9、意識と自覚

 

 いろんな問題の解決に当たっては認識論が基本的に大事である。私は、両頭截断(りょうとうせつだん)ということをよく言う。これは禅の言葉に「両頭、倶(とも)に截断(せつだん)して一剣天に倚(よ)って寒(すさま)じ」というのがあり、これを略してそう言っているのだが、相対的認識でなく、絶対的認識の必要性を言っているのである。ものごとには両義性があり、例えば白か黒かとか善か悪かだとか、二者択一を迫ることが少なくないのだが、そういう二者択一でなく、白でもないし黒でもない、白といえば白だし黒といえば黒だというような絶対的認識が重要だというわけだ。・・・・・・では、「場所の論理」ではどういう認識に立っているのか。以下、その辺の勉強をしていきたいと思うが、まずは、西田幾多郎は意識とか自覚というものをどのように考えたのかということを知らねばならない。

 

 いつものように中村の説明を聞こう。

 

 『西田幾多郎にあって、<場所>の問題への接近は、意識(自覚)の働きの根拠づけを、判断の形式に即して論理化するかたちで行われた。それというのも、<純粋経験>における自覚の深まりは、その心理主義的な色彩を払拭しておのれの立場を論理的に基礎づける新しい認識論を要請することになったからである。西田によれば、これまでの認識論は主観と客観の対立から出発したが、むしろ意識(自覚)からこそ出発すべきである。この場合の根本は、何よりも<自己の中に自己を映す>ことに求められる。 なにものかを意識するとは、作用者としての自己がおのれの<意識の野>に映し出されることだからである。』

 

 やっぱりむつかしいですね。何かよく判らないけれどともかく<意識の野>というものがあって、そこに作用者としての自己が映し出されたとき、意識というものが生じてくる。花を見て赤いと意識する場合、自己がその花を見る・・・つまり自己が花に作用するからそれに応じて花の発する光が自己に伝達される。これは小学生でも判ることだがこれから先が難しい。花の光が自己に到達してからどうなるのか・・・・というわけですね。

花の光は何らかの刺激に変換されて神経系統に伝わっていくのは当然として、それが直ちに<意識の野>に伝達されるのではない。そうではなくて・・・、その刺激はまずは神経系統のどこかに伝わり、その部分にその刺激の痕跡が残る。自己に花の痕跡が残るのである。その花の痕跡の残った自己・・・、それが作用者としての自己である。まだこの段階では意識は生じていない。おのれの<意識の野> に、花の刺激ではなく、花の刺激を受けた自己、つまり作用者としての自己が映し出されなければ意識は発生しない。

 

さて、このように、意識というものは、自己の何かが何かに作用し、それがまたおのれの<意識の野>に映し出されるというメカニズムによって発生する。映し出されるということは花の直接的な刺激ではなくてそれを受けた自己が発する第2の刺激を受けているということだが、何が刺激を受けるかというと、それは<意識の野>という自己のある部分である。それは自我の中にある特別の鏡であるが、そういう自己のある部分である。そしてまた、何が刺激を与えるのかというと、それは花である。花ではあるが、花が直接<意識の野>に刺激を与えるのではない。花からの光が目に入って、その光の刺激に起因する何らかのシグナルを自己が何らかの形で受け止めなければならない。自己・・・、それは作用者としての自己ということであるが、この場合の自己とはアイデンティティーネットワーク全体のことである。したがって、そのアイデンティティーネットワークのどこが受け止めるのかはわからないが、ともかく、光の刺激に起因する何らかのシグナルを受け止めるのである。そういうシグナルを受け止めたアイデンティティーネットワークは今度は直ちに<意識の野>に作用する。

作用者としての自己が<意識の野>に映し出されるということは、そういうシグナルを受け止めたアイデンティティーを含むアイデンティティーネットワーク全体が<意識の野 >に作用するということである。その結果、<意識の野>を構成する無数の振動体のうち、ある部分が共振して、ある意識が発生する。まあ、なんだかややこしい説明になってきたが、もういちど要点を言うと、なにものかを意識するとは、作用者としての自己がおのれの<意識の野>に映し出されることだからである。これを単純にわかりやすく言い換えれば、<意識の野>を構成する無数の振動体のうち、ある部分が共振して、ある意識が発生するのだ・・・・・・という言い方もできよう。意識も自覚も同じと考えて良い。作用者としての自己がおのれの、<意識の野>に映し出されているからだ。

 

ところで、私は先に、「生来の感覚や知覚のみを働かそうとすれば、経験によって獲得された固有振動を持つアイデンティティーを振動させない・・・・、つまり雑念を取り除いた・・・、例えば座禅をするとか滝に打たれるとかの・・・・特別の行為をしなければならない。そういう雑念を取り除いた特別の行為が・・・・西田幾多郎の言うところの純粋経験である。純粋経験によってはじめて本来の自己や本来の世界というものを理解することができる。」と述べたが、そもそも純粋経験における自覚の深まりというものはどういう現象なのか。つまり本来の自己や本来の世界というものを理解できるようなレベルまで自覚が深まるということはどういう作用が働いているのか。現象とか作用というのは運動と言い換えていいのかもしれないが、ともかくどういうことが自己の中に生じているのかということだ。

西田によれば、ともかく<意識の野>というものがあって、そこに自己が映し出されたとき、自覚というものが生じてくるというのだが、その自覚の深まりということは、<意識の野>との関係においてどう説明すればいいのか。<意識の野>に自己を映すということとの関係はどうなのか。イメージ的にすうっと入ってこなければダメですね。頭の中にイメージ的にすうっと入ってきますか。入ってこない?・・・・・そりゃあ入ってこないでしょう。難しすぎる。中村雄二郎の説明を何回読んでもよく判りません。

 

 それではまた私流に説明しよう。恥をしのんで・・・・。自覚の深まりということです。

 

 私は先に、意識界に対応させて自我を氷山の一角に喩えたが、そういうたとえ話の脈絡から言えば、< 意識の野>とは氷山の一角に存するアイデンティティー(群)のことであろう。しかし、これでは説明困難な面があるので、別のたとえ話に切り替えよう。氷山の喩えが間違っているのではない。そうではなくて、西田幾多郎の<意識の野>をイメージするのに何か別の良い喩えがないかということだ。そもそも頭の中の話であるので、そもそも光ではありえない。光でなくリズムというか振動である。そうではあるが、イメージとしては光の方がわかりやすいので、以下においては普通の鏡のイメージで説明する。光も波、振動も波であるからまあ同じようなものだとお考えいただければ結構・・・。実際は振動だが、説明上とりあえずは光で説明する。

 鏡の置いてある部屋を想像してもらいたい。鏡は自我であり、鏡を含む部屋全体が自己である。部屋は鏡のほかに無意識という家具や装飾で一杯だ。そういう自己がともかく<意識の野>という鏡に映されれば意識というものが発生し、自覚というものが発生するのだが、単に映し出されただけでは自覚の深まりというわけにはいかない。自覚というものが発生したというだけだ。

しかし、映し方が問題で、鏡を含むその部屋全体をその鏡の対面においてある別の鏡に映すというやり方で映せばどうなるか。合わせ鏡は合わせ鏡であっても、その映し方が問題で、特別の映し方をしなければならない。それには、雑念を取り除いた特別の行為を選ぶということだが、そうすれば、二つの鏡に無数の部屋が無限級数的に映されるようになる。これはとりもなおさずフラクタル現象に他ならないのだが、<意識の野> はそういうフラクタル現象の要(かなめ)となるものであろう。<自己の中に自己を映す> という自覚に関し、自覚の深まりとはそういう鏡をイメージしてもらえば良い。<意識の野 >という鏡の無限級数的な深まりである。しかし、その鏡は、ガラスの鏡ではなくて、無数のアイデンティティーからなる魔法の鏡であり、振動によって自己を映す。この場合、映すとは、共振するのだとお考えいただければ結構・・・。二つの鏡に無数の部屋が無限級数的に映されるということは、鏡は自我であり部屋は自己と考えていいから、自覚の深まりということは自我と自己の間に無限級数的な共振が起こるということだ。実際は振動により共振を起こす魔法の鏡だが、イメージとしては普通の鏡でイメージしてもらえばよい。自覚の深まりということがお判りになったでしょうか。

 

西田幾多郎の考える・・・意識と自覚のメカニズムがおおむね理解できたところで、いよいよ西田哲学の真髄、「述語的論理」、つまり「場所の論理」について勉強したいと思う。

 

                            「場所の論理」とは何か?

 

 

 

Iwai-Kuniomi