和のスピリット

 

 

 「地域づくり」は「人づくり」であり「場所づくり」である。私が「劇場国家にっぽん」を提唱する所以の一つは、「場所づくり」において演出というものが不可欠だからである。私は、ビジター産業を日本のリーディング産業にしたいと考えており、そういう立場からすると、「地域づくり」には「演劇性」が必要であり、どうしても演出家の助けが必要だ。場所の演出にあたっては、その歴史的背景や伝統や文化が密かに感じられることが肝要だ。例えば、日本的集落の構成原理については園田稔の素晴らしい研究があるが、「地域づくり」にあたっては、そういう学者の研究成果というものが訪れる観客に何となく感じられるような演出が望ましい。考古学的な研究成果によって、わが国の「歴史と伝統・文化」の実態が次第次第に明らかになってきており、そういった学問的研究成果にもとづいた「劇場性」というものがこれからの地域づくりの核心になっていくと思われる。

 

 そしてまた、「縄文との響き合い」とか「宇宙との響き合い」というものも「劇的空間」としては極めて大事である。きっと、そのような「地域づくり」は地域の人びとの流動的知性を養うに違いない。そして、そのことはまた、日本人の流動的知性を養うよすがとなろう。

 

 

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淳仁天皇の怨霊

 

 

 前に「いかみの怨霊」について述べたが、それは一部であって、奈良時代から平安時代に移行するその頃の権力闘争はものすごいものがあった。まあ、奈良時代から平安時代の初期は怨霊だらけといっていい。怨霊うじゃうじゃ・・・。その中でも天皇の怨霊がいちばん恐ろしいものがあったのはいうまでもないことである。その最たるものが「淳仁天皇の怨霊」である。

 

 760年、光明天皇がなくなった。藤原仲麻呂の最大の後援者が失われたことになる。老練な政治家、吉備真備(きびのまきび)がこの好機を逃すはずがない。

 孝謙天皇も、母親の死によってかえって権力意識が強くなり、弓削の道鏡と大ぴらに親しくし始めた。あまりの親密さに、政治的危機を感じた藤原仲麻呂は、淳仁天皇を通じて、二人の関係を告発する。孝謙天皇はやむおえず出家するが、ほとんど院政に近いかたちで実権は外さなかった。吉備真備(きびのまきび)の支えがあったからであろう。 

 吉備真備(きびのまきび)の外交工作が密かに行なわれる。そして、遂に、藤原仲麻呂の新羅出兵の近づいた時、クーデターが起こるのである。764年9月11日、孝謙帝は退位して高野上皇となっていたが、行動を興すのである。激戦の内に、高野上皇から仲麻呂は逆臣として指弾され、一転して仲麻呂軍は反乱軍となった。この鮮やかなタイミングの駆け引きの裏には当然、吉備真備(きびのまきび)の周到な読みと準備があったであろう。漢氏(あやし)、秦氏(はたし)ら渡来豪族の国際派は、みな女帝の側についた。藤原仲麻呂は、宇治から近江を通り、東国へ逃れようと琵琶湖へ出たが、遂に追い詰められ湖上で妻子4人と一味徒党34人が捕らえられ、湖畔で斬られた。哀れなものである。

 

 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、もはや仲麻呂の率いる軍勢もなく、衣服もはきものもそこそこに、母と3、4人の家来を連れて逃れようとしたが捕まって、淡路流配の身となった。淡路廃帝と呼ばれた天皇は、「幽憤に勝(た)えず、垣根を越えて逃げたが、明日、院中に薨(みまか)りぬ」と記されている。死因不明。暗殺の疑いが濃い。この幽憤は、怨霊としてやがて、皇室を悩ます。まだ33歳の若さだった。

 

 その淳仁天皇の怨霊をお祀りしてあるのが白峰神宮(しらみねじんぐう)である。京都の堀川は「戻り橋」からすぐのところである。歩いて5分。今出川堀川を東にいったすぐのところに白峰神宮はひっそりとある。この白峰新宮は、実は、明治になって創建されたもので、淳仁天皇の霊は、淡路島の御霊からお迎えして、京都にお祀りすることにしたのである。今は、淳仁天皇の霊は、崇徳天皇の霊とともに白峰神宮(しらみねじんぐう)にお祀りしてあるのである。

 

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空の天皇

 

 

 私は、さる5月26日の参議院憲法調査会で、次のように述べた。

 『 再度申し上げますが、私たちは「歴史と伝統・文化」に生きているのではありません。私たちはあくまで「歴史と伝統・文化」を生きなければならないのであります。そういう意味で、天皇は我が国の「歴史と伝統・文化」の象徴であります。それがゆえに、天皇は我が国の国民統合の象徴になり得るのであって、憲法改正にあってはそのことの論理が明確にされなければならないと私は考えております。』・・・と。

註:全文はここをクリックして下さい!

 

 ところで、私は、憲法改正について、以下のような考えを持っており、その基本的な考え方のみを述べたのである。 

 私は、日本が世界に誇れるもっとも良い点は「違いを認める文化」を持っているところだと思う。もしそうだとすれば、これは大変なことで、これからの新しい世界文明を切り開く力がわが国にあるということだ。日本の「歴史と伝統・文化」の何をもって「違いを認める文化」と言い得るのかということはそう簡単な問題ではない。哲学的な検討も必要だ。わが国のアイデンティティーが「違いを認める文化」にあることを明らかにするには、やはり学者の研究が欠かせない。私は、今後の研究が大いに進むことを期待しながら、この小著ではとりあえず、平安時代のとくいち徳一という一人の秀でた僧侶に焦点を絞って、その思想的背景を語ってみたい。いずれ明恵という鎌倉時代の思想家ついても言及ながら、憲法に関する私の基本的考え方を明らかにしたいと考えているが、ここではひとまず、そのさわりだけを述べておきたい。

 私は、時代というものは人々の予想を越えて変化していくものだと思う。なぜなら、後に詳しく述べるが、フランスの精神分析医ラカン(1901〜1989)の鏡像段階論で説くように、真実は言葉で語れないからである。人間は言葉を発明し、言葉で考える。その言葉が真実に迫れない限界があるとすれば、どんな思想にも、どんなシステムにもある種の限界というものが生じてくる。世の中の出来事というものは、誰かがそう考えたからそうなったというものではない。また、神がそう仕組んだものでもない。「モノ」の力によって、世の中のすべてのものは変化していくのである。したがって、どんなシステムを作ったとしてもある程度時代を経れば世の中の実際の出来事との間に矛盾が生じてくるのである。

 これからの世界はグローバルに激動していくので、河合隼雄はその点を心配して、これからは「矛盾システム」を生きていかなければならないだろうと言っている。たしかに、河合隼雄に言われるまでもなく世の中は矛盾だらけである。しかし、その矛盾を何とかするのが政治ではないのか。「下手な考え休むに似たり」というが、私たちがいくら考えたところで、なかなかいい知恵など思いつかない。ここはひとつ、先人の知恵に学んでみてはどうか。実はそこに、日本の未来が秘められているのではないか?古代の知恵のなかに、これからのわが国のあるべきかたち姿が見出せるのではないか。そう、「歴史と伝統・文化」を見直し、先人に学ぶことが日本にとって大きな救済になるだろう。

 私の考えでは、歴史というものはその時々、矛盾するものであっても、なんとかそれを乗り越える形で時代を形づくってきた。先人たちは苦しみつつも矛盾を乗り越え、なんとか苦難をやり過ごしながら歴史を刻んできた。よって「歴史と伝統・文化」のなかには先人の知恵がいっぱい詰まっている。

 政治というものは、その貴重な知恵の軌跡と凡例に学びながら、目の前の矛盾を一つずつ解決していくべきではないのか。政治理念の根幹は、実はそこにあるのでは?そう考えるとき、私はイギリスの不文律憲法に強い憧れを抱く。

 しかし、かくも世の中が複雑になってくると、やはり成文憲法が必要である。また憲法解釈にもおのずと限界があろう。それに異論を唱える人はいだろう。

 今の憲法は間違いなく押し付け憲法だと思う。日本の歴史と伝統・文化を知らない人が草案を作っているのだから、妙な箇所がいくつかある。そのためにも憲法を改正して、少しでも日本の歴史と伝統・文化にのっとった憲法に変えなければならない。

 改正案については、私なりの考えがある。多くの政治家が、それぞれに腹案を持っているだろう。自民党も民主党もそれぞれ党内で改正案をまとめることになり、議論が白熱するかもしれない。しかし、大事なことは、現状のまま放置しないで、わが国の姿(かたち)に合った、わが国らしい憲法に変えることである。政治は妥協である。自分の考えに固執していたのでは、いつまでたってもまとまらない。

 私は、憲法九条の問題や人権問題はもちろんのこと、参議院問題などについても強い関心を抱いて私なりの考えもいろいろあるが、今ここでは、これだけは譲れないという、もっとも重要な点だけを述べておきたい。

 先に、わが国のアイデンティティーは「違いを認める文化」にあると述べた。世界に誇るべきわが国の歴史と伝統・文化によって、今後、日本は世界に貢献していかなければならない。この考え方をまず基本にして、憲法改正にのぞみたい。そのことが、私の提唱する「劇場国家にっぽん」の場づくりにつながり、歴史と伝統・文化を生かしたの劇的空間を創るということにつながる。

 したがって、「劇場国家にっぽん」の観点からすると、天皇に関する憲法のなかでもっとも大事な条項である第一章第一条は、

 「天皇は日本国の歴史と伝統・文化の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

というように、「歴史と伝統・文化」という文言を付け加えなければならないと考えるのである。重ねて言うが、われわれ日本人のアイデンティティーは、太古から連綿と繋がっている歴史と伝統・文化によって創りだされ、それによって培われた「違いを認める文化」によって世界に通ずる普遍性をもつのである。

 私の政治理念の一つの根幹をなすものとして、古(いにしえ)の先人たちの叡智がある。その導いてくれる思想家の一人が、鎌倉期の名僧・明恵上人である。この八百年前の哲学者が残した意味深い言葉「あるべきようは」のなかに、違いを認めて共和する心を読み取るとき、強い憧れを抱くのである。明恵の思想についてはおいおいと勉強していくとしよう。

 

 さて、5月10日の皇太子発言がいろいろと話題になっているが、私も、宮内庁の体質には大いに問題があると思っている。彼らは、「歴史と伝統・文化」に生きているのであって、「歴史と伝統・文化」を生きているのではない。私たち国民は、「歴史と伝統・文化」を生きている。私に言わせれば、「歴史と伝統・文化」の象徴である天皇及び皇室は、率先して、ホワイトヘッドのいうように、常に革新に努めなければならないのである。その足を引っ張っているのが宮内庁である。「流動的知性」が全く欠如しているのではないか。猛省を促したい。

 

 ところで、天皇及び皇室が、国民とともに、日本の「歴史と伝統・文化」を生きるということはどういうことか。具体的には・・・?

 

さあ、それではいよいよ

「空の天皇」のあるべき姿(かたち)

を探っていくこととしたい。

 そうしよう!そうしよう!

 

註:今まで、「空の天皇」に関係すると思われる「桃源雲情の」ページは、かなりのものがあります。その主なものはここをクリックして下さい!

 


 

流動的知性とは

 

 

 流動的知性というのは、まあいうなれば、一つの考え方にとらわれないで、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことのできる知性であるといっていいでしょう。 流動的知性という言葉は、スティーヴン・ミズンが最初に言い出した言葉だと思いますが自信はありません。中沢新一がよく使う言葉です。

 スティーヴン・ミズンは、心を考古学から解明しようという研究といっていいかもしれませんが、私たちの知性や心が何千万年とかけてどのように発達してきたかを研究しており、彼の著書・「心の先史時代」(松浦俊輔, 牧野美佐緒訳. 1998年8月、 青土社)によると、私たちの脳には博物的知性、社会的知性、技術的知性、言語的知性などそれぞれの部屋があるのだそうです。それぞれが専門的な仕事をおこなっているのですが、それらはほとんど関連せず、単独で動いていて、お互いに関連していません。ところが、現代人類(ホモ・サピエンス・サピエンス、つまり現代の私たち)にだけ、流動的知性というものが備わっています。これはそれぞれの部屋をつなぎ、関係させる知性のことです。そしてこの知性は「関係の中にある何か」に、意味を与えようとしてきたのです。コンピュータでいえばネットワークコンピュータが出来たといってもいいかもしれません。これによって、現代人類はネアンデルタール人に比べ、小さな脳を持ちながらも、多大な文化を生み出すにいたったのだそうです。

 人間には本来こういう流動的知性を有しているので、博物的知性、社会的知性、技術的知性、言語的知性などのある特定の知性にこだわらなければ、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことができる筈ですが、人間は生活環境や教育環境などさまざまな環境によって知性の流動性というものを失いがちですので、本来の能力を発揮できなくなるようです。したがって、博物的知性、社会的知性、技術的知性、言語的知性などを高めながらも、どうすれば特定の考えにこだわらないで流動的知性が発揮できるかということが問題となります。

 特定の考え方にこだわらない知恵、それが中沢新一のいうところの「対称性社会の知恵」であります。私流にいえば、「両頭截断」ということになりますが、世の中すべて対称性があります。善人がおれば悪人がいる。権力的な抑制があれば非権力的な自由がある。男性的なものがあれば女性的なものがある。光の部分があれば陰の部分もある。世の中にはまあいろんなものがあるんですね。千差万別。まさに曼陀羅(マンダラ)の世界といっていいのではないでしょうか。私は、このことを華厳哲学は教えていると思うのです。

 中沢新一と赤坂憲雄との対談「網野善彦を継ぐ」(2004年6月、講談社)の中で、中沢新一は、「無縁・公界(くがい)・楽」(網野善彦、1978年、平凡社)において網野善彦が語った人びとの「欲望」について、『 現実の中でつねに否定されて、短い期間に限って、ちいちゃな空間の中に自分を実現した欲望が、まるで夢のようなかたちで出現しますが、つねに権力がそれを破壊したり、自分の中に組み込んでしまおうとしていく過程が起こります。』・・・と述べています。人びとの欲望というものが社会的な問題になるときは、つねに権力との関係がぎくしゃくしているということでありましょう。権力との関係がいくらぎくしゃくしても、なお、人びとの「欲望」はそれを乗り越えて・・・まさに夢のようなかたちで出現するということでありましょう。

 私は、人間には流動的知性が備わっているため、人びとの「欲望」をある特定の枠の中に閉じ込めてしまうことはできないのだと思います。特定の枠の中から飛び出す・・・、それが「自由」というものではないでしょうか。人間は、流動的知性があるからこそ「自由」を生きることができるように思われます。

 日本では、西洋に比べて、現在なお流動的知性が濃厚に働いているように思われます。いろんな場で申し上げてきたように、私たちは、「歴史と伝統・文化」を生きているのですから、何を考えるにしても「歴史と伝統・文化」が基礎になります。したがって、わが国の「歴史と伝統・文化」のなかでその流動的知性がどのように働いてきたのか、実証がなければなりません。その偉大な作業をなしたのが網野善彦の「無縁・公界(くがい)・楽」であります。この研究成果の評価はあまり芳しくないようですが、私は、中沢新一などと同じように、極めて高く評価したいと思います。網野善彦の「無縁・公界(くがい)・楽」を語らずして天皇制を語ることはできないと考えているからです。人びとの流動的知性がわが国の天皇制を支えているし、そういうわが国民の象徴としての天皇自身にも、当然、流動的知性が働いているのでありましょう。

 流動的知性は、わかりやすくかつ端的にいってしまえば、「バランス感覚」といっていいかもしれません。

 

 

対称性社会の知恵 ・・・その他26個のページがあります!

両頭截断 ・・・その他両頭切断など48個のページがあります。

人権問題と「劇場国家にっぽん」・・・啓発のための社会装置を如何に作るか

 

神にならなかったグレートスピリット

熊の主題をめぐる変奏曲

神話と現実

マメの神話学

南方熊楠

日本神話の構造・・・中空均衡構造

トライアッド

縄文・ミシャグチ・道祖神

新しい文明の鍵・「後戸(うしろど)」

魔多羅神 ・・・天下の奇祭・「広隆寺の牛祭り」も是非御覧下さい!

 

メビュース縫合型とトーラス型

現代の社会問題と唯識・・・唯識の現代性

 

註:「場所」に関するページはここから入って下さい! 西田哲学の心髄に触れることができます。「場所」に関するページは、ほとんどの場合流動性知性と関係があります。

 

註:「流動的知性」は中沢新一がよく使う言葉ですが、私は、かって、「ハイブリッド思想」と呼びながら、この問題に取り組んだことがあります。是非、ここをクリックして下さい! 田辺哲学の心髄に触れることができます。

 

註:「モノとの同盟」はここから入って下さい! 中沢哲学の心髄に触れることができます。これからの時代、「流動的知性」を働かせて世界の平和を実現するということは、「モノとの同盟」を実現することに他ありません。是非、中沢哲学の心髄・「モノとの同盟」を勉強していただきたいと思います。

 


 

流動的知性 偉大なるクラウンマザー

 

 

 奥さんとか奥方というのは、常に奥に居て、表に出ないけれども、実質的にはいちばんの実力者だ。人類は、おばあさんと、子供と孫の三世代が同居する唯一の生物であると言われている。 

 家にはおじいさんも居るかもしれないが、どうしてもおばあさんには頭が上がらないのではないか。したがって、家の大事はすべて、おばあさんが仕切ることになる。おばあさんが偉いのだ。おばあさんが居たからこそ、人類はこのように発展してきた。一見、根拠のないウソ話のようだが、どうも本当らしい。

 ものごとの理解の仕方には部分的な見方と、包括的な見方と二つの方法がある。おばあさんはそれまで生きたいろんな経験をもとに、ものごとを包括して見ることができる。おじいさんは死んでしまってもう居ないという家が多いが、元気に生きていても大体は、盆栽など何か一つのことに凝ってしまって、もう全体が見えにくくなっているのではないか。部分的な見方は、思考の流動性に欠けるので、思考停止になりがちだ。やはり流動的な思考でないと、全体が見渡せないし、脳の進化もしにくいのではないか。私は、そんなことを思いながらおばあさんの偉大さを考えている。おばあさんが居たからこそ、人類はこのように発展してきた。私にはよくわかる。

 さて、インディアンには「クラウン・マザー」という、おばあさんのなかのおばさんが居る。まあ、普通のおばあさんといえば普通のおばあさんだが、子供を育て、人に優しく世話好きで、もっとも人望のあるおばあさんが「クラウン・マザー」に選ばれるのだそうだ。普段は権力的なことはとくに何もしないのだが、実は、大酋長がおかしくなったと思ったら、その首を切ることができるという。もちろんいきなりというのではなく、三回注意して直らなければ……ということらしい。しかし、大酋長の首切りができるということはすごいことだ。そして、こんなシステムを持っているインディアンはすばらしい。「クラウン・マザー」は、表面的なことだけでなく、ものごとの真実が見えているということだろう。

 私は、この「クラウン・マザー」というシステムを生み出したインディアンの大いなる知恵に「平和の原理」が隠されているように思われてならない。後でおいおい説明していくことになるが、私は、平和には「奥の奥」という感覚が大切だと考えている。表も大事だが、奥も大事である。光も大事だが、陰も大事なのだ。御本尊だけではどうも元気が出てこない。進化に自ずと限界が出てくるのではないか。御本尊のほかに「後戸」の神が必要なのである。アメリカという御本尊に「後戸」の神としての日本。そんな思いを抱きながら私はイラク戦争を見ている。

 

 ラカン(1901〜1989。フロイトの考え方に新生面を拓いたフランスの精神科医・精神分析家)の鏡像段階説ではないけれど、言葉では真実は語れないのだ。我々がいかに考えても、その時に考えつくことなんて大したことではないのではないか。生活に関わることは、おばあさんの知恵で何とかいけるだろう。しかし、社会的な事柄については、歴史の知恵というか、歴史と伝統・文化に学ばなければやはり正しい判断はできないのではないか。歴史を生きるということはそういうことだと思うのである。

 

さあ、それではいよいよ「流動的知性」

探究の旅に出かけるとしよう!

そうしよう!そうしよう!(工事中)

 

註:今まで、流動的知性に関係すると思われる「桃源雲情の」ページは、かなりのものがあります。その主なものはここをクリックして下さい!

 

 


 

流動的知性にもとづいて

 

 

 私は先に、『 現在、私が重大な関心を寄せている二大政策課題は、わが国の「歴史と伝統・文化」と「天皇制」と「NPO」に関連して「憲法問題」であり、「モノとの同盟」と「農山村」と「NPO」に関連して「地域貨幣の問題」であります。』・・・と述べた。

 しかし、こういう具体の政策課題を解くには、哲学的な思索の助けを借りて、本質的な問題というか原理原則的な問題を明らかにしていかなければならない。明らかにするということは、自分の思想もさることながら、わが国の「歴史と伝統・文化」に照らしてどうか・・・、その点を明らかにすることである。

 

 世界のアメリカ化が危険視され、現代の科学文明の限界が懸念される今日、中沢新一がいうように、私たちが依って立つべき学問は「対称性人類学」であり、私たちが頼りにしなければならない「知性」は「流動性知性」である。

 私たちは、現下の問題について、できるだけ「流動的知性」を働かせながら哲学的な思索を深めると同時に、わが国の輝かしい将来のために、そういった「流動的知性」を育むためのさまざまな「場所づくり」を・・・・、国土政策の重要な柱として、実践していかなければならない・・・と考えている。

 その際、「妖怪」、「縄文」、「東北」、「神話」、「自然」、「宇宙との響き合い」などさまざまなキーワードがあろうかと思うが、それらを一言でいえば・・・「スピリット」ということになるのではなかろうか。今後の新しいホームページでは、どのように形でまとまっていくのか、まあ、歩きながら考えていくこととしたい。

 同じ思いを持つ仲間と交流しながら、いろいろな場所を訪れたい。特に私がこだわっている「こだわりの場所」は「河童」の棲む川であるが、人それぞれ心に深く刻み込まれた「場所」があると思う。自分の「好きな場所」をどれだけ持つことができるのか、人生の意義はそれで決るのではなかろうか。

 

 ところで、現下の問題については、私の見るところ、早急に解決しなければならない問題として、やはり本質的な問題というか原理原則的な問題が二つある。新しいホームページ「劇場国家にっぽん」の中心的テーマである。

 ひとつは、「流動性知性」を働かせながら私たちの精神的活動というか宗教的活動のあり方を探ることである。その鍵は「スピリット」にあるが、わが国の場合、多神教と仏教の習合が問題になり、私はすでに「徳一」への接近を試みた。現在は、「明恵」への接近を試みようとしているが、さらに根本的にわが国の精神的活動というか宗教的活動のあり方を探るためには、わが国の「歴史と伝統・文化」に照らして考察を深めていかなければならないだろう。とりあえずは、「国分寺」と「廃仏棄釈」の問題にアクセスすることとしたいが、はたして、将来、どのようなテーマが生じてくるのであろうか・・・・。

 今一つは、「流動性知性」を働かせながら私たちの物質的活動というか経済的活動のあり方を探ることである。先に述べたように、現在、「地域貨幣」の問題が世界的にクローズアップされてきており、物質的活動というか経済的活動のあり方を解く鍵は・・・どうも「貨幣」にあるようだ。しかし、この「貨幣」の問題も根本的には、やはり・・・わが国の「歴史と伝統・文化」に照らして考察をしなければならないのあり、私の見るところ、結局は、中沢新一のいう「純粋贈与」というか「自然」の問題に帰するのではなかろうか。わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴は「天皇」である。したがって、「劇場国家にっぽん」では、「象徴天皇」を中心として・・・・この「贈与経済」の問題を考えて参ることとしたい。そのためには、権威と権力の棲み分けに混乱が見られる近代は別として、中世から近世にわたって、天皇なり寺院という権威がどのような経済に支えられていたのか、その辺りを勉強していく必要があるのではないか。私は、そういうわが国の「歴史と伝統・文化」を十分踏まえ、そして現在の「地域貨幣」の国際的動きも視野に入れながら・・・・、今後、わが国における「流動性知性」にもとづく経済活動のあり方というものを明らかにしたいのである。

 

 次へ!


 

あるべきようわ

 

 

 「劇場国家にっぽん」もいよいよ「明恵」の思想を勉強する段階になり、どうやら中沢新一の「モノとの同盟」を具体的に考えることができるようになったかと感じています。まだまだ未熟ですが、とりあえずは哲学からその実践に移行していこうと思っています。もちろん、「光と陰の哲学」を引き続き勉強しながら・・・ということになりますが、その実践、つまり具体の政策を提案していきたいのです。現在、私が重大な関心を寄せている二大政策課題は、わが国の「歴史と伝統・文化」と「天皇」と「NPO」に関連して「憲法問題」であり、「モノとの同盟」と「農山村」と「NPO」に関連して「地域貨幣の問題」であります。

 

註:今までにアップした「劇場国家にっぽん」(総論)は、

総論その1、天皇制の劇的空間 

総論その2、「東北」への旅立ち 

総論その3、神話の劇的空間 

総論その4、宇宙との響き合い 

総論その5、徳一とその劇的空間

 

 

 近々、『「劇場国家にっぽん」・・わが国の姿(かたち)の「あるべきようわ」』という本を出す予定であり、それを契機にこのホームページもリニューアルしようかと考えています。それまでの間、今までのとおりです。

 考えてみますと、河川環境管理財団時代にパソコン通信は、HP(ホームパーティー)なるものをはじめて、かれこれ10年という月日が立ちました。その間ほとんどリニューアルしないできましたので、何と申しましょうか、私のこのホームページ「桃源雲情」も骨董的価値が出てきて、手放しづらいのですが、この際思いきってリニューアルしようと思います。タイトルも「桃源雲情」から「劇場国家にっぽん」に変えたいと思います。

 

 私の今までの著書は、「風土と地域づくり -風土を見つめる感性を育む-」、「21世紀 建設産業はどう変わるか -建設エンジニアのパラダイム転換-」、「桃源雲情-地域づくりの哲学と実践-」の三冊ですが、前の二册は共著でありますので、私の本ということになりますと、今回の『「劇場国家にっぽん」・・わが国の姿(かたち)の「あるべきようわ」』が二冊目になります。ですから、ホームページのタイトルも「桃源雲情-地域づくりの哲学と実践-」を変えて・・・『「劇場国家にっぽん」・・わが国の姿(かたち)の「あるべきようわ」』にしたいと思います。

 

 

 さて、『「劇場国家にっぽん」・・わが国の姿(かたち)の「あるべきようわ」』のいちばん難しい問題は、「地域通貨の問題」であります。「モノとの同盟」を実現するには「地域通貨」が欠かせません。国内問題でいえば、農山村の「活充化」を実現するには、どうしても「NPO」の活躍が必要ですが、それを支えるのが地域通貨です。

 

 なお、土地は経済活動を支える基本財ですが、私的財はともかく、公共財は、「利子のつかない交換貨幣(地域通貨の交換のために日本銀行が発行する交換貨幣)」で取引が行なわれる必要があるようです。

 経済活動は、市場原理にもとづく通常の経済活動と・・・どうもその範疇には入らないボランティア経済活動というか贈与経済活動に分けるのが良い。一国二制度・・ですね。中沢新一いうところの「モノとの同盟」の経済システムです。したがって、貨幣も「利子のつく貨幣」と「利子のつかない貨幣」の二つが流通する訳です。

 公共工事において、その用地は、土地収用法が適用され得ることを見て明らかなように、土地所有者は金もうけのために土地を手放すのではない。もちろん、通常の評価額より高額で譲渡されるべきだと思いますが、土地所有者は、公共事業のために手放すのであり、その精神はボランティアの精神というか贈与の精神であります。したがって、支払いは「利子のつかない貨幣」で行なうのが合理的なのです。坪当たり10万円の土地ですと、「利子のつかない貨幣」12万充(じゅう)が支払われますが、それは両替えして10万円プラスアルファーの充分な補償額を手にすることもできます。金もうけのしたい人はそのように両替えすれば良いのです。金もうけを望まない人は、12万充(じゅう)のまま持って、贈与経済の世界で公共サービスを購入すれば良いのです。

 なお、一生懸命金もうけに励んできた人があるときボランティア精神に目覚め、贈与経済の世界に入りたい場合は、たとえそれがジョージソロスのような金もうけの権化のような人であっても、寄付をするという気持ちになれば良いのです。つまり、円を充(じゅう)に換算するときは、為替レートが低いのです。10万円が8万充(じゅう)にしかならない。その差額は、今までの罪滅ぼしをして贈与経済の世界に入るための寄付みたいなものでしょう。

 当面、地域通貨の使い道を広げるために、ボランティア活動によるサービスの他、公共の宿泊施設など様々な公共サービスの利用に際しても、原則的に、地域通貨で支払うようにすれば良いと思います。

 地域通貨は、それぞれの地域で勝手に発行している通貨でありますが、それが全国に流通しうるように、適当な為替レートで両替えでいるようにすれば良いと思います。円と充(じゅう)と両替えするときだけ、両替えする方が損をするようにしておけば良い。損というか贈与の精神ですね。寄付が考慮されていると考えても良いでしょう。

註:上記の充(じゅう)という「利子のつかない貨幣」の単位は、今適当な呼び名がないので、とりあえずjuuu-netのjuuuを使っています。仮の名です。juuuの充(じゅう)です。なお、円の由来はここをクリックして下さい!

 

 この「利子のつかない交換貨幣」は、もちろん地域通貨の発行量に応じて発行されます。日銀が発行するのです。ところで、地域通貨の発行量は、公的なサービスを含めて、NPO等の活動が活発かどうかに係わっていますので、結局は、「利子のつかない交換貨幣」の発行量もNPO等の活動次第ということになります。NPO等の活動が活発になればなるほど、「利子のつかない交換貨幣」の発行量は増えていきます。公共用地はそれで取得し、その分だけ国の累積債務を減らしていくことが可能になる。地域が生き返り、国の累積債務も減少させ得る。まさに、「利子のつかない交換貨幣」は、わが国の救世主になるのです。

 

 しかし、私は、「利子のつかない交換貨幣」に関して、わが国の国内問題だけでその必要性を言っているのではないのです。視野は世界に向いています。現在の利子を生む貨幣では世界は滅びるのです。アメリカでは1%の人の金と99%の人の金が量的に同じなのです。こんなバカなことが許され良いはずはありません。こういう「世界のアメリカ化」は絶対に防がなければなりません。多分、「利子のつかない交換貨幣」は「世界のアメリカ化」を防ぐことができるはずです。

 「モノとの同盟」が実現するのです。「同盟」です。アメリカの顔も立て、日本を始めとする「スピリット」の国々の顔も立てるのです。キリスト教と「スピリット」との同盟です。日本が中心となって、「東北」つまり「環太平洋の環」の国々に呼び掛けなければなりません。

註:ややくどいですが、いちばん最初の「モノとの同盟」というページはこれです!

 

 それには、「隗より始めよ!」・・です。まずは、自分のできるところから・・・です。NPOの活動に参加し、NPOの活動を活発にするところから始めましょう。私たちの言い方でいえば、地域の活充化、NPOの活充化です。それにはNPOのネットワークが必要です。

 

 それが「juuuーnet」です。みなさん、よろしくお願いします!

 

註:この文章は、少し前にjuuu-netの仲間である針貝武紀さんからいただいたメールを見て日頃の思いを綴ったものです。誠に未熟なものですが、みなさんの意見もお聞きしながらおいおい磨きをかけていきたいと思います。この「地域通貨」なり「利子のつかない貨幣」はこれからの「劇場国家にっぽん」の重大な課題です。

註:今までのWhatsNewはここをクリックし下さい。

 

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Iwai-Kuniomi