大山と徳一

 

 

 内海弁次という人の書いた・・・「相州・大山」(1996年10月、神奈川新聞社)という本がある。この本の情報量はすごい。内海弁次という人は、大山旧御師で旅館兼茶店の観喜楼という家に生まれた。本名は平太。良弁(ろうべん)にあやかって弁次と名のった。大山町役場、伊勢原市役所に勤務し、その傍ら大山寺不動尊責任役員総代を50数年勤めたという根っからの地元の人である。いわゆる学者ではない。しかし、永年にわたって、阿夫利神社や大山寺や大山のことを永年調べ上げてきた・・・まあいうなれば、「維魔経(ゆいまきょう)」における維魔居士(ゆいまこじ)みたいな人で、学者顔負けである。私が数年前に、私のホームページ「桃源雲情」の旅のシリーズで「武家社会源流の旅」という平和の原理を求めての旅を始めたときに、大山を取り上げた。ねらいは、鎌倉に向かう海上交通の・・・大山が格好の目印になっていたのではないかというところにあったのだが、大山に行き、また鎌倉に通っている内に、良弁と大山との結びつき、そして良弁と鎌倉との結びつきを知るに及んで、「大山」という山の歴史的重要性を十分認識するようになった。ありがたいことである。内海弁次の本がなければそうはいかなかったと思う。内海弁次に心から感謝申し上げる。

 

 さて、大山は、大山に対する古代の信仰は、山頂から出土する種々の遺物から十分推測できる。関東武士団の大山信仰は結構根強いものがあったようである。特に、源氏の大山信仰は強かった。源頼義、義家が東国地方の平定を命ぜられ、前九年の役で安部氏を討ち、後3年の役に清原氏を討った際には、阿夫利神社石尊大権現と大山寺に免田5丁と畑8丁を寄進している。阿夫利神社の神は、いうまでもなく大山祇命(おおやまずみのみこと)である。それを当時の武士団は石尊大権現と呼んでいたのである。石尊大権現といういう呼び方は神仏習合以外の何ものでもない。問題は、それをなさしめたのは誰かということである。その走りは、すでに述べたが、かの勝動上人である。問題は神仏習合の道筋をハッキリつけたのは誰かということである。私は先に、『神仏習合の本格的な道筋をつけたのは空海ではないかというのが一般的な見方のようであるが、私は、関東の聖地「大山」にその形跡が見られるように、徳一の実績を空海が引き継いで、空海がその普及を図ったのではないかというのが私の考えである。』・・・・・と述べたが、その一つの証拠が・・・・徳一が名付け親である・・・石尊大権現に対する義家らの寄進である。

 

 内海弁次の「相州・大山」(1996年10月、神奈川新聞社)には次のように書かれている。

 『 空海と徳一との間柄は25歳の開きがありながら、気脈の通ずるものがあり、霊妙不思議な法力と二人の庶民性とが相寄るものがあって、唐から帰朝後嵯峨天皇との交流を深めた空海が、東国巡錫に巡ってきたとき、強く大山に引き入れたのは徳一であった。

 常陸から会津にわたる徳一の関係の寺院はほとんどは空海の開創、徳一の初住と記録して研究家を惑わせているが、これも二人のかかわりを現していて面白い。もちろん、徳一が種子を蒔き空海が施肥したのが実際であろう。 』・・・・と。

『 弘仁11年(820)庚子7月6日、弘法大師空海47歳。弟子真済、大安寺の幹空等を従え、東国教化巡錫、旧知の友徳一大師の誘引により当山に上がり、大山寺第三世となる。山頂阿夫利神社を、石尊大権現と名づける。

 これより先、徳一大師は、山頂に大山の名と富士浅間社の神に神縁の、大山祇神を現した。

 これは大山の古代からの伝承である。 』・・・・と。

 

 又、私は、次のような高橋富雄の言っていることを紹介した。

 すなわち、『 若かりしころ、四国の深山幽谷をめぐって、「虚空蔵求聞持法」の行を積んだ空海の行道は、実は南都仏教ですでに道を開いていたものの継承、発展だったのです。

 徳一の磐梯山や筑波山での修行がどういう形のものだったかはよくわかりませんが、のちに徳一を修験の祖のように伝えているところからすれば、その行者徳一の風貌が求聞持法修法の空海のそれに似通ったものになることは疑いありません。 』・・・・・と。

 これについては、内海弁次は、『 空海が若くして修行するとき、元興寺護命よりも、東国での実践の場で「虚空蔵求聞持法」の影響を与えたのは徳一の方が強かったのではないか。 』・・・・と述べている。私もまったく同じ考えである。

 勝道上人の神仏習合への実践活動(神宮寺の建設)は、濃尾平野は揖斐川西岸の多度神社がつとに有名だが、どうもいちばん最初は鹿島神宮らしい。

 朝廷に納める年貢と豪族たちの取り分、そして神社や寺院の取り分、これらは誠に悩ましい問題だ。今私は精神的な話をしているのではない。経済的な話だ。年貢の分捕り合戦だ。この誠に現実的な問題はよほどうまくやらないと律令制度自体がうまくいかなくなる。日本の国は、律令制度の下にあっても、絶対的な王権というものはなくて貴族や豪族の力は無視しがたい。また、神社仏閣もそれぞれの貴族や豪族と結びついてその権力構造はなかなか複雑である。豪族をおこらしても律令制度そのものがおかしくなる。豪族を甘やかしても律令制度は成り立たない。むつかしい。そういう難しい問題であるので、歴史的には、時間をかけて、個々のケースの積み上げで実態というものができ上がっていったのではないか。誰かが最初に一つの制度というものを考えて一斉に始めたものではないと思う。今私は年貢の取り方の話をしているのだ。年貢はそもそも神社の機能と結びついて徴集されるというのが律令制度である。しかし、年貢の徴集というものは、貴族と豪族と神社と仏閣、この4つの組織が機能的にバランスする必要がある。4つの組織機能ではもともとバランスがとれない。やはり、バランスがとれる組織形態とは、「トライアッド」である。グウ・チョキ・パーの組織形態がいちばんいい。すなわち、年貢の徴集制度は、宗教組織をかますのなら、それは神仏習合でないとうまくいかない筈である。日本の場合は・・・・・である。このようなことで、私は、神仏習合というものが徐々に形成されていったのではないかと考えている。

 神仏習合の普及の裏に藤原氏の隠れた意図がなかったか。それはまったくの想像であるが、そういうことも考えられない訳ではなかろう。まあ、それはともかく、日本の権力構造からして、神仏習合は必然であったと考えてまちがいないのではないか。今私は、経済的側面というか政治的側面から、神仏習合の歴史的な必然性を論じているのだが、宗教的な側面をもちろん忘れる訳にはいかない。

 仏教の普及につれて仏教が古代からの信仰と結びつくのはごく自然の流れでもある。義江彰夫はその著「神仏習合」(1996年、岩波書店)の中で、「日本の神仏習合は普遍宗教と基層信仰が完全に開かれた系で繋がっているという点で、世界的にみても、独特な宗教構造をつくり出しているといえるだろう。しかし、忘れてはならないことがある。すなわち、一般的にいって、世界各地で多用なかたちであらわれる普遍宗教と基層信仰の複合体は、地域や民俗の事情に応じてそれぞれ独自なかたちをとるものであり、日本の神仏習合もまたその一形態であって、それを超えるものではないということである。」・・・・と述べ、ひとつの普遍宗教とそれとは別にもともとあった基層信仰が習合するということは世界的見て決して珍しいことではないと言っている。すなわち、経済的政治的な側面は別としても、純粋に宗教的な理由から、わが国の神仏習合はそれが成立する歴史的必然性を有していた。

 問題は、どういう歴史的必然性があったのかということだが、その点については、会津の徳一を訪ねるうちにおいおい勉強することとしたい。義江彰夫はその著「神仏習合」の中で、空海について語っており、「この時期、彼は、満願(勝道)の跡を継承する形で、各地で動揺し始めていた神々を仏教に帰依させ、神宮寺建立に向かわせていた、とわたしは思う。 」・・・と述べているので、この点につき、上記との脈絡で私の意見をいっておきたい。

 空海とその弟子たちが神仏習合におおいに力を注いだことは事実であろう。しかし、私は、空海が勝道上人の跡を継承したのではなくて、徳一が勝道上人の跡を継承し、空海はその徳一の跡を継承したと考えている。義江彰夫は、神仏習合に藤原氏の力添えがあったことを示唆しているが、勝道上人が多度神宮寺の建立の前に鹿島神宮寺を建立する際、藤原氏の力添えがなければできないのであって、藤原氏と密接な関係があったのは、空海ではなくて徳一である。これが第一の理由である。第二の理由は、勝道上人やその弟子たちが多度神宮寺の建立に活躍していた頃(763〜781)、まだ空海は世に出ていない。徳一は、働き盛りであって、それを継承することは容易であった。第三の理由は、これが一番私のいいたいことだが、上記に述べた内海弁次の証言である。再度掲げておく。

『 弘仁11年(820)庚子7月6日、弘法大師空海47歳。弟子真済、大安寺の幹空等を従え、東国教化巡錫、旧知の友徳一大師の誘引により当山に上がり、大山寺第三世となる。山頂阿夫利神社を、石尊大権現と名づける。』・・・・と。なお、内海弁次は、大山寺にりっぱな空海堂がありながら、空海を持ち上げるのではなく、徳一を持ち上げるようなこのような見解を示しているということは、そのことがとりもなおさず真実であることの証拠でもある。

 

 また、内海弁次の「相州・大山」(1996年10月、神奈川新聞社)には次のように書かれている。これを最後に紹介して、この「大山と徳一」というページを終わりたい。

 『 徳一大師こそ、延喜式の施行に先立つ80余年以前、弘仁11年(820)において、大山の山名どおりの神で、かつ鳥之石楠船神の兄である、大山祇神を山頂に現し、鳥之石楠船神と併せて、大山の御神徳を明確にしたのである。

 この状態において延喜五乙丑年(905)石尊大権現と呼ばせた大山阿夫利神社は延喜式神名帳に載った。 』・・・・・と。

 『 (頼朝に端を発するといわれている大山における「納め太刀」の風習について)・・・・これら関東各地の武士団がそれぞれ思い思いに鎌倉の目の前に聳える相模の雄峯大山とのかかわりを持ち、大山を心のよりどころとし、武運、農耕、漁労、交易、職業相伝の祈願所としてきた数百年の間に、それぞれが祈願の法として武士の魂である太刀を神仏の宝前において祈願拝礼し、再びこれを帯びて活動したであろうことは容易に察しがつく。 』・・・・と。

 

南無石尊大権現!