謡曲「蝉丸」

 

 

蝉丸は、皇子として生まれたにもかかわらず、

幼少の頃から盲目であった。

 

謡曲は、その辺から始まるのだが、

これは又・・・絶対的世界の入り口でもある。

蝉丸は、皇子なるが故に「貴」であり同時に盲目なるが故に「賎」である。

 

貴であるとか賎であるとか・・・・そういう相対的な認識というものは、

私たちにとってなかなか越えがたいところがあるが、

貴賎一致の存在、・・・それが蝉丸である。

 

天皇は、蝉丸を逢坂山に捨てるよう侍臣・清貫に命ずる。

蝉丸は清貫とともに誠に不安な道行きを往く。

謡曲は「迷いの雲も立ちのぼる」と歌う。

 

蝉丸は、逢坂山に着き、

捨てられることがやっと判った時点で、

「この世にて過去の罪業を償う」旨、・・・迷いの先の決意を清貫に告げる。

果たして蝉丸はそういう安心の世界に入っていけるのか・・・・。

絶対的世界ということだ。

 

清貫は、蝉丸に髪をおろし身をやつすようにすすめ、

道しるべに杖をわたして去っていく。

残された蝉丸は泣きくずれ、

謡曲は

「皇子はあとにただ独り、琵琶を抱き杖を持ち、

伏し転びてぞ泣き給う。伏し転びてぞ泣き給う。」と歌う。

 

すべてのものを捨て去って、

その先にこそ本当の安心立命がある。

蝉丸のみにあるのは琵琶と杖のみである。

その先に本当の安心立命があるに違いない。

 

きっとそうだ、

・・・・私たちはそれを願わないではいられないではないか。

 琵琶は「貴」の象徴、杖は「賎」の象徴。

安心立命の世界とは、

貴であり賎である、逆に貴でもなく賎でもない、・・・そういう絶対的世界でもある。

貴賎を越えた絶対的世界、

・・・それが蝉丸の世界でなければならない。

 

 

 

一方、延喜帝の第三皇女逆髪(さかがみ)、

それは蝉丸の姉に当たるが、

その姉は、

狂気の果てに、特に留まるところもなく、

全国あちこち「漂泊の旅」を旅している。

彼女の髪は逆さに突っ立って、撫でても下がることはない。

 

子供たちが逆髪(さかがみ)を笑うのに対して、

逆髪は、

髪の逆さなることよりも、

今は卑賎の身であってももともと高貴の出である者、そういう者を表面的な見方だけで笑うこと、

・・・そのことの方がむしろ転倒そのものではないかと反問する。

場面はクライマックス、

・・・地謡ともども・・・・「さかしまの哲学」を詠いあげる、

・・・謡曲「蝉丸」のいうなればクライマックスである。

 

面白し面白し。

これらは皆人間目前の境界なり。

それ花の種は地に埋もって千林の梢に上り、

月の影は天にかかって万水の底に沈む。

これらをば皆何れか順と見逆なりと言わん。

 

我は皇子なれど庶人(そじん)に下り、

髪は身上より生い上がって星霜を戴く。

これ皆順逆の二つなり面白や。

 

 

逢坂の関を彷徨する逆髪(さかがみ)は、

廃屋の中から聞こえる琵琶の音に耳を傾ける。

声をかけられてよくよく見ると、

琵琶の主は弟の蝉丸である。

二人は再会を慶ぶとともに、世の情けの薄いことを嘆く。

 

逢うは別れであるのだろうか。

名残を惜しみながら二人は別れていく。