神泉苑

平安初期庭園の遺跡。京都市中京区門前町に所在。

平安京選定と同時に計画された禁苑で、

大内裏の南東に隣接し,

北は二条,南は三条,東は大宮,西は壬生の大路に囲まれた

南北4町,東西2町の広大な地を占め,

周囲に築地をめぐらし六つの門を開いていた。

 

苑内北東部に神の泉の名のとおり水量豊富な湧泉があり

中央部の大池にたたえられ,池には大きな中島があった。

 

池に南面して正殿(乾臨閣)があり屋根には鴟尾(しび)を上げた。

正殿の左右に閣が,池に臨んで東西に釣台があり,

これらは廊でつながれていた。

湧泉から池までの流れは,滝とも呼ばれる瀑流をなし,

小橋を架け,滝殿を構えた。

池の北岸には

神泉苑監で画家として著名な巨勢金岡(こせのかなおか)が立てた

庭石が数多くあった。

神泉苑は立地がよく,

豊富な水をもつ大規模な自然園に近い園池に

人工的な部分を加えたもので,

池に南面して左右対称の堂々たる建築をもっており,

まもなく寝殿造や浄土庭園として形を整えてゆく

前駆をなすものであった。

 《日本紀略》の800年(延暦19)

桓武天皇の行幸記事が初見で,

802年2月には早くも舟を浮かべ,この月は4度の行幸があった。

3月には観花,5月には競馬,7月には納涼,七夕,相撲,

9月には射術,琴歌,挿菊の遊びがあった。

また詩賦吟詠,狩猟,釣魚などが行われた。

これら恒例儀式のだいたいは《内裏式》等によって知られる。

 

神泉苑でのこれら宴遊は

桓武天皇末年から平城・嵯峨両天皇の間が最盛期であり,

天長年間(824‐834)以降は,

神泉苑は信仰の浄地とされ,

祈雨,止雨の霊場とされた。

空海の祈雨修法の伝説は名高い。

 

天慶年間(938‐947)以降

神泉苑の水は潅漑用水としても利用された。

平安時代末期には池水も汚濁し,

池水の掃除が行事の一つとなり東寺がもっぱらこれに当たった。

鎌倉・室町時代には何度か補修されたが荒廃の一途をたどり,

 

慶長年間(1596‐1615)の二条城造営により

北部4分の1が城内にとりこまれ,

江戸時代には民家に侵食された。

現存する部分は,
かつての苑地北東の一部であり,旧規の6□ほどにすぎない。
 

                       牛川 喜幸

 

 


平安京は、風水思想によりその骨格が定められた。

竜頭である船岡山と龍穴である神泉苑の位置基本として、

都の中心線・朱雀大路が計画された。

朱雀門は朱雀大路の北端にある。

その奥は大極殿と大内裏である。朱雀門と神泉苑はほとんど隣接していると考えて良かろう。

それほど離れてはいない。その中間にわが朱雀高校がある。

したがって、

わが高校は朱雀門や神泉苑の跡地にあるようなものだ。

 

Iwai-Kuniomi