「身体と脳の学習プログラム」

 

 

 今、養老孟司(ようろうたけし)の「バカの壁」(2003年4月、新潮社)という本がベストセラーになっている。彼は、かって永く東大の解剖学の教授をしていて、まあいうなれば脳の専門家である。「唯脳論」などという本も書いているのだが、彼のいうことには吃驚することが多く、目からウロコが落ちるようなことが多い。今回の本もそうだ。例えば、『 現状は、NHKの「公平、客観、中立」に代表されるように、あちこちで一神教が進んでいる。それが正しいかのような風潮が中心になっている状況は非常に心配です。安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真理がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。』・・・・などと言われると、もう吃驚してしまう。しかし、養老孟司の言うことは真実であると思う。科学的であると思う。

 

 さて、私は先に、『 神話を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。宮沢賢治の童話や草野心平の詩を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。私たちは、そういう「場所の持つリズム性」に着目すべきであって、子供や若者はそういう「場所」の発するリズムに耳を傾けなければならないのである。「場所」の発するリズム、それは風土の発するリズムということかもしれないが、そういうリズムに耳を傾けることによって具体性の世界と深く結び付いた感性というものが養われるのである。』・・・と述べた。そのために「劇場国家にっぽん」などという国づくりの構想を提唱しているのだが、ここではその補強として養老孟司の身体論を紹介しておきたい。

 

 養老孟司は、その著「バカの壁」の中で「身体」について極めて重要なことをいっている。人間は「身体」を通じていろんなことを学習していく。学習というと「脳」の問題だと思われがちであるが、そうではなくて、「身体」を通じて学習する部分というのが非常に大きい、というのが養老孟司の認識の基本である。これは、西田幾多郎の「場所の論理」や中村雄二郎の「リズム論」と同じ認識である。「戦後、我々が考えなくなったことの一つが<身体>の問題です。」と養老孟司は鋭く指摘しているが、確かに戦後の日本には身体をあまり動かさない頭でっかちの・・・まあいうなれば不健全な人間が増えてしまったようだ。不健全な人間が多くなれば国家自体も健全であるはずがない。国家が健全でなければいよいよ不健全な人間が増えていくという・・・・悪循環に陥ってしまう。それを正すには、やはり原点の問題、つまり「身体」の問題に戻ることだ。養老孟司は次のように言っている。

 

『 江戸時代には、朱子学のあと、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一(ちこうごういつ)。すなわち、知ることと行なうことが一致すべきだ、という考えです。しかし、これは「知ったことが出力されないと意味がない」という意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意味ではないか。文と武という別のものが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がぐるぐる回らなくては意味がない、学んだことと行動とが互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思います。

 赤ん坊でいえば、ハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。ハイハイをして動くと視覚入力が変わってくる。それによって自分の反応=出力も変わる。ハイハイで机の脚にぶつかりそうになり、避けることを憶える。または動くと視界が広がることがわかる。これをくり返していくことが学習です。

 この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第にその入出力を脳の中でのみ回すことができるようになる。脳の中でのみの抽象的思考の代表が数学や哲学です。

 赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく。学生も様々な新しい経験を積んでいく。しかし、ある程度大人になると、入力はもちろんですが、出力も限定されてしまう。これは非常に不健康な状態だと思います。

 仕事が専門化していくということは、入出力が限定化されていくということ。限定化するということはコンピュータならば一つのプログラムだけをくり返しているようなものです。健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしていることなのかもしれません。

 私自身、東京大学に勤務している間とその後では、辞める前が前世だったんじゃないか、というくらいに見える世界が変わった。結構、大学に批判的な意見を在職中から自由に言っていたつもりでしたが、それでも辞めてみると、いかに自分が制限されていたかがよくわかった。この制限は外れてみないとわからない。それこそが無意識というものです。

 「旅の恥はかきすて」とは、日常の共同体から外れてみたら、いかに普段の制限がうるさいものだったかわかった、ということを指している。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることに繋がるわけです。』

 

 そうなのだ。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることだ。私たちは、新しい世界を知るためには、ともかく身体を動かすことを考えねばならない。本を読んだりテレビを見ることも必要だけれど、私たちはもっと身体を動かすことを考えなければならない。そう考えれば、私たちの学習プログラムは無限にある。私たちは、養老孟司が言うように、「身体と脳の学習プログラム」をいろいろとつくり出さなければならない。私たちは、「場所のもつリズム性」に着目して、さまざまな舞台装置をつくっていかなければならない。私たちは、「場所のもつリズム性」に着目して、さまざまな仕掛けをしていかなければならないのだ。新しい地域づくりだ。新しい川づくりだ。新しい森づくりだ。新しい村づくりだ。いろんな人たちの出合いの場づくりだ。それが「劇場国家にっぽん」のねらいである。・・・・みなさん、大いに旅に出かけよう!「劇場国家にっぽん」の旅を続けよう!

 


それではいよいよ「南方熊楠」です。

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