平安時代への権力闘争

 

 藤原仲麻呂は、大仏建立を通じて、光明皇后、孝謙天皇にとり入って力をのばした。そこでさまざまな衝突が起こるのである。

 

 757年は、暗雲を孕んで年が明ける。

 757年3月に、皇太子道祖王(ふなどのおう)を廃して、翌月、大炊王(おおいのおう)をたてるという暴挙が行なわれた。そして、5月には、藤原仲麻呂は紫微(しび)内相になった。大臣と同格である。仲麻呂は孝謙天皇の従兄にあたっていたから、もともと皇后宮職を掌握していた。紫微(しび)内相になることにより宮中の全権を握ったことになる。

 その年の7月には、橘奈良麻呂の乱が起こった。奈良麻呂が大伴古麻呂や安宿王(あすかおう)らと結託して仲麻呂と孝謙天皇をおそうというものであった。密告が仲麻呂の耳に入るや、ただちに、警備と反撃の兵を配置し、関係者を次々と逮捕していった。死刑、流刑あわせて443人と言われている。そのなかには佐伯、大伴、小野、賀茂などの古代豪族の一族が含まれている。ものすごい粛正だ。

 仲麻呂は、大炊王(おおいのおう)を・・・・自分の跡取りの未亡人粟田諸姉とめあわせ、自宅において育てていたのであるが、無理無理これを皇太子にしたのである。

 王は立太子した翌年、25歳で天皇になった。まさに仲麻呂の暴挙である。仲麻呂の暴挙によって孝謙天皇は廃帝となり、淳仁天皇が誕生したのである。そして、こともあろうに藤原仲麻呂は、なりたての天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)という称号を授かる。「氾く(ひろく)恵むの美、これより美なるはなし」、「暴を禁じ強に勝ち、戈(か)を止め乱を静める」の意から取ったのだそうだ。おごりもはなはだしい。

 

 このころ、ようやく白村江(はくすきえ)の敗戦から立ち直り、日本の国際政治力は強まり、直接、唐本土と交流が深まるにつれて、新羅との関係は悪くなっていた。かわってむしろ、半島の北の渤海(ぼっかい)が、大陸事情の窓口になっていた。

 そこで、向こうから攻めてこないならこちらから新羅に出兵してもよい。唐は安禄山・史思明の乱によって疲弊しているから、新羅を救援することはできない。このさい、いっそ、出兵して禍根を絶ち、かつ、国民の目を外敵に向けて、政権安定を図るべしというのが仲麻呂の外交方針であった。まあどえらいことを考えるものだ。仲麻呂のおごりである。しかし、そのまえに、内を固めなければならない。

 恵美押勝(えみのおしかつ)は、東北地方の蝦夷の鎮圧を図り、陸奥の国に桃生城(もものふじょう)、出羽の国に雄勝城(おかつじょう)をつくった。そして、その頃は、新羅出兵のため、ひたすら軍事に明け暮れるのである。

 

 760年、光明天皇がなくなった。仲麻呂の最大の後援者が失われたことになる。老練な政治家、吉備真備(きびのまきび)がこの好機を逃すはずがない。

 孝謙天皇も、母親の死によってかえって権力意識が強くなり、弓削の道鏡と大ぴらに親しくし始めた。あまりの親密さに、政治的危機を感じた仲麻呂は、淳仁天皇を通じて、二人の関係を告発する。孝謙天皇はやむおえず出家するが、ほとんど院政に近いかたちで実権は外さなかった。吉備真備(きびのまきび)の支えがあったからであろう。

 

 吉備真備(きびのまきび)の外交工作が密かに行なわれる。そして、遂に、仲麻呂の新羅出兵の近づいた時、クーデターが起こるのである。764年9月11日、孝謙帝は退位して高野上皇となっていたが、行動を興すのである。激戦の内に、高野上皇から仲麻呂は逆臣として指弾され、一転して仲麻呂軍は反乱軍となった。この鮮やかなタイミングの駆け引きの裏には当然、吉備真備(きびのまきび)の周到な読みと準備があったであろう。漢氏(あやし)、秦氏(はたし)ら渡来豪族の国際派は、みな女帝の側についた。仲麻呂は、宇治から近江を通り、東国へ逃れようと琵琶湖へ出たが、遂に追い詰められ湖上で妻子4人と一味徒党34人が捕らえられ、湖畔で斬られた。哀れなものである。

 淳仁天皇は、もはや仲麻呂の率いる軍勢もなく、衣服もはきものもそこそこに、母と3、4人の家来を連れて逃れようとしたが捕まって、淡路流配の身となった。淡路廃帝と呼ばれた天皇は、「幽憤に勝(た)えず、垣根を越えて逃げたが、明日、院中に薨(みまか)りぬ」と記されている。死因不明。暗殺の疑いが濃い。この幽憤は、怨霊としてやがて、皇室を悩ます。まだ33歳の若さだった。

 こうして称徳天皇と弓削の道鏡の時代が来るのである。淳仁天皇の配流にともなって孝謙天皇(高野上皇)が重祚して称徳天皇となったのである。

 

 道教は良弁の弟子であった。道教を宮廷に紹介して入れたのは良弁らしいと言われている。そういうこともあってか、称徳天皇に道教が出会ったのは、石山寺のすぐ近く・・・保良宮であった。それも何かの縁があったのであろうか。道教は葛城山で「如意輪法」を修行したとされている。良弁が、大仏建立のために金の湧出を願って、石山寺で行じたのも「如意輪法」である。

 その道教が称徳天皇のお蔭で位きわまって、遂に、法王という未曾有の官に任ぜられたのである。こうなれば本人自身も当然権力欲もでてこようし、まわりにもいろいろと暗躍する人が出てくる。宇佐八幡宮神託事件もそのひとつである。

 

 ただ、面白いことには、宇佐八幡宮神託事件のあと、道教は特に身の上に変わったことは生じていないし、和気清麻呂は、別部穢麻呂(わけのきたなまろ)と改名されて大隈に流罪となったが、命には別状はなかった。770年、称徳天皇は病気のために死去されて光仁天皇の誕生となる。光仁天皇誕生とともに道教は下野の薬師寺に左遷されて、772年その地で死んだ。

 

 称徳天皇から光仁天皇への移譲はまあ無事行なわれた。問題はその後である。

 

 道教を排し、吉備真備(きびのまきび)を排した藤原一族の有力者、藤原良継藤原百川らは、太政官を中心とする政治体制の再編成に取りかかった。ここで大きな問題は井上(いかみ)皇后の存在である。光仁天皇は、晩年になって藤原氏の力で皇位についたという自覚があった。しかし、井上(いかみ)皇后には、聖武天皇の娘というプライドがある。また、称徳天皇の妹でもある。いずれ天皇に・・・という望みがあったかも知れない。藤原氏は、皇后宮職などの皇室の私的な都合でふくらんだ政府を縮小し、官僚政府に戻そうと努力していた。何かと井上(いかみ)皇后の意にそわないことが続出し、皇后は、光仁天皇の弱腰を非難するようになった。自然といがみ合うようになる。

 これは本当かどうかは別として、702年、井上(いかみ)皇后が天皇を亡きものにしようとして、巫蠱(ふこ)の術 を行なったというのである。昨足島(くらのたるしま)という者が自首してきた。井上(いかみ)皇后と他戸(おさべ)皇太子はただちに捕らえられて、大和国宇智(うち)郡に送られ、ただちに・・幽閉。そして3年後の同じ日に亡くなった。当然、変死であった。うらめしい! この怨み・・・何としてでもはらさいでか!

 

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Iwai-Kuniomi