平和の使者・坂上田村麻呂
坂上田村麻呂は、わが国最初の征夷大将軍となった人であり、古来より武将としての名声がすこぶる高い。確かに戦いには強い猛将でもあったのだろう。しかし、私には、坂上田村麻呂は平和を強く求めた人であると思えてならない。平和の使者と言っていいかも知れない。
「怒れば猛獣もたちまちたおれ、笑えば幼児もなつく」といわれているが、武将だから怒れば恐ろしいのは当然である。しかし、武将を言い表すのに「幼児もなつく」とは・・・。強気を挫き弱気を助く・・・、これは正義の人であるが、正義の人、必ずしも幼児がなつくとは限らない。平和な心がないと幼児がなつくことはむつかしい。坂上田村麻呂はエミシ出身ではないかという説が今でもあるが、これとて蝦夷征伐に行きながらいろいろとエミシの立場に立って行動したのだろう。平和な心の持ち主でないとなかなか敵の立場には立ちにくいものである。
「薬子(くすこ)の乱」というのがある。これは嵯峨天皇と兄の上皇との戦いであり、坂上田村麻呂が上皇軍を迎え討つべく出発するとき、そのおり、坂上田村麻呂は文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)という人の同行を願い出て許可されている。文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)という人は、もともと上皇側の人で、今は天皇側に幽閉中の人である。そういう人をよくも厚遇できるものだと思う。武勇一点張り人ではなかなかこういうことはできない。このことは、坂上田村麻呂が平和の人かどうかは別として心の大きな人物であったことを示している。
坂上田村麻呂いわく、「綿麻呂は武芸の人なり、しきりに辺戦を経る。乞い願わくばまさに同行せむ」。これを聞き天皇は、綿麻呂を位三階級上げ、かつ、参議に任じ同行を許した。この破格の措置に、綿麻呂は歓喜踊躍(かんきようやく)して田村麻呂の軍に参加したことはいうまでもない。坂上田村麻呂の面目躍如たるものがあるではないか。
延暦19年(800)10月、ついに、桓武朝第3次の蝦夷征伐が実施された。44才の征夷大将軍・坂上田村麻呂は、翌801年の2月に、節刀を賜って京を出発。軍勢4万をもって田村麻呂は胆沢を越えて東北奥部まで入った。どこでどういう戦闘があったのか記録がないので何とも言えないが、私の考えとしては、ほとんど戦闘というべき戦闘はなかったのではないかと思う。つまり、坂上田村麻呂の武勇が知れ渡っていたのと・・・彼が平和外交を望んだために、大きな戦いがなかったのではないかと思うのである。今までの相次ぐ戦いに疲弊してエミシにもう往年の戦闘意欲がなくなっていたのかもしれない。
坂上田村麻呂はそういう状況の中で胆沢城の造営を開始する。802年1月のことである。そのさなかに、あのアテルイがついに田村麻呂の軍門に下ってきたのである。アテルイは降伏したのではなくて平和的講和にやってきたという説もあるが、真相はよく判らない。しかし、少なくとも言えることは、降伏にしろ講和にしろ、そういう雰囲気が田村麻呂にあったということだ。田村麻呂が胆沢城を築造するかたわら盛んに平和外交を進めていたのかも知れない。
アテルイは、坂上田村麻呂につれられて京に上る。そして、田村麻呂の説得にもかかわらず貴族たちの強硬な意見によりアテルイは京で処刑される。田村麻呂の嘆きは如何ばかりか・・・、私には想像して余りあるものがある。
坂上田村麻呂は、アテルイらの霊を慰めるために清水寺を建立・・・、これは私の全くの想像であるが、案外そうなのかも知れない。清水寺は、もともと798年に法相宗の寺として建てられたのであるが、それを全面的に増改築して現在の清水寺になった・・・、そのことは事実である。805年のことである。
アテルイ処刑のあと直ちに、坂上田村麻呂は造志波城使(ぞうしわじょうし)として陸奥へ赴いているが、その役目を終えて帰京後清水寺の改築が始まったというのが私の想像である。そうだとすれば、清水寺増改築の動機はアテルイらを含む彼我戦没者の鎮魂しか考えられないではないか。平和の使者・坂上田村麻呂というのが私のいいたいことである。
平和の原理は「おそれ」である。怨霊は鎮めなければ平和は来ない。清水寺は平安のために建てられた。平和の使者・坂上田村麻呂の力によるのだが、平安京を守る勅願所の誕生である。北法相宗の大本山でもある。清水寺におもむき、坂上田村麻呂を思い、アテルイを思い、そして平和を思うのも悪くないだろう。