたいと存じますが

その前に、

 

・・・・前回積み残しの・・・・・

「千と千尋の神隠し」の「湯屋」の説明をしておきます。

 

「コミケ」の予備知識、「湯屋」、「コミケ」の順序です。

 

「コミケ」の予備知識は、

ここをクリックして下さい!

 

 


 

 

謹賀新年

 

 

 

 

 

1昨年秋以降、さまざまな賞を得てきた「千と千尋の神隠し」が、2002年2月には、ついに世界3大映画祭のひとつ、ベルリン国際映画祭の最高賞まで制した。さらに、昨年の暮れ(2002年12月)には全米映画批評会議から今年のアニメ賞を授与された。日本映画史上最大のヒット作に加わった国際的な栄誉である。日本のアニメの質の高さを改めて示したことはもちろんであるが、私は、ただ単にそれだけにとどまらず・・・・、21世紀のわが国の文化に大変大きなインパクトを与えるものと考えている。

註:「千と千尋の神隠し」に関する情報はここ!

 註:余分なことですが、制作現場の情報はここ!

 

 2002年4月に、文化審議会の答申では、わが国のアニメに強い期待を寄せているが、私は、多くの人が想像している以上にアニメの社会的な役割は大きくなっていくものと考えている。ひょっとしたら、国際社会はアニメのお陰で「平和」に向かうかも知れない、そんな秘かな期待を持っているのだが、少し・・・・「アニメの社会的意義」について私の考えを述べてみたい。「劇場国家にっぽん」における「アニメの社会的意義」ということである。

 

 

 でも先を急いではいけない。物事には順序というものがある。「コミケ」について語り、再び贈与経済について語ろう。「平和の原理」を追い求める・・・その方法論が見えてくるかも知れない。でも先を急いではいけない。まずは「千と千尋の神隠し」を垣間見ておこう。

 

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昨年までのWhatsNewはここ!

 

 

 

Iwai-Kuniomi