新羅(しんら)三郎

 


先にも述べたが、 源氏が東国で力を持つようになるのは、1062年からである。源頼朝が鎌倉入りをする100年少々前の事である。頼朝が鎌倉を選んで拠点とするのは、言う までもなく、源義家ら先祖が鎌倉を拠点にしていたことによる。源義家が東北経営の為に旗揚げするのは、鎌倉の源氏山である。坂東各地から軍勢が鎌倉に集 結、源氏の白旗が源氏山にたなびく様(さま)は壮観であったろう。

1051年に、前九年の役が起こって源頼義が大活躍をするのだが、引き続き1062年、阿倍貞任を源頼義が討って源氏の基礎が固まるのである。源義 家が清原氏を討って勇名を馳せるのは1087年である。かの有名な新羅三郎(しんらさ ぶろう)・義光が兄義家の応援のために陸奥に下向するのはこの時である。

青森県は八戸に新羅(しんら)神社というのがあるが、新羅(しんら)三郎ゆかりの神社であろうか。新羅(しんら)三郎の祖父・平直 方(なおつね)は余り知られてないかもしれないが北条氏の始祖と言われている。

祖父/平直方(なおつね)というのは母方の関係であろうか。それにしても新羅(しんら)三郎は不思議な人である。武芸の達人であり実に魅力的な人 だ。新羅(しんら)三郎の墓は元服の地・大津は、三井寺の北隣、歴史博物館の裏山にある。新羅(しらぎ)神社の隣だ。

[三井寺の朝] [博物館の裏山を行く]

[新羅(しん ら)三郎の墓] [新羅 神社の横の山道]





「源 義光(みなもとのよしみつ)足柄山(あしがらやま)の絶頂(ぜっちょう)にて 豊原 時秋(とよはらときあき)に秘曲(ひきょく)を綬(さず)く」

 

源 義光は平安時代中期の武将。頼義の三男。新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服し新羅三郎ともいう。知謀に富み射術をよくし,笙(しょう)に長じた。 1087年(寛治1年8月)いわゆる<後三年の役>における兄義家の苦戦を聞き、官職を辞してはせ参じた話は有 名である。 なお義光は音律を好み、笙の師豊原 時忠より名器交丸を授けられたが、陸奥におもむくにさいし、名器の失われるのを配慮して、逢坂(おうさか)の関で時忠に返還したとか、同じく陸奥に下ると き足柄山で笙の秘曲を時忠の甥時秋に授けたなどの伝説がある。(広辞苑 世界百科事典 平凡社)

 

 


前のページ・「古代における関東」 に戻る!

「武家社会源流の旅」のスター ト地点に戻る!

「桃源 雲情」のオープンニングページに戻る!

 

 

Iwai-Kuniomi