京都のチンチン電車

 

明治になって、東京が首都となり、
天皇が東京にお移りになった。京都は、
「天皇さんがおられなくならはった!」
ということで、騒然となった。
明治政府はそれを鎮めるため、・・・・
わが国近代化の先駆けをまず京都で行うこととした。

すなわち、かの有名な疎水運河と、・・・・
そしてそれに関連し、
わが国最初の発電所と電気鉄道
・・・・この二大プロジェクトの建設である。

明治28年2月1日開通の伏見線に続き、
2ヶ月ほど遅れ、市内線も、
何とか勧業博覧会開催に間に合わせる形で、
何とか4月1日に開通した。

ちなみに、伏見線が真っ先に急がれたのは、物資輸送の拠点が
伏見港であったからにほかならない。淀川汽船と契約して京都
駅前から大阪八軒屋までの通し切符も発売されていた。
淀川汽
などというものの想像が今の私たちには到底できないが、京
都にとって、伏見の存在は誠に大きいものがあったのである。

博覧会の会場は岡崎であったのと
水力発電所のある水利事務所が蹴上げにあったためか、
最初の市内線は、
京都駅前から高瀬川に沿って二条通りに達し、
東へ専用の木橋で鴨川を渡り、疎水に沿って蹴上げまでいった。

市内線の第二期工事分は、
第一期工事と少し遅れる形で進んでいたが、
同年九月二十四日に、
木屋町二条から
堀川中立売(なかだちゅうり)までが完成した。

堀川中立売(なかだちゅうり)が終点であった時期があるわけで、
その写真が次の写真である。

 

 

その後、堀川に沿って走るチンチン電車は、
京都駅前から北野神社まで延長され、
昭和三十六年七月三十一日の廃止まで
堀川電車又は
チンチン電車と呼ばれながら
京都の人々に親しまれてきた。

 

 

次の写真は、
堀川中立売(なかだちゅうり)から北野神社に向かって
堀川を渡ろうとするチンチン電車

堀川中立売・・・この近くにかの有名な「一条戻り橋」がある。

朱雀高校の同級生・佐々木清蔵君の家のすぐ近くだ。

 

 

 

その後、京都市がそれら電気鉄道を買収し、
広軌の市電が一般化していくが、
北野線だけは
チンチン電車のまま走り続けるのである。

したがって、一般の市電とチンチン電車のダブリ区間、
四条堀川から西洞院(にしのとういん)までは、
六本のレールが敷設されていた。・・・・・・誠に珍しい。

 

Iwai-Kuniomi