6、場所の分節化(その1)
先に、私達は、中村雄二郎の説明を中心に、意識的自我の存在根拠あるいは基体としての場所として、共同体、無意識、固有環境について簡単に見てきた。それらはいずれも、現在あらためて人びとが関心を向けざるを得なくなった場所の問題であるのだが、現在問題になってきている場所とは、それだけに尽きないと中村は言う。中村はそのような共同体、無意識、固有環境という<存在根拠(基体)としての場所>のほかに、<身体的なものとしての場所>、<象徴的な空間としての場所>、そして<論点や議論の隠された所としての場所>の三つがあるというのである。それでは、これから、それらの勉強をしていきたい。
まず、<身体的なものとしての場所>とは何か。
これは、共同体、無意識、固有環境といった通常いうところの場所、厳密に言えば、<存在根拠(基体)としての場所>ということになるのだが、そういう通常いうところの場所とかかわり、一部重なり合っているのだと中村は説明している。というのは、中村によれば、意識的な自我主体は、実際には身体という場所を基体とすることなしにはありえず、しかもそこに成立する身体的実存によって、空間的な場所は逆に意味づけられ、分節化されるからである。そして、中村雄二郎は言う。そういう身体的実存によって意味づけられた空間、身体的実存によって分節化された空間というものは、身体の拡張としてとらえられる。すなわち、<身体的なものとしての場所>といってよい。
やっぱり哲学者の説明は難しいですね。私たちには、身体的実存とか分節化という言葉まず使わないし、したがってすぐにはイメージが湧きませんね。
先に述べたように、固有環境というのは、個体の生存と活動を成り立たせている生物学的、生態学的な基盤のことである。通常私たちがいうところの環境は、もちろんここでいう固有環境であるし、私たちの身体もそういう意味で固有環境である。生物学的な基盤ですからね。空間的な場所というものは、もちろん生物的な基盤であるし、生態的な基盤である。したがって、間違いなく固有環境というか通常いうところの環境ではある。しかし、空間的な場所というのは、それにとどまらず、抽象的な意味をも持っている。私たちの身体が拡張したものとしての意味を持っているというのですね。それは何故かというと、そういう抽象的な空間は、実際の生物学的・生態的な空間ではあるけれど、身体的実存によって分節化しているからなんですね。いよいよわからなくなりましたでしょうか。
大きな樹木をイメージしてください。大きな枝が出ていますね。何でこんな枝が出てきたのか。最初は小さな芽が出てくるのですが、そこに節があって、その節から枝が成長していく。太い幹から枝が分節化していくんですね。分節化というのはそういうイメージです。哲学者の使う言葉というものは厳密だ。枝分かれといったのでは節がイメージされない。節がこの際大事な意味を持っているので、節がきっちりイメージされなければならない。生物学的・生態学的な実際の空間など<存在根拠(基体)としての場所>というもの・・・、それは大きな幹だが、その幹には、身体的実存(身体性)という節があって、その節から抽象的な意味をもった空間(枝)ができる。そういうイメージです。だとすれば、問題は節ですね。身体的実存(身体性)という節ですね。これは一体何なのか。
先に述べたように、共同体や無意識は、固有環境とちがって、ふつういう意味での空間的な場所を形づくるものではない。が、それらは、意識的自我がそこにおいて成り立つ場あるいは場所を形づくっている。つまり、共同体、無意識、固有環境のいずれにもいえることは、それらが人間的自己にとって、基体としての場所、場所(基体)だということである。そういう<存在根拠(基体)としての場所>に身体的実存(身体性)という節がある。
ところで、身体は、人間的自己にとって、基体としての場所、場所(基体)であるとともに、目で見、耳で聞き、手で触れ、頭や心で意識をする主体でもある。身体は、客観的身体と主観的身体の両義性を持っている。しかも、意識の世界のみならず無意識の世界を持っている。私は先に、純粋経験の多様性を説明したなかで、「自己というものと自分の世界とは一対一に対応している」とか、<主客を没した知情意合一の意識状態が真実在である>であると述べた。また、挙体性起(きょたいしょうき)ということに触れながら真実在のイメージを説明した。真実在が花しているとか岩井しているというイメージである。身体的実存とか身体性というイメージが湧いてきたでしょうか。要するに、身体には物質性と精神性という両義性がある、それが節になって、身体の拡張としての空間ができていくのである。
<身体的なものとしての場所>という意味がお判りいただいたとして、さらに中村雄二郎の説明を聞こう。
『しかし、<身体的なもの>として捉えなおすとき、場所はどのようなものとしてあらわれるだろうか。この場合、精神と身体とが実態的に区別され、前者が後者のうちに宿ったり住まったりするのではない。そうではなくて、端的にいえば、むしろ活動する身体の自己意識が精神だということになる。私達は身体を持つのではなく、身体そのものを生きている。生きており活動している以上、意識は世界に向かって働いているが、そういう意識に対して、私たちの身体は基盤となり、したがって地平を形づくっているのである。
その上、活動する身体として、私たち一人ひとりは、世界に向かって開かれ、私たちの身体は、皮膚によって閉ざされた生理学的身体でなく、その境界を越えた範囲にまで拡がっている。拡張された身体をわかりやすいかたちで示すものは、社会空間のなかで形づくられる固有の場としてのテリトリー(縄ばり)である。このテリトリーというのはもともとは動物行動学でいう棲み分けの範囲であり、個体あるいは種が支配的に振舞う範囲のことであるが、人間の場合にはそれが心的意味をつよく帯びるとともに、特定の場所に固定されないで可変性を持っている。』
<身体的なものとしての場所>については以上である。
それでは次に、<象徴的な空間としての場所>と・・
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私の勉強の成果がよく判ります。これを参考にしながら、みなさんも西田哲学の「場所の論理」や中村雄二郎の「リズム論」を勉強して下さい!