ポルトガル民話版のシンデレラ

 

 

 シンデレラの話も世界的な分布をしている。しかし、重要なのはその基本構造である。それではいつものように、中沢新一を勉強することとしたい。以下はすべて「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈v(2002年1月、講談社)からの引用である。

 

 先に見たように、私たちはどうして、二つの達う話を「似ている」と感じたりするのでしょうか。例えばシャルル・ペロー版のシンデレラとグリム版のそれを続けて読みますと、ふたつが似ているどころか、同じメッセージを伝えようとしていることまで感じとります。それぞれが互いに変形の関係にあると感じるし、じっさいに分析してみると、直感は正しかったことがわかります。似ていることを直感する知覚や認識のプロセスは、とても複雑にできていて、簡単には解き明かしにくいものですが、これが神話の場合には大変に敏感に働きます。私たちは「似ている話」というのを、即座に見分けることができるのです。これはきっと、神話の中で感覚的なものと知的なものがうまく結合しあっているために、全体の相似と細部の相違を的確に直感できるのだと思います。 ヨーロッパで伝承されているシンデレラ物語にはいろいろなタイプがありますが、ここで紹介するポルトガル版「カマド猫」の話には新しい変形の要素が登場し、それが私たちの探求をアジアに近づけていくことになります。ポルトガル民話集に、こんな話が記録されています。

 

 妻を失った男がいて、彼には三人の娘があった。長女と次女はいつも美しく着飾っていたが、末娘は「私は台所仕事がすきよ」といって、いつもカマドのそばで仕事をしていた。

 そこで二人の姉は、末の妹を嘲(あざけ)って「カマド猫」と呼んでいた。ある日父親が一匹の魚を得て、これを末娘に料理するように命じた。ところがこの魚はとても美しい黄色の姿をしていたので、末娘は気に入って、父親にお願いして自分の部屋の水槽に放って、かわいがっていた。

 夜になると、魚が未娘に向かってことばを語りかけた。自分を井戸に放ってほしいと言うのだ。そこで願いを聞き入れて井戸に放ってやった。翌日、末娘が魚を見ようと井戸に近づくと、魚が「娘さん、井戸に入っておいで」と言う。娘は怖くなって走り逃げてしまった。

 次の日のこと、宴会があって二人の上の姉たちは出かけてしまったが、末娘が井戸に近づいていくと、また魚が「娘さん、井戸に入っておいで」と繰り返すのだった。そこでとうとう彼女は水の中に入っていった。魚は末娘の手を取って、黄金でできた宮殿へと誘い、そこで彼女をこよなく美しい服で装い、一対の金の靴をはかせて、これもまた美しい馬車に乗せて、彼女を宴会へと赴かせたのだった。

 そのときこういう忠告を与えた。「かならず二人の姉よりも先に宴会を失礼して、ここへ来て、服や飾りを脱ぐように」。着飾った末娘が宴会に出かけていくと、満場の人で彼女の美しさに驚かない人はいなかった。宴会が終わり急いで帰ろうとするときに、誤って片方の靴を落としてしまい、それが王に拾われてしまった。彼女の美しさに夢中だった王は、国中にお触れを出して、この靴の持ち主と結婚しようと言った。末娘は家に急ぎ戻り、井戸の中の宮殿に行って、衣服を脱ぎ捨てたが、そのとき例の魚が現れて、質問したいことがあれば今夜またやってきなさい、と告げた。

 二人の姉が戻ってきたが、末娘がいつものように台所仕事に忙しそうにしているのを見て「今夜の宴会に謎の美女があらわれて、金の靴を落としていき、王様はその持ち主を見つけて結婚しようとおっしやつているわ、だから私たちもこれから王宮に行って、ためしに靴を履いてみようと思うの、二人もいればどちらかの足には合うはず、そうしたらお后様になれるのよ、そのときにはカマド猫にもきれいな新しい服を作ってあげるわね」と笑いながら話をした。二人の姉が出かけていくのを確かめてから、末娘は井戸にやってきた。すると魚があらわれて「おまえは私の妻になるのだ」と強くプロポーズした。そこで末娘は「いいわ、あなたと結婚するわ」と返事した。するとたちまち魚は姿を変えて、美しい若い男となった。

 その男はこう語った。「私はこの国の王の息子でしたが、魔術をかけられてこの井戸の中で長いこと生きていなけれはなりませんでした」。「私は今日、お前が靴を脱ぎ落として、それを拾った王がその持ち主と結婚するというお触れをだしていることを知りました。お前はこれからすぐに王宮に出かけて、私はすでに王のご子息と結婚の約束をしていると告げなさい」と語った。

 井戸を出て家にかえってみると、二人の姉が王宮から戻っていて、どうやっても二人の足は靴には入らなかったと嘆いていた。

 末娘が「私も行って試してみるわ」と言うと、姉たちは「お前なんかに靴が合うわけがないじゃないか」と嘲った。そこで末娘は王宮に出かけていき、靴を試して見ると、ぴったりと合った。王は喜んで「お前は私の后になるのだ」と言ったが、娘は「王様、申し訳ございませんが、その儀は謹んでお断りいたします。というのも私は王様のご子息とすでに結婚の約束をしているからです」と答えた。王はこれを聞いて驚喜した。たくさんの人人を使わして、井戸から王子を迎え、カマド猫娘と結婚させた。これを知った二人の姉たちはさんざんカマド猫の悪口を言ったものだから、かえって罰せられてしまった。王子はその後王となり、カマド猫が皇后となった

(ペドロソ『ポルトガル民話集』)。

 

 

ポルトガル版シンデレラを構成しているさまざまな仲介機能を、図にして示してみましょう。

 

 

 この版でいちばん重要なのは、水界が登場することです。水界からあらわれた魚は、カマド猫の社会的上昇(王族との結婚)を実現する超自然的仲介者であるとともに、「魔法」の力で魚に姿を変えられていた王子でもあったというわけで、カマド猫という名のシンデレラがこの魚との結婚を承諾することによって、王子もまた人間の姿を取り戻し、王宮への帰還を果たします。つまりこの話では、水界を通して二重の転換がおこなわれていることになります。

 

 

 

族外婚と族内婚

 

 このポルトガル民話が興味探いのは、はかのところではヘ−ゼルの木や鳥などのおこなう仲介によって転換がおこっていたのに、ここでは直接的にこの少女が水の中に入ってしまい、そこで魚との結婚をおこなっていることです。

 水界での結婚とはどういう意味を持っているのでしょう。水の世界に主人公が入っていって結婚する話は、神話の中にたくさん出てきます。あの浦島太郎の話などもそのひとつです。浦島太郎は亀に仲介されて、海底の王宮に行き、そこで供応を受けています。この話のもとになっている山彦神話では、水界へ行った山彦がそこで海神の娘と結婚をしていますから、浦島太郎の竜宮城滞在も結婚の一種と考えていいかも知れません。

 日本の縄文土器の器面に描かれた図像を見てみますと、水界の動物に関わる主題が大変に多いのに、深い印象を受けます。これは世界的な現象らしく、新石器時代に入って人類は水の世界に神話的な重要性を発見したらしいのです(こういう現象は、同じホモサピエンスの旧石器文化にはおこっていないように思えます。そこでは熊や鹿やトナカイは登場しても、水界生物、しかも想像された水界生物の登場はほとんどありません)。そのため今日伝えられている新石器的特徴を持つ神話では、水界の主題が大きな位置を占めるようになっています。

 これは日本の民俗学者の折口信夫(おりぐちしのぶ)がいちばん問題にしていたことです。折口先生はそこに「族外婚exogamy」の問題が反映されている、と考えたのです。族外婚とは、自分の部族の異性とではない異族の女性との結婚を言います。「exo」はexotic(エグゾティック)のように、「遠くの、自分とは違う」という意味があります。これに対して、同族の異性と結婚するのを「族内婚endogamy」と言います。「endo」とは「中の、内側の」という意味です。

 神話的思考では、この「族外婚」と「族内婚」の対立がきわめて重要な意味を持っています。これは配偶者や性のパートナーをどのくらいの距離にいる相手に見つけるか、という問題にかかっています。そういう相手を極端に近いところにみいだすものはインセスト(近親相姦)です。つまり、自分の妹姉との結婚、母親と息子との結婚、または親父と娘との結婚ですが、これは「族内婚」のいちばんの極端な場合で、これ以上近づきようがない極端な結婚の形態です。神話の中ではよくこういう結婚が話題になっています。この場合神話は、距離の近さということに、深い関心をしめしているのです。

 それとは反対に「族外婚」は、とにかく自分の住んでいる社会の外の、遠くにある相手と結婚することを意味しました。これはインセストの逆です。この際、人間の世界から遠い世界にいる人々が、結婚の対象としてイメージされます。人間は陸地に住む生き物ですから、水の世界に住む生き物がそういうイメージの対象としては最適です。水界に住む異性との結婚は、こうして「族外婚」の極端な形態として、神話にはたびたび登場することになります。

 

 

 

コミュニケーションの獲得

 

 シンデレラ物語の究極的な目的は、もともとはいっしよだったのに不平等ができたり、たがいに分離されて仲介を失ってしまっていたもののあいだに、もう一度仲介された状態をつくりだすことにありました。それが「ハッピーエンド」ということの本当の意味です。あらゆる仲介者のイメージを総動員して、ハッピーエンドの結末をつくりだすこと。どうしてシンデレラ物語がこれほど普遍的に愛されてきたのか、その理由はシンデレラ物語が徹頭徹尾そのことだけを目的にしてつくられたものとして、神話的思考にとっての幸福論を、あからさまにしめしてみせているからなのでしょう。

 ハッピーエンドが意味を持つためには、仲介が欠如している状態が、冒頭に出てこなければなりません。つまり世界が仲介を欠いて、コミュニケーションが起こりにくくなっている状態、またはコミュニケーションが途絶している状態があらわれていなければなりません。ポルトガル版シンデレラ物語では、王様と王子様のあいだのコミュニケーションが途絶しています。王子が「魔法」の力によって、魚(別の話では白鳥)に姿を変えてしまったために、たとえ同じ時空にいても、王様と王子のあいだにはコミュニケーションがなくなって、おたがいが見えなくなってしまうのです。

 同じように、主人公の家族内でも仲介が欠如しています。末娘はとてもつらい立場に置かれています。というのも、家族の中で彼女は社会的なコミュニケーションを途絶された状態にあるからです。

 そこで彼女はいつもカマドのそばにいて、動物や魚と交流するようになります。人間とはコミュニケーションできないのに、あるいはそのことを代償にして、彼女は自然と超自然の領域とだけ、コミュニケーションできます。しかしこの状態は、世界全体にとってはまだ不均衡をしめしています。そこに社会的コミュニケーションという重要な交通路が開かれていないからです。自然=超自然とだけつながっていたカマド猫というシンデレラが、人間の世界の王子様とめでたく結ばれることによってはじめて、求められていた社会的コミュニケーションが実現されます。

 ポルトガル版シンデレラのおもしろいところは、カマド猫が水界の存在である黄色い魚と結婚するところにあります。黄色い魚は井戸の奥底に住んでいますが、そこは水界への入り口で、彼女はそこに住む黄色い魚と結婚することで、「族外婚」を実現したことになります。この形態は「族外婚」の中でも極端なケースをあらわしていますから、死者や異界の存在と結婚したと言っても間違いありません。

 カマド猫の勇気ある行為によって、人間の世界の外とのあいだに、まずコミュニケーションの通路ができたのです。するとつぎつぎにいままで閉ざされていた通路が開き、王様は失っていた王子を取り戻し、王様とカマド猫のあいだに予定されていた結婚(通常のシンデレラ物語のパターンでは、この結婚だけで十分なのですが)が持つ(年齢的な)不均衡は正されて、王子とカマド猫の結婚がおこります。すると、このポルトガル版シンデレラでは、死者や異界のものたちとのコミュニケーションの回路を開くことの重要性が語られていることがわかります。

 

 私たちはあとで「シンデレラ」の人類的分布の謎に接近していこうと思いますが、そのときになれば、たったいまわかった死者や異界とのコミュニケーションの問題こそが、この物語の気の遠くなるほど古い来歴をしめしていたことが、わかるでしょう。

 私たちの世界で、いちばん仲介するのが困難なのは、死者とのあいだに通路を開くことでしょう。死者は生者には答えないし、私たちも死者の世界に入ったら戻ってきません。オルフェウス神話をはじめ、神話が最大の課題に据えてきたのが、死の領域とのあいだのコミュニケーション途絶のアポリアなのです。水界の領域の登場が、私たちをシンデレラ物語の最古層へと、誘おうとしています。

 

 

 以上が・・・中沢新一の・・・シンデレラ物語に関する哲学的思考の・・・まあいうなれば序論である。ヨーロッパで伝承されているシンデレラ物語にはいろいろなタイプがあるのだが、中沢新一によれば、以上に紹介したポルトガル版「カマド猫」の話には新しい変形の要素が登場しているという。そして、それが私たちの探求をアジアに近づけていくことになるという。私としては、結婚の重要性をしっかり頭に叩き込むこととしたい。結婚の重要性、しかも「族外婚」の重要性をしっかり頭に叩き込むこととしたい。

 今、私たちは、人類最古の哲学の・・・まあいうなれば序論を勉強した。準備完了!いよいよ核心に迫っていこう。シンデレラ物語らしくないシンデレラ物語、中沢新一いうところの「シンデレラに抗するシンデレラ」を勉強することとしたい。「環太平洋の環」の重要性が自ずとわかってくるはずである。

 私たちは、「環太平洋の環」というものを十分意識しながら・・・・「劇場国家にっぽん」を作り上げていかなければならない。国際連合ではない。「環太平洋の環」である。「環太平洋の環」というものを十分意識しながら、草の根の国際交流を進めなければならない。「環太平洋の環」というものを十分意識しながら、「族外婚」を広めなければならない。「族外婚」を広めて・・・・国際人を育てなければならない。それが唯一日本の国際化をすすめる道である。アメリカのダイバーシティーの広まりと相まって、日本における「族外婚」の広まりが世界のダイバーシティーを押し進めることになる。ダイバーシティーこそ唯一世界の平和を実現する道である。世界平和実現のカギは日本における「族外婚」の広まりにある。「族外婚」だ。

 過疎地域では、すでに東南アジアからの花嫁が増えている。必ずしも良い結果を生んでいるとは限らないが、少なくとも言えることは、過疎地域では「族外婚」の増える要素がすでに生じてきているということだ。問題はどうすれば良い結果を生むかということである。神話の教える理想的な「族外婚」をどうすれば押し進めることができるか。それが問題なのだ。

 21世紀の日本は、それはとりもなおさず「劇場国家にっぽん」ということだが、それは多様な社会であると同時にそれは知的な日本でなければならない。創造力豊かなベンチャービジネスがどんどん生まれてくる知的な「モノづくり国にっぽん」でなければならない。多様で知的な国にっぽん・・・・、それはとりもなおさず田辺元の「種の原理」と西田幾多郎の「場所の原理」にもとづく国づくりをすすめることだ。それはとりもなおさず中沢新一の「モノとの同盟論」と中村雄二郎の「リズム論」にもとづき国づくりをすすめることに他ならない。

 

 そして・・・・そのことを煎じ詰めて考えれば、私の考えでは、それはとりもなおさず「身体と脳の学習プログラム」を国際的にすすめることである。

 「劇場国家にっぽん」の構築は、戦略的には「杜の国にっぽん」の構築である。「杜の国にっぽん」・・・それはいうまでもなく多神教の世界、多様性の世界である。多は一である。一は多である。そういう世界を実現するためのカギは「族外婚」が握っている。そして、それを成功させるためには・・・、「環太平洋の環」の神話が共通感覚として私たちの身につかなければならないのである。「環太平洋の環」の神話を共通感覚として私たちの身につくようにするためには、「身体と脳の学習プログラム」が必要で、しかもそれは国際的でなければ意味がない。わが国の豊かな自然と歴史と文化に恵まれた場所で、「族外婚」の進んだ国際的な地域環境の中で「身体と脳の学習プログラム」は進められなければならない。

 

それでは「環太平洋の環」における「族外婚」物語の始まり始まり!

 

Iwai-Kuniomi