1、場所の重要性

 

私は先に、「知のトポス」というテーマで、場所の重要性について次のように述べた。

 

『・・・・・・トポスとは、元来「特定の意味をもつ場所」のことである。アリストテレス以来、話し手の言論(ロゴス)、話し手の人柄(エートス)、聞き手の感情(パトス) の総体として認識されるようになっているので、現在では、中村雄二郎の「トポスの知」というような言い方を見ても判るように、「哲学的な意味での場所」と言ってよい。「哲学の道」、「哲学の森」、「哲学の川」、或いは「哲学の丘」などもそうであろうし、私は、宇宙や人々との響き合うことのできる場所のことそう呼ぶこととしている。21世紀のわが国において人びとの感性というものを大切にし、それを育んでいくために、私たちはいたる処にそういう場所を創り出していかなければならない。

田邊元は西田哲学「場所の論理」を静的直感として批判したが、私は、「場所の概念」というものは、或いは「場所」というものは、誠に大事であると感じている。和辻哲学は、ハイデガー哲学「時間性にもとづく人間把握」に対抗して、「場所性にもとづく人間把握」として誕生し、それ以来「風土」の概念が定着した。私は、人間というものを理解する上で、民族というものを理解する上で、或いは文化というものを理解する上で、「場所」とか「風土」というものが何よりも大切であると考えている。この場合、人びとにとって、実際的には、その場所を理解するといっても容易ではなく、何はともあれそこに行くこと、そこで楽しむこと、そこで実際に人々や歴史や自然と響き合うことである。私が旅を薦め、、そして「劇場国家にっぽん」を提唱する所以である。・・・・・』

 

 私はさらに、『中村雄二郎の「リズム論」と私』というテーマで、中村雄二郎のリズム論について、次のように述べた。

 

 『・・・・・中村雄二郎の「リズムの論理(リズム論)」は、中村自身も言うように人類文化の将来にあたらしい展望を開く上で役立つはず・・・・のすばらしい哲学である。私はその確信を得るまでに大分時間がかかったが、今ははっきりそう言える。中村雄二郎のリズム論を聞いたのは、平成4年9月だったから、もう10年程が経つ。その間ほとんど哲学の勉強はしてこなかったので、その間は、そういう予感はあったもののはっきりはそうとはいえなかった。そうはっきり言えるようになったのは「劇場国家にっぽん」に関する自説を思いつくまま書き始めた近頃のことである。中村雄二郎の「リズムの論理(リズム論)」は、西田幾多郎の「場所の論理」及び田邊元の「種の論理」とともに、私の提唱している「劇場国家にっぽん」の骨格になると思われる。・・・・・』

 

 東西文明が否応なく接触せざるを得ない今日、東西思想の相互触発が必然であり、世界の哲学界で最近西田哲学の研究が盛んになってきているようだ。延原時行(のぶはらときゆき)がその著書「ホワイトヘッドと西田哲学の<あいだ>・・・・仏教的キリスト教哲学の構想・・・・、2001年3月、法蔵館」の中で、『「西田哲学」の名が、今日の世界の哲学界で年毎に定着していく様は、実に、見るだに楽しくも嬉しい興奮であった。』と述べているが、私たち日本人は、哲学者でなくともオピニョンリーダーとして振舞うからには、西田哲学のなんたるかはある程度知っておく必要があるようだ。

 以上のようなことから、「劇場国家にっぽん」を構想するに当たってはどうしても、中村雄二郎のリズム論を踏まえながら、西田幾多郎の「場所の論理」を勉強しておくことが不可欠であると思われる。西田幾多郎の「場所の論理」の再認識といっていいかもしれない。中村雄二郎の西田幾多郎に関する著作としては岩波現代文庫のもの(西田幾多郎(1)、中村雄二郎、2001年1月、岩波書店)が適当かと思われるので、これにより「場所の論理」の勉強をしていきたいと思う。

 

 中村雄二郎によれば、西田の哲学は、<現代哲学の問題として根が深く>、<もっとも検討し甲斐のある対象>であるという。今日、西洋世界で哲学という知の形態の普遍性が厳しく問われ、アイデンティティー、無意識、トポス論=トピカ、実践、心身合一等々の問題が問題になっているが、西田哲学はそれらの問題と深くかかわっている。つまり、・・・西洋世界での、深層心理学、言語学・記号論、文化人類学などの新しい展開による哲学の知の問いなおしをとおして、西田の哲学の孕む世界的な問題が、かってなく明らかになってきたのである。

 すなわち、中村雄二郎によれば、伝統的な哲学の知が大きく問いなおされ、これまで反哲学あるいは非哲学とばかり見なされてきた知まで含めて再統合される道が探られるようになって、西田の仕事の持つ意味がいっそう広い視野のもとでとらえうるようになったという。学問というものはまさにそういうもので、西田哲学の場合も、ユングの深層心理学の発達によって自我(エゴ)と自己(セルフ)がはっきり区別されて認識されるや、俄然新たな理解が可能になった。

また、中村雄二郎は言う。はじめに述べたわが国での哲学という概念のあいまいさも、適切な接近方法を用いることによってかならずしもあいまいでなくなり、ときにはかえって積極的な意味を持ちうるだろう。そしてそのとき、よくいわれる東洋と西洋という対立や対比も、絶対的なものでなくなり、むしろ両者は文化の深層において大きく通底し合うものとなるだろう・・・・と。

そうなのだ。きっとそうだと思う。私などの知らないところですでにいろんな動きが始まっているに違いない。延原時行(のぶはらときゆき)の仏教的キリスト教もその一つなのであろう。

 

中村雄二郎は私のもっとも尊敬する哲学者である。その中村雄二郎が西田哲学と中村哲学との係わり合いについて以下のように述べている。それを紹介しておきたい。

 

中村いわく、『さて、私が言語論から共通感覚論へと主題の中心を移動させたのは、言語の含む豊かな問題性を踏まえた上で、論理(理性)の立場でなく言語(共通感覚)の立場から、哲学上のいろんな問題を捉えなおすためであった。そしてその結果、論理や理性への一辺倒が退けられて、感性、常識、レトレック、記憶、場所などの働きが見直されることとなった。これらの問題のうち、とくに西田の仕事との関係が深いのは、いうまでもなく<場所>の問題である。<共通感覚>の問題を多角的に考察していって、私は西田の<場所>の問題を再考せざるを得なくなったのである。』・・・・と。

 また、中村はこうも言っている。『もともと私は西田哲学や西田幾多郎とはまったく別なところから出発しながら時とともに関心の重なるところが多くなり、西田の問題の意味を私自身の観点からかなり内在的な形で捉えなおしうる態勢がとれるようになった。ということは、西田の哲学的営みについてかってよりも積極的な意味を認めるようになったことでもある。だが、そうだとすると、先に述べた制度論的な観点からの私の西田哲学への批判は撤回されることになるであろうか。決してそんなことはない。むしろ、西田の哲学に対する自分なりの内在的な理解が深まるなかで、それとのせめぎ合いによって、かえって私の批判の論点は鍛えられ、明確になるはずである。西田の哲学の批判されるべきところと評価されるところが明らかになり、それをとおしておのずと西田を超える道が見えてくるはずである。』

 

田邊元の「種の論理」と西田幾多郎の「場所の論理」は、私の提唱する「劇場国家にっぽん」が拠り所とする基本的な哲学である。バックボーンと言ってよい。私は、いずれ近いうちに、中沢新一が田邊を超え、そして中村雄二郎が西田を超えるに違いないと考えている。どのようなすばらしい哲学が生れてくるのか、大いに期待したい。大いに期待したいのだが、残念ながら当座の間に合わない。

時代の大きな変革期にあって、混迷度を深める今日、しっかりした哲学にもとづく国づくりのビジョンが求められている。今である。今国づくりを支える哲学が必要なのだ。だから二人の作業を待ってはおられない。今新しい国づくりを進めようとしている私たちなりに、哲学的な思索を試みながら、できるだけしっかりしたビジョンを作っていくしか仕方がないではないか。私は、多くのみなさんとこれからあるべき哲学を共有して、ビジョンづくりを行いたい。みなさんと一緒になってこれからあるべき「劇場国家にっぽん」のグランドデザインを進めたいのである。そのような想いから、私は先に「種の論理」について私流の解説を試みたのであるし、今回は・・・・・「場所の論理」について私流の解説を試みようとするものである。                

 

 それでは、以下、西田哲学の基本となる概念、純粋経験と無の論理について勉強していきたいと思う。それによって、西田哲学の真髄・「場所の論理」の何たるかが判るようになるはずである。中村雄二郎は、「場所の論理」の理解が深まれば自ずと表現的世界、プラクシス、超越といった現代哲学の理解も可能になってくるのであろうが、まあその辺はともかくとして・・・・まずは「場所の論理」に焦点を当てて勉強していきたいと思う。そして、「劇場国家にっぽん」のグランドデザインを行なっていきたいと思うのである。

 

ところで、西田哲学は、自己の捉え方が西洋のそれとは根本的に違うようだ。中村雄二郎によれば、・・・・西洋のそれは、デカルトのコギトに代表されるような、思考の自律によって根拠づけられた意識的自己、自由で開かれた能動性あふるる自己であるけれど、・・・・・西田哲学のそれは、多感な明治の青年の多くに共通する、挫折感、悲哀感を帯びた悩める自己であった。西田哲学と西洋哲学とは、そもそも出発点が違うようだ。自己についての認識の仕方というものが哲学の出発点である。

 

 

 

 まずは、西田哲学の出発点・・・

「ふらふらする自己」について。

 

 

 

Iwai-Kuniomi