同時多発テロと劇場国家にっぽん
ローマ在住の作家、塩野七生さんは、ローマ帝国の研究をしながら、文明論の視点から現代世界を読み解く論評をずっと日本に発信し続けている。こういう国際的に活躍する人はまさに日本の宝であり、こういう人の活躍を思うとき、日本も決して捨てたものではないと思う。塩野さんは、「9月11日をもって21世紀が始まった」という認識で、共生について、次のような認識を示された(12月30日、毎日新聞)。
すなわち、「テロに米国が怒ったのは当然です。サウジアラビヤやエジプトなど友好国の人にビザを与え、飛行機の操縦も教えた。言ってみればホームステイさせた人間に家族が殺されたようなもの。米国は外国人や異文化との共生に自信を持っていた。この米国の楽観的信念が一撃を食らったのです。ただ開放社会が変わることはない。これがなくなったらもう米国ではないですから。
ただ一方で、米国の弱点も明らかになった。米国人が共生できる相手は、米国に住みたい、英語を学びたい、働きたいとやってくる人です。米国には住みたくないという人とは共生はできない。機会均等、自由、民主主義という米国の土俵の中での共生はうまいが、異なる価値基準のものではできない。ここに米国の問題がある。」・・・・と。
共生とは、相手を殺すようなことがなければ多少傷つけてもやむ得ないがともかく共に生きていこうというものである。コミュニケーションは意見の一致はなくてもいいから・・・ともかく相手の立場を尊重するということがないといけない。コミュニケーションは相手をやっつけるためにやるものではない。ディベートとは違う。連携はごく一部でいいから意見が一致しなければならないだろう。そりゃいい、じゃあいっしょにやろうという訳だ。このように三つの言葉はそれぞれニュアンスが違うけれど、私は、哲学的には同じような言葉であって、21世紀は、共生社会を目指そうといってもいいし、コミュニケーション社会を目指そうといってもいいし、連携社会を目指そうといっても・・・・まあ同じようなものだ。私はそう思っている。共生社会は当然人びとに違いというものがあるから共生なのだし、コミュニケーション社会はそういう共生の中にあってできるだけ違いというものを尊重しようとする社会だし、連携社会はコミュニケーションの中から協働できるものをすこしでも増やしていこうとする社会である。そういう私たちの目指す21世紀の社会で・・・テロは絶対に排除されなければならない。当然のことであろう。この点に疑問をはさむ余地はない。問題は、どのようにして共生社会なりコミュニケーション社会なり連携社会を作っていくのかという・・・その方法論だ。
テレビや新聞などのマスコミの報道を見ていると、同時多発テロに対する米国や日本の対応の仕方について議論の混乱がある。問題は、当面の課題と長期的な課題とに峻別して議論しなければならない。さらには、当面の措置については、議論の余地のないものと議論を要するものがある。これも峻別して考えなければならない。当面の課題も長期的な課題も、大いに議論を要し、議論の結果、政策となる。つまり、政策には、当面の課題に対応して当面の政策があり、長期的な課題に対応して長期的な政策がある。政策のほかに理想というものがあるが、政策と理想とは、これを峻別して考えなければならない。
テロを絶対に許してはならないというのは、私たちの社会では議論のないところであって、これは政策でも理想でもない。当たり前のことだ。テロに対しては再発防止の観点から断固たる措置を講じる・・・・、これは当然の措置であって政策というものではない。塩野さんがおっしゃっている共生という問題は、当然の措置、当面の課題、長期的課題、理想という・・・四つの分類のうち、どれに当たるのであろうか。塩野さんは長期的課題のつもりでおっしゃっているのだろうと思うが、米国でそういうまったく価値観の違う民族との共生ということがはたして理想になっているのだろうか。国内の問題として共生という課題はあるとしても、そもそも国際的に米国は共生という理想があるのだろうか。多神教の国であり戦争放棄を宣言しているわが国の思想からすれば、国際的な共生という問題は国民誰もが思う共通認識であって、国際的な共生をどのようにして実現していくのかという課題は、長期的にも短期的にも大変大きな課題であろう。しかし、米国ではそもそもそういう共通認識があるのであろうか。国の理想として・・・・国際的な共生という理想が掲げられているのだろうか。私にはそうは思えない。私の認識が正しければ、共生というのはまだ国際的な理想にすらなっていないのではないか。私が言いたいのは、共生社会を目指すという・・・・国際的な共通認識がまだないのではないかということだ。NGOを中心に今後次第次第に国際的な共通認識が形成されていくと思うが、現在のところまだまだといったところではなかろうか。ましてやそれを国の政策として世界に働きかけるという状況には程遠いと思われるのだが・・・。どうであろうか。現実にできないことは理想であって政策ではない。急ぐことはあるまい。まずは日本国内で共生の哲学を練り上げ、具体的な政策を試行錯誤的に実行していく。まずそこから始めなければならない。同盟国である米国や世界に働きかけるのはそれからでも遅くはない。
おおよそ自然界のものはフラクタル性を有している。たとえば、海岸線の形であるとか樹木の枝振りであるとか、自然界のものはそれなりに複雑な構造をしており、全体の形にはそれなりの特徴というものがある。宇宙の構造もそうである。そういうマクロの構造と同じようなミクロの構造というものがあって、ミクロの構造が表現できればマクロの構造もそれを使って表現できる。もちろん逆のことも言える。例えば、宇宙の構造と原子の構造とは構造的に同じような特徴をもっているが、宇宙の構造を研究することによって原子の構造に関する理解が深まるし、又逆に原子の構造の研究が深まれば宇宙の研究も深まる。構造的な同一性がある。
自然や社会の理解し方として複雑系研究という研究分野がある。1980年代になって自然界におけるフラクタルということが俄然注目されだしたが、現在ではフラクタルも含めた複雑系の研究が進んできているのだ。1980年代におけるフラクタルの発見は、20世紀最大の発見ではないかと騒がれたりもしたが、それはともかくとして、複雑系の研究を促したという意味で大変大きな発見であったといえよう。複雑系研究は、科学の一部門というのではなく、今後の科学のあり方に関するあたらしい思潮だと理解されているが、現在では、生物個体の成り立ちや振る舞い或いは気象予測などの自然界に関することはもちろんのこと、株価の動きをはじめ社会、経済、政治の動きも研究対象になってきている。
わが国が平和国家を目指すには、何よりも平和思想の普及とそれにもとづく国民の具体的な行動を起こすことだ。平和、平和といっておれば平和がくるものでもない。米国にも通用する平和の哲学と思想が必要だ。米国はわが国の同盟国だ。個人でもそうだが・・・・親友のためには自分を多少犠牲にする覚悟が必要だ、それと同じように、同盟国である米国のためにはわが国は自分を多少犠牲にする覚悟が必要だ。
同時多発テロの直後、ブッシュ大統領が米国に連帯を表明した国名を挙げたが、G8では日本とイタリアの名がなかった。これに対しイタリアでは、野党から直ちに避難の声が上がったといわれている。日本では小泉外交を非難する声はあがらなかった。こんなことでわが国は米国と同盟国と言えるか。情けないことおびただしい。
先にフラクタルの話をしたのは、国としての行動を考える際、個人の行動に照らして考えれば国の採るべき道が自ずと判ると思うからだ。いざというときに世論が分かれてもたもたするのは国民の間に共通認識がないからだ。つまり国に思想がないということだ。平和思想の確立を急がなければならない。それが基本だが、そうは簡単にいかないので、ここではきわめて単純だが案外有効な見方としてまずは個人の行動に照らして考えてみようというわけだ。
個人であれ、グループであれ、国であれ、21世紀における大事なキーワードは「共生、コミュニケーション、連携」だが、・・・・個人でいえば、・・・・まあ・・・相手の立場を尊重するとか我を張らないということだ。あまり自己主張をしないということが大事だ。この点について多少議論があるかもしれないが、私はそう思う。そうだとすれば、同盟国との対応の仕方も自ずとはっきりしてくるのではないか。
世界的な課題よりもまずは国内的な課題が優先されなければならないだろう。国内的には大方の賛同をいただけるものと思う。問題は・・・・同盟国との関係であるが、私は、国内的な課題よりも同盟国との課題が優先されなけれならないものと考えている。NGOとか世界世論というものも大事だが、まずは国内世論が優先されなければならないし、それよりむしろ同盟国・米国の世論というものが私は気になってならないのだ。米国とのコミュニケーションと連携に最大の力を注ぎながら、世界平和のためにもできるだけの取り組みをしなければならない。塩野さんがおっしゃるように、アフガンの復興援助はもちろんのこととして、ハタミ大統領を中心に開かれたイスラム国家を目指して努力中のイランに対する支援をしていくと同時に、パレスチナ国家の独立を見越した布石を打っていくことは大事なことではあろう。中国や韓国など隣国との友好関係を深めていくことも大事である。国際的にやるべきことはあまりにも多い。しかし、米国との関係強化に力を注ぐことはもっと大事であろう。政府はもちろんのこと国民のレベルでももっともっと交流を深めていかなければならないし、私たちはもっともっと自主独立の精神を発揮しなければならないのではなかろうか。それにしてもイチローの活躍はすばらしい。各分野のイチローが出てきてほしいものだ。
私は、「劇場国家にっぽん」とあわせて「平和国家にっぽん」を提唱している。ならば、そういう国家は平和についてどう考え、どう行動するのか、まずはその点に触れておきたい。一般論である。わが国はもちろん世界平和のために平和の国づくりを進めなければならない。平和の国づくりにまい進するのだ。したがって、当然、紛争解決に武力は行使しない。こちらから戦争は仕掛けないということだ。しかし、外国から仕掛けられた戦争に対しいては断固対抗し、国民の生命と財産を守らなければならない。自主独立の精神から必要な軍備は備えなければならない。憲法を改正してでも・・・・だ。また、同盟国とは共同歩調をとるためにやはり集団的自衛権は保持しなければならないだろう。これも必要があれば憲法を改正すればいい。先に述べたように、同時多発テロの直後、ブッシュ大統領が米国に連帯を表明した国名を挙げたが、G8では日本とイタリアの名がなかった。これに対しイタリアでは野党から直ちに避難の声が上がったが、日本ではそういう声はあがらなかった。こんなことでわが国は米国と同盟国と言えないのであって、今後、米国と友好関係を維持していくためには、何よりも米国の世論というものを大事にしなければならない。と同時に中国や韓国などの隣国との連携を強めていく。それが、「共生、コミュニケーション、連携」をモットーとする・・・「平和国家にっぽん」のあるべき姿である。その実現のためには、何よりも、平和思想の言葉を練らなければならないし、平和のための生活レベルでの小さな行為を積み重ねていかなければならない。そして、憲法改正には十分な準備が必要であろう。国民的な議論を深めなければならない。と同時に、国際的な議論、とりわけ中国や韓国など隣国との議論、議論というよりコミュニケーションというべきかも知れないが、そういう意思疎通というものが必要だ。国際的な視点というものが大事であるということだ。拙速は厳に戒めなければならない。私は思う。「言葉と行為」の哲学、すなわち「場所の論理」の実践こそ喫緊の課題であろう。劇場国家にっぽんを提唱する所以である。