10、「場所の論理」・・・主語と述語・・・判断のメカニズム

 

 それでは、いよいよ西田哲学の真髄・「場所の論理」に迫っていこう。いつものように中村雄二郎の説明を聞こう。

 

 『西田によれば、意識の野は場所(一般者)としての性格を持つが、そのことがもっとも明瞭にあらわれるのは、判断の論理形式のうちでである。判断とは、もともと形式論理学上、特殊(主語)が一般(述語)のうちに包摂されること、つまり、特殊が一般においてあることだからである。このように判断(<SはPである>)に見られる包摂関係とは、一般者(P)が特殊(S)を含む関係であるが、それはさらにいえば、一般がおのれを特殊化すること、つまり一般者の自己限定である。ある判断が現実に妥当するためには、その根底に具体的一般者がなければならない。そして、この具体的一般者というのは、もっとも豊かに自己において自己を映すような世界あるいは場所のことなのである。

  また、西田によれば、われわれ人間の知識の体系そのものが、このように具体的一般者の無限の層の重なり合いから成っている。それは二つの方向を持ち、一方では、判断の主語的方向の極限に無限に深い直感的なものが見られる。と同時に他方では、述語的方向の極限に、そこにあるすべてを含む無限に大きい一般者が見られる。

 

 まあ、いつものように難しいことおびただしい。でも弱音を吐かずに頑張っていこう!

 

 判断とは、「あの花は赤い」というように、主語と述語による文章があって、その文章によって始めて判断というものが生じる。ただ意識があるだけではダメ。主語と述語による文章が認識されなければ判断というものは生じない。文章でなくとも、主語と述語のある関係が認識されなければならない。これを哲学的に言うと、「判断とは、主語が述語のうちに包摂されること」という言い方になる。

主語が述語に包摂されるということは、まあ判り易く言えば、主語が述語にくっつくということだが、意識の世界において主語が述語にくっつくということは一体どういうことなのか。中村雄二郎は、判断とは、「一般者が特殊を包むこと」とか、「一般がおのれを特殊化すること」とか、「一般者の自己限定」と言っているが、「一般者の自己限定」とは一体どういうことか。

 

ある赤い花を見てその花は赤いと判断をする場合を考えてみよう。まず、作用する自己というものは一体何に作用するかと言うと、その花に作用する。そして、赤いという色の刺激が自己の神経系のどこかに伝達され、その痕跡が残る。と同時に、その作用する自己がおのれの<意識の野>に映し出されて、赤いという意識が発生するのだが、その限りにおいてはまだその花は赤いという判断は生じていない。判断が生じるということは、それを正しいか正しくないかを判断する自己がいて、どちらかの判断をしなければならない。判断をする主体が存在するということだ。「その花はあかい・・・のだ(と思う)。」・・・、文章を論理的に書くとすればこうなる。その花を赤いと見ている自己がおのれの<意識の野>に映し出されて、その花は赤いという意識がまず生じるのだが、まだその段階では判断は生じていない。対象物というか客体というか、論理学では述語というのだが、そういうものを意識しているだけだ。自己が意識していることには間違いないのだが、まだ自己というか主体というか、論理学では主語というのだが、そういうものの判断はまだおりていない。述語と主語の間に関連性が生じていないということだ。論理学では、包摂という言葉を使うのだが、主語がまだ述語に包摂されていないということである。

 

実は、<意識の野>には、二つのグループの振動体がある。ひとつは、作用者としての自己が映し出される場所の振動体であり、もうひとつは、自己というか主体というか主語が、ある判断を下す場合に関係する場所の振動体である。前者を述語面、後者を主語面と呼ぼう。述語面の振動に応じ、主語面の振動が生じる。共振現象と考えてもらって良いが、述語面の振動によって生じる主語面の共振現象、それが判断である。論理学では、述語によって主語が包摂されるという。

あの花は赤いという一般的な性格のもの(一般者)が自己という特定の者(特殊)を包括するということ、つまり、一般者の自己限定ということの理解も、判断というものの理解も、・・・すべて、一般者に関係する何かが特殊の何かと共振するという・・・・、こういうイメージで理解することができるのではないか。私は、これをさらに要約して、「判断とは、一般者の自己限定であるが、一般者と特殊との共振現象、述語と主語との共振現象である」・・・・・と言うことができるのではないかと思う。

 

判断とは主語と述語の共振現象だとご理解いただいたとして、それでは次に、「ある判断が現実に妥当するためには、その根底に具体的一般者がなければならない」とはどういうことなのか。これがまた厄介である。果たしてどういうイメージを持てばいいのであろうか。

 

ある判断が現実に当てはまるためには、現実における経験の積み重ねがなければならない。経験の積み重ねによって、いろんな判断が積み重なっている。ということは、「一般者の自己限定」が数多くあるということだ。数多くの一般者が自己限定されているということだ。つまり、経験によって(具体的な事実にもとづき)、数多くの述語が<意識の野>の述語面に過去の痕跡として残っている。蓄積されている。そういう具体的な事実によって意識された述語というものが、「具体的一般者」ということだ。まあ、判り易く言えば、経験の蓄積ということだ。そういう経験の蓄積は、もちろん<意識の野>の述語面に蓄積されている。そして、<意識の野>は、氷山の一角、自我の部分にある。

 

次に、中村は、「この具体的一般者というのは、もっとも豊かに自己において自己を映すような世界あるいは場所のことなのである。」と言っているが、これはどういうイメージで捉えたらいいのであろうか。私もよく判りません。よくは判らないが、中村は「具体的一般者が無限に重なり合っている」と言っているので、まずは私のイメージを説明してみたい。

 

私は先に、自覚の深まりということの説明で、「自覚の深まりということは自我と自己の間に無限級数的な共振が起こるということだ。」と言ったが、無限級数的な共振が起こるためには、自我の中にも自己の中にも共振を起こす振動体がなければならぬ。また、私は先に、「作用者としての自己が<意識の野>に映し出される」ということの説明で、「<意識の野>を構成する無数の振動体のうち、ある部分が共振して、ある意識が発生する」と言ったが、私のイメージでは、自我の中の< 意識の野>にも当然振動体がある。その中に具体的一般者に関連する数多くの振動体がある。経験によっていろいろな振幅や波長を持つように至った数多くの振動体がある。これを中村は、具体的一般者の無限の層の重なり合いと言っているのではないかと思う。そして、具体的一般者のことを、もっとも豊かに自己において自己を映すような世界又は場所と言っているのだが、私のイメージでは、具体的一般者に関連する振動体というものは、<意識の野>の全般に散ばっているのではなくて、もっとも振動のしやすい一番良い場所に集中しているのではないかと思う。

 

まあ、ややこしい説明で恐縮だが、私なりにこうイメージしないと中村雄二郎の説明が理解できないのだ。お許しいただきたい。

 

具体的一般者の無限の層の重なり合いは、二つの方向性を持っていると中村雄二郎は言っている。判断の主語的方向と判断の述語的方向である。私は、層の重なりとは考えてないで、振動体の集中と考えている。自覚の深まりということの説明で、私は、<意識の野>という鏡の中でフラクタル現象の生じ得ることを指摘したが、私は、中村雄二郎のように「無限の層の重なりの極限」をイメージするのではなく、<意識の野>のある場所に集中している振動体がある共振現象によって・・・・、<意識の野>の主語に関連する部分全体又は述語に関連する部分全体を震わすのではないかと思う。それがひいては自己の主語に関連する部分の全体又は述語に関連する部分の全体をも震わすことになるという・・・・、そういうイメージを持っている。共振現象の極限状態である。すべて振動なのである。中村雄二郎の一番言いたいのは振動つまりリズムではないのか。

 

要するに、判断の主語的方向というものと判断の述語的方向というものがあって、自覚の深まりと同じような特別の状況で、主語的方向では直感というものが生じ得るし、述語的方向では無限に大きい一般者が現れるのだ。

 

それでは、西田哲学の真髄に迫って、もう一度、中村雄二郎の説明を聞こう。

 

 『西田によれば、意識の野は場所(一般者)としての性格を持つが、そのことがもっとも明瞭にあらわれるのは、判断の論理形式のうちでである。判断とは、もともと形式論理学上、特殊(主語)が一般(述語)のうちに包摂されるこ、つまり、特殊が一般においてあることだからである。このように判断(<SはPである>)に見られる包摂関係とは、一般者(P)が特殊(S)を含む関係であるが、それはさらにいえば、一般がおのれを特殊化すること、つまり一般者の自己限定である。ある判断が現実に妥当するためには、その根底に具体的一般者がなければならない。そして、この具体的一般者というのは、もっとも豊かに自己において自己を映すような世界あるいは場所のことなのである。

  また、西田によれば、われわれ人間の知識の体系そのものが、このように具体的一般者の無限の層の重なり合いから成っている。それは二つの方向を持ち、一方では、判断の主語的方向の極限に無限に深い直感的なものが見られる。と同時に他方では、述語的方向の極限に、そこにあるすべてを含む無限に大きい一般者が見られる。』

 

西田哲学の真髄が、もっとも簡明に述べられている。「述語的論理」、言い換えれば「場所の論理」ということだが、主語は述語においてある。述語が<意識の野>に映し出されて自覚というものが生じ、述語が主語を包摂して判断というものが生じるのであるから、述語というものが基本的に大事である。主語(主体)より述語(客体)を重視すべきである。中村雄二郎が言うように、「われ思う、故にわれあり」ではなくて、「われ語る、故にわれあり」である。すべて何ものかとの「響き合い」である。「場所」である。

 

「場所」の哲学的な意味がなんとなく判りかけてきた。「場所の論理」がなんとなく判りかけてきた。いましばらく「劇場国家にっぽん」の旅をつづけながら、「場所」について考えていきたい。「場所を」をとおして「わが国のあり方」をいろいろと考えていきたい。その前にもう一度このシリーズを吟味して欲しい。

 

 

1、場所の重要性

5、場所(トポス)とは

8、「劇場国家にっぽん」と「知のトポス」

 

Iwai-Kuniomi