4、純粋経験の諸様相

 

 中村いわく、『まことにわれわれは<自己の意識状態を直下(じか)に経験したとき、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇(さいじゅん。もっともまざりっけのないという意味)なる者である>。そしてこの純粋経験の立場に立つとき、通常考えられている個人と経験との関係が逆転するだけでなく、真実在は知情意の合一したものとしてあらわれる。こうして、<個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである>とも、また<主客を没した知情意合一の意識状態が真実在である>とも言われるのである。』・・・・と。いやあまたまた難しい文章だ。こりゃあなんですか。皆さんお判りになりますか。

 

 私が判らんといってしまえば終わりですので、何とか挑戦してみよう。

 

 私は、この「劇場国家にっぽん」シリーズに入る最初の頃、陰陽師(おんみょうじ)のページをアップした。その中で、私は、『私が実にすばらしいと思うのは、狂言界の寵児(ちょうじ)野村萬斎さんを使ったということです。注目の主人公・安倍晴明役には、狂言界を象徴する存在の野村萬斎は期待に違わず見事な演技を演じ切っています。すばらしい。能や京舞などの演技には、惟識の哲学でいうところの「挙体性起(きょたいしょうき)」があり、加えることも引くこともできない・・・・完成された動きがあります。狂言もそうですね。あの映画はその狂言の神髄が生かされているのです。』・・・と述べ、挙体性起(きょたいしょうき)については、注書きで・・・・『かって私は北海道は標茶の仲間と西別岳で「アヤメ登山」というのをやったことがあります。いずれはアヤメか杜若(かきつばた)といいますが、杜若の群生は京都は上賀茂の太田神社でみられますが、アヤメの群生というのはなかなか見られません。それを見れるのは西別岳です。ついでに申しておきますが、あけぼのツツジというのは桜の木より大きい木に咲きますが、宮崎県は祝川(ほうりがわ)の源流・大崩山(おおくえやま)のあけぼのツツジ・・・・・、五葉松の原生林の中に梢高く咲いているあけぼのツツジはそれはそれは見事なものです。夢の中にいるようです。西別岳のアヤメもそれはそれは見事なものです。これは・・・・まさに「挙体性起」だと思いました。』・・・・と述べた。 

 

 詳しくは、アヤメ登山のときの説明を見ていただきたいと思うが、ここではイメージをつかんでいただくために要点のみを申し述べる。

 

近代科学は、普遍性を求めるものであり、したがってあらゆる存在の明確な区別、言い換えれば、関係性の截断が必要である。華厳宗というものは、そういう近代科学の原理とは全く違うことをやったのであり、近代科学が否定した関係性を重視する。全関係の総和としての存在というものは、名前がつけられないから「無」と言わざるを得ないが、華厳宗ではそれを「挙体性起(きょたいしょうき)」という。生け花というものは、存在が挙体性起(きょたいしょうき)するもっともいい形を求めるものであり、そういう意味で、「存在が花している」のである。こういう日本文化の存在論からすると、存在の現れとしてそこに花がある。すべてのものは存在から出てきた。私は、存在が岩井國臣しているのである。

さて、もう少し説明を続ける。花は美しいが何故美しいのか。中村雄二郎によれば、小林秀雄は、能の持つ不思議な実在感に強い感銘を覚えて、美しい花がある、花の美しさというようなものはない・・・・と言い切ったという。そうなんだ。花とは別の「花の美しさ」というものがあって、それを我々は感知しているのではない。そうではなくて、ただそこに美しい花がある。つまり真実在が花しているだけのことなのだ。

 

かえって判らなくなったでしょうか。そうかもしれませんね。そうかもしれませんが、挙体性起(きょたいしょうき)ということが華厳宗では古くから言われており、能やお花などの日本芸術ではそういう思想で実践されているということをまず知って下さい。芸に没頭していくと自分と対象の区別がつかなくなる。一体化するのです。そういう感覚は実際にやってみないと実感できませんね。なんぼそうだといわれても私たちには判らない。ある境地に達しないと実感できない。そういう自分と対象の区別がつかない、自分と対象とが一体化した感覚を実感、これは仏教でいえば悟りの感覚だと思いますが、そういう感覚を直下(じか)に実感してみたいですね。それが直接経験であり、純粋経験なのです。そして、自分と対象の区別がつかない、自分と対象とが一体化した状態というのは、真実在というものを実感しているということなのです。

 

上述の文章にある<主客を没した知情意合一の意識状態が真実在である>というのはそういうことである。主客、つまり自分と対象を没するということは、それらが一体化するということであるし、そのような意識の状態では、知とか情とか意の区別はなく一体化している。そういう状態にならなければ真実在というものは実感できない。

真実在というものはもちろん一である。一であるが、その真実在が花しているし、岩井している。森羅万象すべてのものが真実在の挙体性起(きょたいしょうき)したものである。したがって、多である。このように、真実在は一であり多である。これはもう「無」としか言いようがない。このことはいずれまた詳しき述べることがあると思うが、とりあえずここでは挙体性起(きょたいしょうき)ということを念頭において上記の文章を読み返して欲しい。なんとなく判ってくるのではなかろうか。問題は、<個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである>という部分である。こりゃあなんですか。

 

私は先に、『・・・・固有振動を持ったアイデンティティーは、ある特定の刺激と当然共振する。つまりある特定の外界(環境世界)と共振する。ということは、経験というものを媒介として、ある特定のアイデンティティに対応した環境世界があるわけで、いろんな環境から成り立っているひとつの世界というものはいろんなアイデンティティーから成り立っている自己と対応している。経験豊かな自己はそれだけ豊かな世界をもっているということだ。自己というものと自分の世界とは一対一に対応している。自分の世界とは、いうまでもなく、感覚、知覚という生得観念と、経験、理解という獲得観念の総体である。これを言い換えれば、自分の世界とは、本来の世界と経験により獲得した世界の総体である。・・・』と述べた。ここで、本来の世界とは真実在のことであり、これは、直接経験、純粋経験により実感できるものである。そういう経験は特別の経験であり誰もが経験できるものではないが、経験というものがあってはじめて実感できる。経験というものがなければ経験により獲得した世界も本来の世界も実感できないのであるから、経験というものがなければ自分の世界は存在しないに等しい。自己は存在しないに等しい。自己というものは経験があっての自己である。そういう自己が経験により獲得した世界のみならず本来の世界をも実感する・・・・・、それが純粋経験である。

 

真実在や純粋経験等について十分説明できたとは思わないが、最後に中村雄二郎の純粋経験に関する論評を紹介してこの章を終わりたい。

 

『このような考え方を中心に持つ西田の<純粋経験>説は、20世紀初頭の最新理論であったエルンスト・マッハ、ウィリアム・ジェームズ、ヴィルヘルム・ヴィントらの実証主義、経験主義、心理主義の哲学がそれぞれの角度から唱えた<純粋経験>論あるいは<直接経験>論とかかわりを持ちながらも、独自な内容を持った。すなわち、一方ではドイツ観念論と結びつき、他方では永年の参禅による<見性>の体験・・・諸々の妄念をとり去り真の仏性を見極めること・・・・に裏づけられた行為的自己に依拠することによって、<純粋経験>は、生命的自覚に根ざした活動的性格を持つことになった。西田によれば、この純粋経験つまりは主客を没した知情意合一の意識状態こそが世界のうちで唯一の真実在であり、また逆に、実在として直接われわれに知られるものは、ただ<独立自全の純活動>としての純粋経験の事実だけである。

そして、主観と客観、精神と物質、自我と自然など、ふつう実在するものと考えられている諸存在は、この唯一の実在である純粋経験が反省によって分裂してあらわれたものにすぎない。主観とは、実在(純粋経験)の統一方向をとり出したものであり、客観とは実在(純粋経験)の統一せられる方向をとり出したものである。また、精神や自我は実在(純粋経験)の統一する働きであり、物質や自然は実在(純粋経験)の統一せられたものである。このようなわけで、<純粋経験>は、統一的に活動する現実的な総体として、もっとも直接的でかつもっとも根本的なものだということになる。そして神もまた、この宇宙に潜む無限なる実在の統一力、<独立自全なる無限の活動>としてとらえられる。まことに西田の<純粋経験>の立場は、実在(意識現象)の方向で、自己を出発点に自然、精神、神におよぶ実在の世界の万般に新しい展望をきりひらいたものであった。』

 

西田哲学の基本認識・純粋経験について、私の説明は以上であるが、おおよその理解が得られればそれで良し・・・・、問題は・・・・「場所の論理」である。まだもやもやしたものが残っているが、ぼちぼち本丸に近づいていきたい。場所の哲学的な意味をまずは勉強しなければならない。その後いよいよ本丸だ!

そもそも「場所(トポス)」の哲学的意味は?

 

Iwai-Kuniomi