3、自己と経験

 

 

 中村雄二郎は、岩波現代文庫(西田幾多郎T、中村雄二郎、2001年1月、岩波書店)のなかで、純粋経験について次のように書き出している。まあむつかしい文章だ。

 

 『若き日の西田がアイデンティティの拠り所を真の自己に求めたこと、またその自己が悲哀性を帯びた自己、悩める自己であったことについては、すでに述べた。ところで、悲哀性を帯びた自己、悩める自己とは、もちろん、理性的、意識的(知的)な自己ではなくて、感情を帯びた身体性をそなえた自己である。受苦(じゅく、パトス)を帯びた行為的な自己であり、宇宙性を帯びた自己である。そのようなものとしてこの自己は、単なる主観的(主体的)なものでも、単なる客観的なものでもありえない。また、分析的、間接的にもとらえられない。したがってそれは、主観と客観とが分かれる以前の経験、未分化な直接経験のうちで直感的にしかとらえることができない。こうして、西田が永い探求の道を経てようやく辿りついたのが、直接経験としての<純粋経験>であった。』

 皆さんわかりますか。むつかしい。悲哀性を帯びた自己とか悩める自己というのは先に述べたように「ふらふらする自己」であり、老松克博の「漂泊する自我」というわかりやすい本も出ているので、その辺の理解はそうむつかしいことではない。しかし、受苦(じゅく、パトス)を帯びた行為的な自己とか、宇宙性を帯びた自己と言われると途端に判らなくなる。西田幾多郎が永年苦しんで辿りついた自己と経験との関係、つまり純粋経験の概念について説明するのであるから・・・・・まあわからなくあたりまえであろう。私もよくは判らないのであるが、それでは前に進めない。恥をしのんで私流の説明をするとしよう。

 人間というものはいろんなものを経験することによって、自己というものを形成していく。 私は先に、田邊哲学に関連し「分有の法則」について私流の解釈をしたが、その中で、アイデンティティー(人格)について次のように述べた。

 

『・・・・・・・・・「群盲象を撫でる」というたとえがあるが、一人の人間にもいろんな人格がある。通常は、それらがバランスよくコントロールされているので、悪い人格はそう表にでてこない。そのコントロールされているさまを、河合隼雄さんは「アイデンティティー・ネットワーク」という概念で説明されておられる(「日本人の心のゆくえ(岩波書店)」)。岡野憲一郎さんの理論(「脳と心の多重理論・・・心のマルチ・ネットワーク(講談社)」)もおおむね同じような概念のものと考えてよい。いろんなアイデンティティー(人格)がネットワークで繋がっている。ある人格が何かの拍子で力を得て巨大化すると、その繋がりが切れる。その繋がりが切れると、その巨大化した人格が表面に飛び出してくる。それがたまたまジキル氏であったりするのである。 

人間は誰でも善人といえば善人であるし、悪人といえば悪人である。善人にもなるし、悪人にもなる。確認されているのは十六重人格者であるが、世の中にいろんな人がいることを考えれば、一人の人間の中に存在するアイデンティティー(人格)は、数えきらないぐらいの種類があるのではなかろうか。それらアイデンティティーの中心が「自己」である。

・・・・・・ (中略) ・・・・・

 いずれにしろ無限と言っていいほどのいろんなアイデンティティーがあって、それらは固有の波長を持ってピクピクと自己振動している。ものすごい速さで震えているのだ。相手によって引き合うか反発するかの鋭敏な運動体である。

 響きあいというのは、外からの波(リズム)に自己のアイデンティティーのどれかが共振することであるが、共振は必ずしも外からの波(リズム)だけではない。自ら発する波(リズム)によって共振することもある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 』

 

 私としてはこういうイメージでアイデンティティーとか人格という言葉を使っているのだが、今問題にしたいのは、人間というものは、どのようにしてこういうアイデンティティー(人格)というものを作り上げていくかということである。つまり、人間はいろんなものを経験することによっていろんなアイデンティティー(人格)が作り上げていくのだが・・・、このことはどのように理解したらいいのかということである。

 

中村雄二郎のリズム論にもとづき、経験はリズムであるという理解に立てば、いろんなアイデンティティーは、外からのいろんなリズムを・・・・それなりの刺激として受けて、いずれは共振するようになるのだが、そのメカニズムは判らない。判らないのだが、ともかく、経験によってアイデンティティー固有の波長が形成されるということにしておこう。しておこうというのは無責任な話だが、お許しいただきたい。そのほうが経験とか純粋経験について説明がし易いのだ。哲学者でないものには、哲学用語としての経験とか純粋経験というものを理解することは難しい。したがって、私としては、河合隼雄のアイデンティティーネットワークの考え方と中村雄二郎のリズム論をイメージしながら、経験とか純粋経験というものを説明しようとしている。

 

ヘーゲルは、その認識論において、感覚、知覚、経験、理解を区別し、経験を感覚的確信や知覚より一段と高次の概念であるとしていたようであるが、ここでそういう場合の感覚と知覚は、生来のものである。哲学では生得観念というのだそうだが、経験によって獲得された観念、獲得観念とは区別される。多くの経験を積み重ねることによって生来の感覚や知覚はより豊かになっていくが、これはアイデンティティーとの関係でいえばどういうことになるのか。生来の感覚や知覚に関係するアイデンティティーの固有の波長つまり固有振動が変わるのかどうか。変わるとはちょっと考えにくい。だとすれば、生来の感覚や知覚が経験によってより豊かになるということはどういうことなのか。これもまあ勝手な想像だが、私の想像では、無垢なアイデンティティーがあって、それが経験というリズム振動をすることによってそれなりの波長、固有振動を持つようになるのではないか。経験を積み重ねることによって、固有振動を持ったアイデンティティーが増えていくのである。それが自己形成ということである。経験によって自己は形成されていくのである。

 

固有振動を持ったアイデンティティーは、ある特定の刺激と当然共振する。つまりある特定の外界(環境世界)と共振する。ということは、経験というものを媒介として、ある特定のアイデンティティに対応した環境世界があるわけで、いろんな環境から成り立っているひとつの世界というものは・・・・、いろんなアイデンティティーから成り立っている自己と対応している。経験豊かな自己はそれだけ豊かな世界をもっているということだ。自己というものと自分の世界とは一対一に対応している。自分の世界とは、いうまでもなく、感覚、知覚という生得観念と、経験、理解という獲得観念の総体である。これを言い換えれば、自分の世界とは、本来の世界と経験により獲得した世界の総体である。問題は、本来の世界というものをどうすれば認識できるのか・・・ということである。

 

人は、生れたばかりは誰でも無垢である。生来の感覚や知覚のみが働いている。生来の感覚や知覚が働いているが、まだ経験はないし理解力はないので、生れたばかりの人間は自己を理解することもできないし、外界つまり環境世界を理解することもない。逆に、人は経験を積み重ねることによって、固有振動を持ったアイデンティティーが増えながら自己というものが発達していき、自己を理解することも環境世界を理解することもできるようになるけれど、もはや本来の自己を理解することも本来の世界も理解することはできない。

その生来の感覚や知覚のみを働かそうとすれば、経験によって獲得された固有振動を持つアイデンティティーを振動させない・・・・、つまり雑念を取り除いた・・・、例えば座禅をするとか滝に打たれるとかの・・・・特別の行為をしなければならない。そういう雑念を取り除いた特別の行為が・・・・西田幾多郎の言うところの純粋経験である。純粋経験によってはじめて本来の自己や本来の世界というものを理解することができる。

 

自己は経験によって変化する。まあわかりやすくいえば、自我は、氷山の見える部分であり、獲得概念である。後天性のものと理解するといいのかも・・・。水面下の隠れた部分は、無意識の世界を司る生得概念である。先天性のものと理解するといいのかも・・・。その二つの部分の総体が自己である。したがって、氷山の一角つまり自我がふらふらすると全体つまり自己もふらふらするのだが、先天性の・・・・無意識の世界を司る水面下の部分というのはほとんど動かない。これが真の自己で、参禅をするとか滝に打たれるとか・・・そういう特別の行為、それを中村雄二郎は受苦(じゅく、パトス)を帯びた行為と言っているのだが、そういう特別の事をしないと真の自己というものは見えてこない。そういう真の自己というものは、いろんな経験によって、主観とか客観とかが意識される以前の、無垢な自己である。もちろん生れたばかりの赤ちゃんという意味では毛頭ない。赤ちゃんに真の自己が見えるわけがない。どうすればそういう真の自己が見えるのか。真の自己が見えるということは、真の世界が見えるということである。何故なら、上述したように、アイデンティティーとそれと共振関係にある環境とは、波長が同じ、つまり同一であるからである。そういう意味では、無限にあるアイデンティティーは、総体として、宇宙そのものであるといってよい。受苦(じゅく、パトス)を帯びた行為的な自己は、まさに宇宙性を帯びているのである。

 

 

意識と自覚と判断の積み重ね、それが経験であるが、経験無くして人格というものは形成され得ない。自己は経験においてある。経験は場所である。したがって、自己は場所においてあるという言い方もできるのである。しかし、私たちは、場所の重要性というものをある程度理解することはできても、自己は場所であると言い切ることができるか。できないであろう。場所についての理解が不十分なのである。私たちは、場所の重要性を哲学的に理解しなければならない。そのためには、「場所の論理」というものをそれなりに理解することが必要で、そのためには、西田哲学の基本認識・純粋経験ということについてまずは理解しなければならない。意識と自覚と判断のメカニズムや「場所の論理」の勉強はその後にしよう。

 

                それでは、いよいよ純粋経験ということについて。

 

Iwai-Kuniomi