怨霊と密教

 

 

 本来、密教は、呪術的な厳しい修法と修行によって、僧みずからが神通力を身につけ、それでもって怨霊を操ることもできる。したがって、それら怨霊によってもたらされるところのあらゆる災いを除去できる。ここに、怨霊といわれるものは、古来の神道では、荒ぶる神である。修験者は神を超越した存在である。したがって、役の行者は、当初、一言主神をもこき使うような不遜なことをしているが、逆に言えばそれができたということである。

 

 天皇であろうと乞食であろうと、あらゆる境遇の人を救う。それが密教だ。空海にしろ、最澄にしろ、或いは円仁にしろ、朝廷の庇護のもとに布教活動を進めるが、これは別に非難すべきことではない。朝廷べったりで本来の姿を見失っては問題だが、密教は、常に、朝廷の力を相対化できる思想を持っていた。しがって、没落した貴族や地方豪族と呼応して、ある程度の反権力運動を画策していたことはまちがいないようだ。そのひとつが菅原道真の怨霊をはじめとする一連の「怨霊騒ぎ」であって、これは密教僧の画策だと言われている。

 

 

 真言密教の僧・道賢の力によって、道真の怨霊をのりきった朝廷は、積極的に御霊会(ごりょうえ)を主催していく。祇園御霊会である。いうまでもなくそれが今の祇園祭に繋がっていく。今宮御霊会や船岡山御霊会などが誕生するたびに、これを抱き込み統合することに成功した。都では、怨霊は人々の不満を糾合する神となった。怨霊が守護神に変身したのである。朝廷における暗殺や理不尽な配流もなくなった。そしてカーニバルの誕生だ。実にいい。何という知恵か。すばらしい。

 

 

 その後、神仏習合は、神祇信仰と仏教が互いに影響しあいながらより進んだものになっていく。ひとつは、神祇側の動きによって、ケガレや物忌みという観念の一般化が進み、清浄な生活をして極楽往生を願う・・・そのような風潮がでてくる。そして、仏教側の動きとして、そういう世間の風潮に呼応するかの如く、浄土信仰が盛んになり、それが体系化されていく。空也と源信の力によるところが大きい。

 

 極楽往生が達成されればあとは何もない。極楽往生は、清浄な生活が前提であり、それは御霊会信仰とケガレや物忌みの観念がなければできないことであるので、神祇信仰が大前提なのである。しかし、最後に極楽往生が達成できるのは、浄土信仰の体系化のお陰である。これは仏教の勝利と言っていいではないか。

 

 そして遂に、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)までいってしまうのである。この本地垂迹説は、鎌倉末の14世紀の初頭までに日本全土を覆い、神の姿のままでさまざまな験力をもった密教の仏、菩薩、諸天、諸王たちの化身(垂迹神)としてしまうのである。

 ちなみに、そういった密教の仏、菩薩、諸天、諸王たちに化身し得ないもの、すなわち垂迹神になり得ないものが、・・・鬼、妖怪であり、・・・怨霊は、信仰次第で垂迹神になりうる存在である。信仰次第で垂迹神になり得ない怨霊は、鬼、妖怪の類に堕落せざるを得ない。鬼は、垂迹神ではないが、神通力の備わった修験者に使われて、鬼神となる。妖怪はどうにもこうにも使いようがない。

 

 天狗は、垂迹神でもなく、かといって鬼、妖怪の類ではない。神通力のある修験者がうまくおだてて使えば、護法となる。鬼神と護法は修験道の使役神である。

 

 天狗は、独特の世界に棲んでおり、私たちとは本来お付き合いの深いおもしろい存在だ。なるほど、垂迹神の側からみれば、天狗は、一切の救いから切り離された哀れな存在である。しかし、天狗の側からみれば、厳しい修行を強いられるが天狗界ほど自由な世界はない。仏教の教義や戒律、人間界のややこしいルールなどに一切束縛されることなく、みずからの欲望、行動原理に従って自由に闊歩できる世界である。

 修験者が天狗に化けることはないようだが、天狗が修験者に化けることはときどきあるようだ。

 密教の諸天、諸王は、天狗に化けることがあるが、天狗が諸天や諸王に化けることはできない。そのかわり、天狗は、地獄に堕ちることもない。

 

 天狗の棲む世界はおおむね修験道の行場であり、荒らしてはならない聖域である。

 都市ではほとんど生態系が壊れたので、今さかんにビオトープネットワークということが叫ばれているが、川は河童の棲む川でないといけないし、杜は天狗の出没する森でなければならない。梅原猛さんが「巨木の町づくり」を提唱しておられる所以である。天狗の出没しうる杜は、是非、復活しなければならない。

 

 私は、都市におけるビオトープネットワークは勿論のこと、日本列島全体におけるエコロジーネットワークを提唱している。天狗の住む聖域、修験道の行場と・・・そして河童の棲む川、・・・それは瀬もあり淵もある魚の棲みやすい川ということでもあるが、・・・それらを中心に、生態系回廊を作るのだ。これが私のいう「杜の国・・・日本」だ!

 

 

 私は、鞍馬寺が好きだ。神秘的で静かだし、一寸不気味だがすがすがしい・・・・。鞍馬寺は本地垂迹(ほんちすいじゃく)のやや特殊なケースかも知れないが、本地垂迹のもっともすてきな姿がそこにあるように思えてならない。鞍馬寺の本尊・毘沙門天(多聞天)の夜の姿は天狗であり、鞍馬山に棲む多くの天狗たちの総帥として君臨していた。

 

 世界に鞍馬のようなところはあんまりあるまい。

 

 さあ、鞍馬に行ってみよう!

 

 

 「権現」も本地垂迹(ほんちすいじゃく)の特殊ケースかも知れない。これはすべて修験道の対象であり、私の「あこがれ」である。山の信仰の神であり、それは仏や菩薩の仮の姿(権化)である。仏とも神祇ともつかぬ独特の形態を有した「権現」は、修験道の独特の立場を体現するきわめて日本的なカミである。

 

 熊野権現、箱根権現、伊豆山権現、蔵王権現が有名である。

 

 蔵王権現は、奈良県吉野の金峰山(きんぷせん)の守護神である。役の行者が金峰山で修行中に現れた荒ぶる神であり、修験道における主尊となっている。源慶作の蔵王権現像が如意輪寺に残されている。

 京都は清滝の神護寺にも権現さんがおられるが、これは中国は長安の清龍寺(せいりゅうじ)の鎮守の神であったが、空海によって神護寺に勧請(かんじょう)され、その際、清瀧(清涼)権現と名付けられた。

 なお、加賀の白山には、白山妙理権現という・・・白山修験の中枢の権現さんがおられるが、これは女性である。・・・じゃあ、白山に行こう!

 

 修験道では、特に名前のないところでも、山の神がおれば、それは「権現」である。山では、いたるところに「権現」は現れる。

 

 

 

守れ権現 夜明けよ霧よ

山は命のみそぎ場所

六根清浄 お山は晴天

 

                         六根清浄

 

 



Iwai-Kuniomi