神話と現実

 

 中沢新一がその著書「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈v(2002年1月、講談社)の中で述べているように、神話の思考方法というものは、具体性の世界と深く結び付けられたものであって、ひとつの哲学といってよいものらしい。哲学は、科学である。科学にも西洋科学と非西洋科学があるし、西洋科学にも古典科学と近代科学がある。いろいろな言い方があるが、科学は自然に関する学知を指し、広義には学問と同義である。神話の思考方法は、文化人類学的科学と呼んでいいと思われるが、レヴィ=ストロースが「野性の思考」の中に見出した「具体の科学」そのものである。

 

 現在、アニメーションが大流行であるが、これにはよほど注意が必要だ。具体性の世界とはおよそかけ離れた単なる幻想の世界で快感だけを追い求めているととんでもないことになる。私たちは、麻薬による幻覚症状に快感を覚えるようになってはならないのと同じように、幻想の世界における快感原則の怪物をはびこらせてはならないのである。中沢新一は、上記の著書で次のように言っている。

 『 今日の日本では、子供たちの文化を中心として、広範囲にバーチャルな領域の開拓が進んでいます。最先端のCGやアニメなどでも、視覚器官と大脳の視覚野の働きだけに世界を限定して、そのなかで創造力と欲望の動き操作したり変形したりして、快感原則を満足させるために、きわめて高度な技術が動員されています。こういう領域の技術開発において、日本人は他にぬきんでた達成を行なっています。

 しかし、同時にそのことが社会全体の病理を悪化させるのに力を貸していることも、否定することのできない事実です。アニメやゲーム産業を見ていますと、知性活動が大脳の視覚野を中心とするごく狭い領域に限定され、しかもその活動はバーチャルで、ということは現実の世界の確かな手ごたえのあいまいな中間領域で行なわれて、その領域を動いていうのがプログラムを動かし操作する技術的知性とこの神話的思考だけだというのが、大きな特徴になっています。子供の思考は神話の思考法と深い関係をもっています。ですから、今日の日本文化の光景は、きわめて高度な技術をもった子供のままの精神がつくりあげている、という批判を招くことになっているのです。

 どうやら現代日本のバーチャル文化は、神話的思考の様式だけをかってのまま温存しているように思えます。「様式だけ」といったのは、そこには人類最古の哲学として生れ成長してきた神話のもつ豊かな「内容」が捨てられて、ただその形態的な様式だけが、異様な快感原則の怪物として、あたりを跋扈(ばっこ)しているような気がしているからです。』

 

 

 私は、アニメーションを肯定的に見ていて、これからの発展に大きな期待をもっている。もちろん、中沢新一が言うように、形態的な様式だけが異様な快感原則の怪物としてあたりを跋扈(ばっこ)するという・・・この現在の風潮は改められなければならない。やはり今必要なのは哲学である。哲学的な「内容」をもった物語はりっぱな文学であって、そういう文学としてのアニメを増やしていかなければならない。私たちはアニメを文学といいうるレベルにまで高めなければならないのである。そのためには、哲学者は、中沢新一がそうであるように、神話を語らなければならないのである。神話のもつ豊かな「内容」というものを語らなければならないのである。さらには、宮沢賢治の童話や草野心平の詩などのすぐれた文学を子供や若者のためにもっともっと語らなければならないのである。そして、アニメのクリエータたる若者は、いろんな神話はもちろんのこと、宮沢賢治の童話や草野心平の詩などのすぐれた文学をわがものにしなければならない。神話を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。宮沢賢治の童話や草野心平の詩を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。私たちは、そういう「場所の持つリズム性」に着目すべきであって、子供や若者はそういう「場所」の発するリズムに耳を傾けなければならないのである。「場所」の発するリズム、それは風土の発するリズムということかもしれないが、そういうリズムに耳を傾けることによって具体性の世界と深く結び付いた感性というものが養われるのである。

 

 もうひとつ大事なことは、動物や植物、鉱物など自然の世界についての具体的な知識を身に付けなければならないし、社会や人間そのものについての理解を深めなければならないということである。そういう具体性の世界と深く結びついたところに神話や宮沢賢治の童話や草野心平の詩は存在している。もちろん神話のみならず文学においても、怨霊や妖怪など架空のものが登場したり、地獄など架空の世界が語られたりする。「注文の多い店」や「蜘蛛の糸」などのように、私たちが日常生活で経験することの絶対無いおおよそ荒唐無稽な物語が語られることもある。しかし、それらは現実の何かを言い表すためのものであって、具体性の世界と深く結びついたものである。具体性の世界との結びつきというものがまったくない単なる幻想は科学とはおおよそ無縁のものである。単なる幻想をもてあそんではならない。科学と非科学との違いを判断するにはよほどの知識と注意が必要だが、かのカール・セーガンが力説したように、非科学はこの世の中を混乱におとしめる。

 

 それでは最後に、中沢新一がその著書「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ氈v(2002年1月、講談社)の中で述べている説明を紹介しておこう。

 『 神話はいつも現実の具体的な存在や事象を離れては、ありえないものでした。神話の素材は五感がとらえる現実ですし、創造の材料となっていたのは、現実の社会構造や環境や自然の生態のことです。神話はそうした具体的な現実から完全に離れてしまわないところで、いわば「つかず離れず」の関係でつくられ、また語られていたものです。』

 


 それではいよいよ南方熊楠(みなみがたくまぐす)の登場だが、

その前に、「身体と脳の学習プログラム」というものを紹介しておきたい。

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