第4章 迷いと悟り 三の話

 

ものの見方の三種類

 唯識は、「世界はすべて心の現われだ」という考え方をしています。ですかち、私たちのものの見方=世界のあり方ということになります。そういう意味でのものの見方=世界の見え方・世界のあり方に基本的な性格として三種類あるといいます。その説が「三性説(さんしょうせつ)」で、それが「三」の話です。 

 この三つについては、後であげますが、真諦三蔵の訳語と玄奘三蔵の訳語が違っていて、慣れないとなかなか面倒です。しかし、エッセンスの入門的なところは専門用語を使わなくても理解できると思いますので、まず先に日常用語で覚えておいてください。

 

 それでは、ものの見方の三つのパターンは、専門用語でどう言われているか。一応触れておきます。まず、「ばらばら」でありますが、ばらばらに分け、別れているものとして認識するという意味で、真諦三蔵の訳では「分別性(ふんべつしょう)」といいます。たちは自分を見ても人を見ても物を見ても、すべてのものがばらばらなのだと思い、そういう考え方に深く執着している。それを玄笑の訳では「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)〕と呼んでいます。遍(あまね)く思い計り執着された性格ということです。おれがいておまえがいて、そして物があって、それはあたりまえのことだ、何を疑う必要があるのだ、と私たちは深く思いこんでいるわけです。

 

 つぎに「つながり」でありますが、すべてのことはつながりによって起こつている。これは「縁起」と同じことですが、それをもの見方・世界のあり方の一つのパターンとして捉えたときに、真諦の訳では「依他性(えたしょう)」といいます。すべてのものは他に依っている。それから玄奘訳ではそこに、一種の動きといいますか、物事が起こったり変化したりというニュアンスを入れたので、「依他起性(えたきしょう)」といっています。他に依って起こる性質という意味です。

 つまり、私たちはものを見るとき、まずばらばらというところから考え感じはじめるようですが、つながりがなければ何事も起こらないということもはっきりではなくぼんやりですが、何となくわかっている。指摘されると、ああそうだったなと納得はいく。でも、どちらが先かというと、まず自分があると思う。まず自分があって、それからその自分とは別に分離したいろいろな他人がいる。分離したいろいろな物がある。その分離したものが、後からつながり関係していろんなことが起こる。

 

 自分がまずいて、それが世界の中心のような気がしている。その自分の好き嫌いとか、価値観とか、そういうものが何か世界を計る物差しとして絶対に正しいかのような気持ちがあるようです。そういう自分および自分の好き嫌いや価値観を中心にして、人に接していると思うのです。好きな人・いい人と、それから嫌いな人・悪い人、そしてそのどっちでもない人は、関係ない人・どうでもいい人としてです。

 

 ところが、そのようにものを分けて見るのは、全面的に間違いではないけれども、本質的な意味からいうと、やはりそれは間違い・妄想だというのです。

 例えば私が今ここ(NHKのスタジオ)にいるに際しては、番組を企画されたNHK の方がいなかったら私はここにいない。それから例えば私をここに運んでくれたバスや電車の運転手さんがいなければここにいない。例えば今ここで私は座ってお話をしているわけですが、私のお尻を支えている椅子がないと私はここに坐っていない。その椅子と私の足の裏を支えている床がないと私はここにいられない。

 ここはなかなか難しいところなのです。言葉であえていうと、もちろん私はディレクターではありませんし、私は運転手ではありませんし、私は床ではない、というふうに区別は確かにつくのです。区別はつくのですが、ではそういう人や物とのつながり・関わりなしに、今ここで私がいることができるかというと、できない。つながっているわけです。

よく考えてみると、私たちは各瞬間、各瞬間で必ずつながりによつて存在している。そのつながりによって存在していることは、私だけのことではなくて、すべての人や物について、全部どうもそのようですから、すべてのものがつながり、つながり、果てしなくつながっているようです。果てしなくつながっているということは、「区別はできるけれども、分離はできない」という形で「一つ」だということにならざるをえないのではないか。

 

 果てしなくつながって、すべてのものが一つにつながっているということになると、つながっていない外側というのはない。つまり「一」に比較するもう一つ別の「一」がない。そうすると、そもそも数の基本になる「一」ということさえいえない。それが「O」「空」という表現になってくるということでした。

 

 それが真実ではないか。これを真諦三蔵の訳では非常に端的に「真実性(しんじつしょう)」といいます。玄奘三蔵の訳はもう少し説明的で「円成実性(えんじょうじつしょう)といいます。つまり、ものごとの円満に完成した真実の性質という意味です。もうお気づきのとおり、「真実性」とか「円成実性」という言葉で表現しているのは「空」と同じことです。ただ表現としては「空」というよりもより肯定的なニュアンスが強くなっていて、「私たちはものごとの仮の姿しか見ていないが、本当の姿はこうなのだ」という言い方なのです。それが「真実性」や「円成実性」なのです。

 

 まとめてみますと、(1)私たちはものを見るときに、ばらばらというふうに見る、この見方が一つ。これが「分別性」とか「遍計所執性」といわれるものです。(2)それから、ものが、すべてがつながっている、つながりなしには何も起こらないという側面、これが「依他性」あるいは「依他起性」です。(3)それからもう一つ、本当はすべては「一つ」というか「空」ということ、これが「真実性」あるいは「円成実性」ということです。これが唯識の「三性説」です。

 

 すなわち、ものの見方のパターンとは、「ばらばら、つながり、一つ」という日常の言葉で覚えていただいていいということであります。

(註:私がようく言う「バラバラで一緒」・・・・・・。)

 

 私たちはまず何でもかんでもばらばらに見ておいて、後からつながりが起こると考える。しかし本当はそうではなくて、もともとは一つのものが、仮にそれぞれ区別される形に分かれて、つながり合っている。それが世界の本当の姿なのだ。そういうふうに見るのが世界の正しい本当の見方なのだ。そう「唯識」は教えています。こういうふうに「ばらばら、つながり、一つ」という形で頭に入れておいていただくと、ものを見るときに非常に参考になるのではないかと思います。

 

 ばらばらからつながりを見る

 以上述べたように、ものの見方のパターンは三つありますが、その三つの中の二つずつのセットで私たちはものを見ているといっていいでしょう。つまり「ばらばら」と見るといっても、ただそう見ているだけではなく、「ばらばらを前提にしてつながりを見る」という見方です。例をあげると、ばらばらに他人とは分かれた私が、例えば友達と関わる、仲間と関わる、敵と関わるというふうに、私は私、あなたはあなたという、ばらばらで別々の人間が、友人になったり、仲間になったり、敵になったりという関係を結ぶ。すべてのことはこういうふうに起こつているという、「ばらばらからつながりを見る」見方があります。私たちのふだんのものの見方は、パターンとしてすべてこうなっているのではないかと思います。

 こういうふうにばらばらのところからものを見ることによって、自分の価値観や自分の好き嫌いや自分の都合で、他人や世界に接してしまう。そのとき、絶えず自分が有利なように、自分が気持ちがいいように、私たちの意欲・欲望・欲求は動いてしまう。ですから、これは単にものの見方・見え方の問題というより、見方と感じ方と欲求の仕方を全部含んだ「心の働き方」といった方がいいかもしれません。

 いずれにせよ、とにかく「ばらばらからつながりへ」というふうにものを見たり感じたり欲求したりするのを、仏教では「迷い」と考えるのです。

 

 一つからつながりを見る

 もう一つは、「一つからつながりを見る」という見方です。本来、深い意味では宇宙は一つだ。一私も人も物も、区別はできるけれども分離はできない形で、しつかりと一つになっている。一つだけれども、ただただ一つという、何の区別もない真っ平らな、真っ白か真っ黒のような状態ではなく、それぞれの多様性はしっかりとある。それぞれの形、現われの多様性はしっかりあり、しかしそれはつながり関係し合って起こっている。一つからつながりを見る。「一つからつながりを見て、つながっているそれぞれを見る」というふうにいったらいいでしょう。

 つまり、「ばらばらからつながりを見る」のが迷い、「一つからつながりを見て、そこから、つながっているそれぞれを見る」のが悟りということになります。

 

 智慧の成長

 唯識以前の仏教用語と関わらせていうと、一あるいは空ということを見る、つまり分別されない世界を知る智慧ことを「無分別智(むふんべつち)」と呼んできました。翻訳しないで、そのまま漢字に写したのが「般若(はんにゃ)」という言葉で、「般若」=「無分別智」です。「般若の智慧」=「無分別智」をしっかり体験して、区別さえない「一つ」というものの見方を元に、「区別されながらつながっている」世界を見ていく。本当は一つで、区別されながらつながっていることを日常用語で表現するには、「それぞれ」という言い方がいいでしょう。「一つ」を体験する般若の智慧を得た後で、もう一回「それぞれ」ということを見ていけるようになった智慧は「般若後得智(はんちゃごとくち)」と呼ばれます。

 ですから私たちは、「悟りとはいわくいいがたいものだ」と考えがちですが、唯識ではいちおう理論でいえるわけです。まずふつうの人間のばらばらの「分別知」があります。その「分別知」が、実はこういうわけで迷いだということを理論的にそれなりに納得してくると、「無分別智」の体験をしなければいけないという気持ちが起こつてきます。無分別の体験をすると、深い意味では「一つ」、「一つ」とさえいえないから「空」ということを実感する。しかしその後でふつうの意識に戻ると、それはただ何もないことでもなければ、何の区別もないことでもない。しつかりとそれぞれの区別はあって、本当こ深くつながり合っているということを知る「般若後得智」に達する。

 

 人類全体の智慧の進化も、分別のできない混沌状態から少しずつ分別ができるようになっていく。しかし分別しているだけでは世界の本当の姿が見えないので、無分別の世界を知って、そしてただ無分別だとやはりまともに暮らしていけませんから、もう一度区別のある世界に戻ってきて、「般若後得智」で生きる、というふうに智慧が進化・発展する。そのプロセスが人類史なのではないでしょうか。

 そして今、現代は「分別知」が非常に発達して、限界に達している。だからこそ「無分別智」を獲得し、さらに「般若後得智」を獲得するというふうに、人類全体の智慧のレベルが進化しなければ、これ以上前に進めない。人類は、そういう歴史の段階に達しているのではないか。そしてそういう時代だからこそ、「唯識」が長い間、専門家だけのものであったのが、次第に市民のものになりつつあるのではないか、そんなふうに思っています。