以上述べたように、ものごとすべてをばらばら・分離という面からまず見て、それから後でつながりを見ていくというものの見方が迷いである。すべてが一つという側面をまず見て、それからつながりを見ていくというか、つながり合ったそれぞれを見ていくというのが悟りのものの見方だったわけです。
世界では、また人間の中では、いろいろ非常に複雑なことが起こつているように見えるのですが、基本的にはすべて、ものごとをばらばらに分けて捉える心の働き方・分別で行なわれています。私は私であって、あなたではない。私の国は私の国であって、あなたの国ではない。人間は人間であって、人間以外の自然とは別だ・・というふうに分けて捉えるようなものの見方・分別が、人間と人間、人間と自然との分離意識を生み出します。この分離意識というのは、それだけで終われば、とりあえず何も問題がないようですが、だいたい「分離」はほぼ間違いなく「分裂」にまで深まっていきます。それからさらに、分離・分裂は「差別」につながっていきますし、分かれて争うという「分争」になっていく。すなわち、ものごとをばらばらに分けて捉えておいて、私と私以外のもの、私たちと私たち以外のものというふうに分けるものの見方が、すべての対立や闘争や、自然に対する収奪や破壊、汚染を生み出す最も深い原因になっていると思われます。
心の八識・三層構造
今までの話では、唯識がなぜ大乗仏教の「深層心理学」なのかおわかりいただけなかったと思いますが、ここからいわば「深層心理学」に入っていくわけです。私たちの心の中、表面のわかっている心以外の深いところに、自分でもよくわかっていない心がある。そこを非常に深く洞察していったのが唯識です。
まず「マナ意識」ですが、「マナ意識」とは、やさしい言い方に置き換えると、「自分というものがあると思ってこだわる心」です。これが「意識」と「五感」に続いて7番目の「識」になるのです。
人間の心の奥に、自分というものにこだわる心があること、つまり「マナ識」の発見が、人類の思想史・精神史上、唯識の画期的なポイントだと私は思っています。私は唯識を学んでこの「マナ識」という概念に出会ったとき、「そうか、人間の根本的な問題は、ある意味でいうと、すべてここに集約されるのだな」といった思いで理解したことを覚えています。
意識と五感は深層心理学でいうところの「意識」でありますから、これをひとくくりにして、唯識ではさらにその奥に、「命を維持しており、命に執着していく心の働きがある」と考えています。また、命を種に譬えて、「命の種を蓄えているような蔵のようなものだ」と考えています。蔵という意味のサンスクリット、「アーラヤ」という言葉を使って「アーラヤ識」と呼ばれています。これが心の底にある八番目の心の働き、識です。
以上、唯識では心を八識に分けて考えるのですが、「意識、五感」、「マナ識」、「アーラヤ識」というふうに、三つの層として捉えるのが判り良いかも知れません。
心の表面から奥底まで、凡夫は全部分ける心、分けへだてする心、そして分けておいてこだわる心という状態でものを見、感じ、そして欲求し、意志決定をしているわけです。それが全く逆に心の表面から奥底まで分けない心、分けへだてしない心、分けへだてしないからこだわることもないという心に変わっている。それが「仏」なのです。そういう意味で、仏教の説明体系はとてもよくできていると、学べば学ぶほど思います。分けへだてする凡夫から、分けへだてをしない仏に変わっていく。突然変わるわけではなくて、分けへだてをしていて、そこでいろんなことで悩んで、「これではいけない。何とかそうではない心に変わりたい」と思ったときに、悟りを求める存在に変わる。その悟りを求める存在が「ボーディサットヴァ」、その漢訳の省略形が「菩薩」です。
つまり、凡夫から仏への成長・変化を目指してトレーニング・修行している人を菩薩という。
そういうふうに、唯識は、人間が凡夫から菩薩になり、菩薩からさらに仏になっていく、その心の成長・変化を、心の奥底の仕組みまで見ているわけです。そういう意味で、まさに「大乗仏教の深層心理学」と呼ぶことができるのではないかと思います。
アーラヤ識とは何か
唯識では、私たちの心のいちばん深いところには「アーラヤ識」という心の働きがあると捉えています。
アーラヤ識は、私たちが過去に行なった書や悪の行為が、その過去とは異なったときに、善でも悪でもない、異なった低質のものとなって熟す ─ 「異熟(いじゅく)」といいます ─ 心の働きである。そして、それがすべての存在を実体的に存在すると見せてしまうというか、錯覚させるというか、仮構する、そういう元になる、種子となる心の働きである。
つまり私たちは、生まれてからふと気がついてみると、大人になっていて、大人になると、いつのまにかある特定の心のあり方を持っているわけですが、それはどうも何か過去につながっている。しかも自分自身が知らない過去から、自分自身の命が生み出されてきている。その自分が意識では知らないところから、心が生まれてきているわけですから、その過去の何かは、やはり一種の心なのではないかと推測したのだと思います。
それから、仏教には「輪廻」という考え方がありますから、人間は、生まれては死に、生まれては死に、さまざまに生まれ変わって輪廻転生していくわけです。輪廻転生するときに、前の生が終わって前の生の意識がなくなってしまっても、また次の生にやがて心・意識が生み出されてくる。その間のつなぎ・媒体になる、その心はいったい何なのだろうと考えたときに、「アーラヤ識」という概念が生み出されたのだと思います。
もし輪廻転生がないと考えるとしても、私たちの命がある種の、現代的な言葉でいうと「情報」として、ずっと親から、そのまた親から、そのまた親から・・・というふうに、何百年、何千年、何万年、何十万年、何百万年というふうに伝えられてきているからこそ、今私たちのこの命がある。これはいえることです。
唯識が「アーラヤ識」という概念でつかまえようとしていたものは、現代の考え方と重ねていうと、遺伝子の中に含まれている「遺伝子情報」とそうとう重なっているといっていいと思います。
しかし大事なところは、私たちがふだん自分で知っているつもりの心の世界よりもはるかに深いところに、命を生み出し、命を維持していくような働きがある。その心のいちばん奥底の働きによって、私たちの今自分でわかっているつもりの心の働きが規定されているというか、コントロールされているというか、決まっているというか、そこに唯識は気がついていたということです。
しかも唯識は、そういう命を伝えているような非常に深い心の奥底の働きが、まず過去と今という意味で「異なったときに熟してくる」と捉えた。それと同時に、さらにもう一つ、過去によいことをしようが悪いことをしようが、その性質をそのまま背負うのではなくて、「性質が異なって熟してくる」、ある意味で一回白紙になって伝えられてきて、またそこで新たに芽吹いて、芽吹いたと
きに善になったり悪になったりするという考え方をしている。ここは非常に大事だと思います。
それからもう一つ、私たちが深く考えよく見ていくと、すべてはつながっており、すべては「空」であるにもかかわらず、私というものが、他人というものが、物というものがばらばらにそれぞれに実体として存在していると見てしまう。いつのまにか見てしまうように私たちはある意味でさせられているわけです。だから、自分でも気がつかない心の奥底に、私たちに妄想をいだかせる、錯覚をいだかせる元になっている心の働きがある。そういうふうに唯識は見ています。
この二つのポイントがとても大事だと思います。まず私たちの心のいちばん深いところ、現代的な用語で言い換えれば、生命情報の世界は、善でも悪でもない。過去のさまざまな影響が残り、そこに伝えられてきているのだけれども、それ自体は善でも悪でもないのです。しかし確かに善でも悪でもないのだけれども、同時に人間に分別をさせてしまう元になっている。人間の心の奥底に、どうしてもそういうふうにものを見てしまう元になる心があって、しかもそれ自体は善でも悪でもない。この点が非常に深いと思います。
性善説と性悪説を超えて
人間は、心の底にやがて善になったり悪になったりするようなものを蓄えており、特に迷いの種子を蓄えてきているのですが、それは一種の「蔵」ですから、そこに蓄えられているものがどんなにダメなものだとしでも、蔵自体が悪いわけではありません。
譬えると、ここに倉庫があるとします。もしそれが、不良在庫でいっぱいの非常に困った倉庫だとしても、それは倉庫自体が悪いわけではない。不良在庫を優良在庫と全部取り替えてしまえば、同じ蔵が非常にいい蔵に変わる。私たちの生命情報の根底にあるものは、現段階では迷いの種ばかり、不良在庫ばかりかかえているのだけれども、それ自体が悪いわけではなくて、中にある種、中にある不良在庫を全部優良在庫に取り替えれば、すばらしいものになりうる。人間の最も根底はそういうものなのだ。そういうふうに唯識は捉えているわけです。
従来、性善説と性悪説、人間は本来善だとか、人間は本来悪いという対立した考え方がありますが、これは、その両方を含んで超えるような考え方だと思います。
人間は生命情報の根底のところにさまざまな煩悩の種を貯めていますから、現状は本当に悪い。ほとんど絶望的なまでに悪い。そのことをしっかり見つめているわけです。底まで悪い、底の底、アーラヤ識まで悪い。しかしそれはアーラヤ識そのものが悪いのではなくて、貯められている種子が悪いのだ。だから種子を取り替えさえすれば、人間はすばらしくなりうる。つまり今人間が凡夫であるのは、種子がそうだからで、種子を取り替えれば、人間は菩薩にも悟った存在・仏にもなれる。
人間の脳は過去からのさまざまの情報によって条件づけられている。確かに今までの条件づけでは、人間はさまざまな問題を起こすが、その条件づけを変えれば人間は変わりうる。つまり、人間の大脳新皮質からさらに脳の辺縁系や脳幹に至るまで、人間の中に蓄えられている生命情報のいわば種類を次第に変えていく、記憶を変えていくことによって、人間は変わりうる。そういうことを、生理学的な側面からではなくて、心の側面から、しかも自分たちの修行体験の中から明らかにしていった、その概念がアーラヤ識だと思うのです。けだし、これからの時代、身体と脳の学習プログラムが何よりも大事だと思いませんか。
マナ識 ─ どうしても自分にこだわる心
アーラヤ識の話はそれだけにして、次にもう一度「マナ識」の話をしていきたいと思います。
人を差別してはいけないとか、好ききらいをしてはいけないとかと、意識でいくら思っても、そういう思いが心の奥からどうしても湧いてきます。そこに働いているものを、はっきりと自覚するために言葉として「マナ識」と呼んだわけです。
そのマナ識の働きが一体どういうものかを、唯識派の人たちはさらに深く禅定と思索を通じて見つめ、こういうことを発見しています。『唯識三十頌』の句をさらに引用します。
四つの煩悩(ぼんのう)と常に倶(とも)なり 謂(い)わく我癡(がち)と我見(がけん)と
併(ならび)に我慢(がまん)と我愛(があい)となり 及び余の触(そく)等と倶(とも)なり
すなわち、心の奥に四つの根本的・基本的な慣悩がいつもあるというのです。
(1)煩悩の第一は、「我癡」です。これは真諦訳では「無明」と訳されています。つまり、私、他人、物は分かれて存在しているのではなく、本来一つであり「空」だということ、「無我」ということ、その「無我」についての根本的な全くの無知、全くの無理解、それが頭の先・意識だけではなく、心の奥深くにあるというのです。
(2)ただ単に「無我」について知らない、わかっていないだけではなく、私というものがいるとしつかり思っていて、私はこういうものだと思っている。「私」という見方がはっきりある。それを「我見」といいます。
(3)そういう「私」というものは価値あるものだ、意味あるものだ、生きる権利があるのだというふうに、自分をよりどころにする、頼りにする、誇る。それを「我慢」といいます。これは「我慢する」という日常語の語源ですが、ちょうど意味が逆になっています。我慢するのはふつうはいいことなのですが、唯識でいう「我慢」は、本当はありもしない実体的な自分というものをよりどころ・究極の根拠にしてしまう心のことです。
(4)無知であるだけではなくて、「自我」というものがあると思いこみ、さらにそれをよりどころにし、誇り、さらに愛着・執着する。それを「我愛」と呼んでいます。人間は、心の奥深く、どうしようもないほどの「我が身可愛さ」を秘めているというのです。「深層エゴイズム」といってもいいかもしれません。
善意にもマナ意識がひそむ
唯識の洞察のおそろしさというか、深さを、さらに次の『摂大乗論』の言葉を読んだときに痛感させられました。こういう言葉です。
若し人、正(まさ)しく善心(ぜんしん)を起こすも亦(また)此の識有り
意訳すると、「もし人間が、まさに善の心を起こしたときにも、この識、つまりマナ識がある」ということです。つまり、人間は善を思い、善を行なうときにさえ、マナ識、つまり自分に対するこだわりからそれをやる。私がいいと思うことをやって、その私がいい人だと人から思われたい、認められたい。それから、もし私がいいと思うことをいいと思わない人がいると怒る。私たちは何かボランティア的なこと、慈善事業的なこと、社会事業的なこと、社会を変えるようなこと、さらに大きくいうと革命のようなことをやるときにも、自分が正しいと思うことをやって、そのことによって自分が正しいと認められたいというこだわりをいつも持っている。そういうこだわりを持っているがために、自分が正しいと思うことを共有しない人は敵になり、憎しみの対象になり、場合によっては実際に虐殺の対象になってしまう。
人間が、小は小さな善意のボランティア活動から、大は社会変革運動に至るまで、よかれと思ってやることが、結局いつのまにか、さまざまな悲惨なことを生み出してしまうのはなぜか。それは、人間の心の奥に自分というものがあると思っている、そういうこだわりがあり、善をやるときにでさえ、そのこだわりに基づいてやってしまうからなのです。それが、人間の社会がどうしてもうまくいかない根本杓な理由だというのです。私は唯識の「マナ識」という考え方から、そういうふうに学んだというか、読みとったわけです。そしてそこが、何度もいうように「唯識」の非常な現代性だと思います。
「マナ識」というものがあるから、正義を求める個人と個人、集団と集団、党派と党派、宗教と宗教の対立が生まれざるをえないのではないでしょうか。この洞察は、繰り返しいいますが、現代の私たちにとって決定的に重要だと思うのです。
マナ意識即悪ではない
唯識では「マナ識だから即悪」というふうに捉えてはいないのです。比較的「いいマナ識」をもった人もいれば、かなり「良心的なマナ識」を持った人もあれば、それから、かなり「ダメなマナ識」、非常に「ゆがんだマナ識」を持った人もいる。そういう人の行動を見ていると、やはり、いい悪いの差は、ずいぶんすばらしい人からひどい人まであるのです。にもかかわらず、その最もよい人から最も悪い人に至るまで、全部に共通しているのは、自分というものに対するこだわりです。つまり、善悪とは関係なしに自分のこだわりに基づいた考え方や行動になってしまう。
だから、理性の発達、人格の成熟、自己実現といったことでは、人間の根本問題は解決しない。なぜならば、私たちの心の奥底にある実体としての自分というものがあるという思い、その実体としての自分がないことに対する無知・無明、それから我見、それから我慢、我愛という四つの煩悩は、世界の本当の姿・事実に反しているわけです。どうやってその煩悩を断ち切るか。
アーラヤ識 ─マナ識 ─ 意識の関係
その心の奥底のアーラヤ識とマナ識と表面の意識との関係がどうなっているかを簡単にお話ししておきます。
唯我では、アーラヤ識は命の種子の流れのようなものと捉えていますから、水滴が集まって激しく流れているが、ある一定の流れを持っている、「川」に譬えられるでしょう。
川というのは実は水滴が集まって地面のくぼみのある流れの方向性にしたがって絶えず流れている状態です。それにつけた名前が「川」です。ところが、そのほとりに立って流れを見ていると、一本の「川」というものがずっと変わることなく、実体としてあるかのように見えてくる。よく考えれば、くぼみがなくなれば川はなくなる。雨が降らなければ川はなくなる。そして現に今「あ
る」とははいっても、「流れている」わけですが、そういったことをほとんど忘れて、「川そのもの」が固定的にあるかのように思うわけです。
それと似て、私たちの心の奥底では、「マナ識」が、「アーラヤ識」から生まれたものでありながら、「アーラヤ識」を見るようになるのだといわれます。つまり、命の流れの世界を私という心の奥の思いが見たとき、それを「私の命」と見るのです。「命の流れ」を固定的な「私の命」と思ったとき、当然のことですが、そこにこだわりが始まるわけです。
アーラヤ識のレベルでも、命と命でないものがすでに分かれてしまっているのですが、それだけでは大きな問題は起こらない。それに対して、心の奥で自分という思いが起こつてきて、自分という思いで命の流れを見たとき、もう「流れ」というよりは「私の固定的な命」と思っており、そこに自分の命に対するこだわりが起こつてくる。それは、現代的にいえば「深層心理」で、ふだん気がついているような意識的な心ではないのです。ところが、そういう命へのこだわりと自分へのこだわりという悪循環で働いているマナ識とアーラヤ識という深層心理を元に、そこから意識的な心が働いてくるわけです。いいことをするときにも、自分と自分の命へのこだわりを元にしていい・悪いを考え、それにこだわっていいことをしようとする。同様に悪いことをするときにも、自分と自分の命にこだわって、そのこだわりを元にして悪いことをする。どっちにしてもこだわりを元にしている。こだわりを元にしていますから、命あるいは命を含んだすべての宇宙の大きなダイナミックな動きについていけなくなる。
「無常」というと何かニヒルに聞こえますが、そうではなく、ダイナミックな動きと考えた方がいいのですが、その動きについていけなくなる。動いている宇宙の動いている部分としでの私が仮にある私なのに、動かないようにしよう、固定しよう、固定した上でふくらませ、太らせ、もうけさせていこうというような心が絶えず意識に湧いてきます。
そういう思いが意識に湧いてくる元には、「マナ識」と「アーラヤ識」の悪循環がある。そこから起こってきたこだわりの心で意識の心が働いていますから ─ ─意識の心が働いた結果として残っていく影響力を種に譬えるわけですが ─ ─そのこだわりの種子が、またアーラヤ識に貯められていく。深層のこだわりの心から生まれてきた表面のこだわりの心が、再び深層にこだわりの種子として蓄えられていく。
まあ、判りにくいですね。むつかしい。むつかしいがここがいちばん大事なところであるので、私流の説明を試みてみよう。
マナ意識とは自分に執着する心の働きであり、アーラヤ識とは生に執着する心の働きである。しかもそれらは無意識の領域で働いている。働いているということは心の細胞組織がピクピク振動しているということだが、その振動は、右側のマナ意識から右側のアーラヤ識、右側のアーラヤ識から左側のアーラヤ識、左側のアーラヤ識から左側のアーラヤ識、左側のアーラヤ識から左側のマナ意識、左側のマナ意識から右側のマナ意識へと、伝わっている。ピクピク振動がマナ意識とアーラヤ意識をぐるぐると回っているという訳だ。そのようにイメージしてもらいたいが、説明上、振動という波動が回るというのを「種」という粒子が回ると言い変えよう。光は粒子でありながら波動としての性格も有していると言われているように、波動を粒子に言い換えることはあながちまちがっていないものと思われる。マナ意識の領域とアーラヤ意識の領域をぐるぐると「種」という粒子が回っている。波動が伝わるように回っている。同じように、意識の領域とマナ意識の領域にも「種」という粒子の円運動があるとイメージされたい。そればかりではない。意識の領域とその下のマナ意識の領域と一番下のアーラヤ識の領域の・・・3つの領域をぐるぐる回る大きな円運動もある。
このようにして、「種」という粒子の円運動によって、意識の領域において発生した記憶(情報)がマナ意識やアーラヤ意識に伝えられるのである。
ところで、マナ意識の領域とアーラヤ意識の領域の小さな円運動を岡野守也は悪循環と呼んでいるが、彼曰く、『 「マナ意識」と「アーラヤ意識」の悪循環がある。そこから起こってきたこだわりの心で意識の心が働いていますから・・・・、意識の心が働いた結果として残っていく影響力を種に譬える訳ですが・・・・・、そのこだわりの種子が、またアーラヤ識に貯えれらていく。深層のこだわりの心から生まれてきた表面のこだわりの心が、再び深層にこだわりの種子として蓄えられていく。 』
少しはお判りになったでしょうか。マナ意識の領域とアーラヤ意識の領域を回る小さな円運動を頭に描きながら、今しばし岡野守也の話を聞いてもらいたい。
分別する心は、アーラヤ識からマナ識の悪循環を通じて意識に起こつてきたものです。その分別した心によって他の人や他のものと関わっていきますから、当然いつも分離傾向、分裂傾向、差別傾向がある。それで実際に分離的な感情、怒る、憎む、妬む、分離的な行動、例えば傷つける、奪う、そういう煩悩が起こり、その残存影響力が、また無意識、アーラヤ識=蔵の識に貯まっていきます。そういうふうに悪い種を植えておいて、いい芽が生えてくることなど、期待しても起こるわけがないのです。
そういう悪循環の底にあるのは、マナ識とアーラヤ識の悪循環であり、そこから意識的な心が生まれてくるのだと分析すると、まず問題点が大変よくわかってくる。
種子を蓄える蔵
釈尊の仏教の段階では、理論としては不明確だった「無明」が、知識だけ、意識だけの問題ではなく、深層の問題だということを理論的にはっきりさせたのが、唯識のいちばんの深まりでしょう。さあ、それでは、「アーラヤ識」とはどういうものか、さらに深く見ていくこととしたい。
残存影響力あるいは遺伝子情報的な記憶を蓄えていく器になるのが「アーラヤ識」の本質的な姿なのです。この器の中から種子(唯識では「しゅうじ」と読みます)が芽生えていく芽生えたものがもう一回、種子となって、もう一回再び蓄えられていく。
薫習ということ
こういうふうにアーラヤ識を通じて芽生え、実り、実ったものがまた蓄えられていく。こういう状態で絶えず煩悩が芽生え、煩悩のもとになるものがまた蓄えられていくという状態が基本的な姿なのですが、それが芽生えるのはどこかというと、アーラヤ識からマナ識を経由して意識に芽生えるわけです。蒔くのはどこで蒔くかというと、まず意識で蒔くわけです。そうすると意識のところで、煩悩以外の種子を蒔けば、それがアーラヤ識から煩悩ではないものの種子として芽生える。芽生えてまた実るという別の循環が始まりうる。今までのところは、悪循環ばかりなのだけれども、そこに種子を蒔く。
お香をたいて、それを着物に薫じていく、くゆらせてそれを染みこませていくというようなニュアンスで、「薫習(くんじゅう)」という言い方をします。迷いの種を薫習しっぱなしで悪循環しているところに、悟りの種子・悟りの香りを薫習していけば、アーラヤ識は変わる、変わりうる。
そういうふうに、分別的ではない考え方を意識の世界で学びます。とても不思議なことですが、例えば、「空」とか「一」ということを、人間は教えられると納得ができる。納得してよく聞いていくと、それが心の奥底にしみていく。しみていくとその記憶は蓄えられますから、「空」ということを一回も聞いたここをがなかったときには、思いもしなかったようなことが、あるとき記憶にふと甦ることがあります。
「一つということは、水に譬えていうと、一つの水です。ところが、そこに波が起こる。波を見ると一つ一つは別の波です。一つ一つの波は別なのですけれども、その波は全部同じ一つの水ですね。人間というものは、個々人というものがいるように見えているのは、その波のようなもので、いちおう別々に見えますし、いちおう別々ではあるのですけれども、深いところでは一つなのです。ですから、もし私たちが人とケンカをして、許せないという気分になったときには、許せないのは許せないままでいいですから、でも本当のところは、あなたも私も宇宙の子なのだな、ということを思いかえせるといいですね」というふうな話をしたことがありました。ごく最近になって、この話を聞いた方に久しぶりに会う機会があったのですが、「岡野さんの、あの波と水の譬えは今でも覚えています。仕事で同僚や上司や部下とトラブルがあるたびに、ああ、あの人と私は同じ水なんだなと思うと、気持ちが静まるんです」といわれ、「ああ、これが薫習ということだな」と大変感銘深く、うれしく思いました。
私たちはそういうふうに、心の奥のところのマナ識で、自分というものはある、ものごとがすべて分離していると、どうしても思いこだわってしまっているのですが、理屈できちんと説明してもらうと、「ああ、本当はそうじやないんだな」ということがいちおう意識でわかる。意識でわかった、その記憶は心にとどまる。これは一つは理論を通じてです。
もう一つ、言葉を使ってものごとをいつもばらばらに捉えているという意識状態をやめる手続きとして、言葉を使うことをやめてしまう「禅定」という方法があります。
坐禅・禅定をしていきますと、言葉を使って意識が分別している、「あれはあれ、これはこれ」という気持ち、自分と外の世界が分かれているという意識は全くなくなってしまって、しかし、はっきり覚めていて、気絶しているわけでも、ぼんやりしているわけでも、眠っているわけでもないという心の状態になれます。そうすると、「自分と他が分かれていない世界の方が本当の世界だな」という体験ができてくるわけです。
そういう無分別の体験は、体験したらそれでおしまいではなくて、まさに習気というか、薫習というか、種子というか、現代的にいえば記憶というか、必ず記憶される。どこに記憶されるかといえば、唯識的にいうと、「アーラヤ識」に記憶されるわけです。そして、記憶されたものは、やがていつか思い出されるわけです。
もう一度「蔵」の譬えに戻りますと、記憶され蓄えられていくと、昨日までは九九・九九九九・・・パーセントまで不良在庫だったところに、たとえ○・○○○・・・一かもしれないけれども、優良在庫が一個入ってくる。そうすると、蔵の本質的な価値が変わってきます。はとんどムダなもの、悪いもの、役にたたないものばかり貯めてあったのが、いいものも一個だけ入っている、二個だけ入っている、三個だけ入っている・・・というふうに蓄えていくと、少しずつ「アーラヤ識」の性格が変わってきます。そういうふうに人間の心の奥底は薫習しうるものである。
ふつうの人間では、入れる迷いの種子と悟りの種子の量があまりにも違いすぎるので、やはりダメなのではないか。それに対して、唯識がいっていることをいうと、確かに量は違っても、「悟りの種子の方が迷いの種子よりはるかに力が強い」ことになっています。これが、いわば私たちの希望の根拠なのです。五感と意識を変えることによってドンドン悟りの種をアーラヤ識に送り続けなければなりません。毎日です。
四つの智慧に変わりうる希望
そういうふうにして悟りの種子をうまくアーラヤ識に貯めることができた。それでかなりの量が貯まってきた。あるいはもう他の迷いの種子を駆逐してしまうくらいに悟りの種子が貯まり、育った。そうするとどういうことが起こるか。「アーラヤ識」は、それまではこの全宇宙の中で、命と命でないものを分けてしまって、命にこだわっていたわけです。
しかし、実際は、命と命でないものはつながっている。それが宇宙の本当の姿です。まるで大きな完全な鏡がそういう宇宙の本当の姿を何のゆがみもなく映し出すような智慧を、「大円鏡智(だいえんきようち)」といいます。「アーラヤ識」は悟りの智慧・悟りの種子によって磨かれて、「大円鏡智」に変化するのです。
アーラヤ識が大円鏡智に変化してしまうと、命へのこだわりがないのですから、ましてや私へのこだわりは持ちようがありません。ですから、命と命でないもの、そして、私と私でないものは実はつながっていて一つである。根本的には等しい、根本的には平等だと思う。そういう心の奥の深い智慧のことを「平等性智(びょうどうしょうち)」といいます。私がいると思い、私にこだわっていたマナ識の思いが、完全に他者と宇宙と私とが一つであるという「平等性智」に変わってしまう。
心の奥底での悪循環状態が、大円鏡智と平等性智という智慧の循環、いい循環に変わってしまうと、そこから浮かんでくる、起こってくる意識はもののすべては本当は一つなのだ。といっても、それはずるずるべったり、のっペらぼうではない。お互いに根本のところでは一つにつながっていながら、つながり、つながり、つながっていながら、仮に区別でき分節できるような形で、ある一定期間それぞれの姿を持っている。ある一定期間それぞれの姿を持ちながら変わっていって、それぞれの形という意味では消えてしまうのだけれども、全体の一つということは変わらない ─ そういうことがはっきりと意識的にわかる、すばらしい観察の智慧、「妙観察智(みょうかんざつち)」に変わってしまう。
心のいちばん底で、命へのこだわりが、命と命でないものをそのまま映し出して、命のときには命、命でないときには命でないものというふうに、自然に流れていくことのできる心に変容して、心の奥に、他者と自分と世界とが分かれていないという「平等性智」ができてくる。そして、意識がそういうことが絶えず自分の心の表面に浮かんでくる「妙観察智」になると、五感・五識、あるいは全心身は、そのときそのときに最もふさわしいことができるようになるわけです。それを「成所作智(じょうしょさち)」といいます。
以上のように、唯識は、まず凡夫の心を「三層・八識構造」で捉え、三層がどんなに悪循環をするかを非常に厳密、正確に捉えています。そして、それでおしまいではないのです。心の底に悟りの種子をしっかり蓄えていくと、心全体は四つの智慧に変わりうる。この四つの智慧に変わりうるのは、人間は幸いにして意識が与えられているからだ。今までは、その意識から迷いの種子ばかり蓄えていたけれども、これからは悟りの種子を蓄えようというふうに自分の心を変えることができる。また、その悟りを私たちに教えてくれるものに出会ったとき ─ それは人であったり、教えであったり、それから真理そのものであったりするのですが─私たちは、その種子を意識を通じてアーラヤ識に蓄え、やがて芽生えさせることのできる存在である。人間はそういう存在なのだと唯識は捉えています。これは、とても厳密で厳しいと同時に、きわめて希望のある人間観ではないでしょうか。