新羅

しらぎ Silla

 

古代朝鮮の国名。356‐935年に及ぶ(図)。〈しんら〉〈しら〉と発音するのが一般的であるが,日本では城の意味を語尾に付して,〈しらぎ〉と呼びならわしている。新羅の建国年次は,中国の文献で辰韓(しんかん)の斯盧(しろ)国から新羅に変わり,慶州で高塚墳が盛行する4世紀後半と見,《三国史記》によって奈勿(なもつ)王の即位年をあてた。この新羅建国期は六部(ろくぶ)の統合により貴族連合体制が成立する時期でもある。一般には,三国時代(356‐676)と統一新羅時代(677‐935)に大きく二分するのが普通であるが,斯盧国時代を含めた新羅の時代区分をすれば,表のようになる。

 

 

【日本との関係】

 

新羅地方と日本列島との住民の交流は歴史以前からあり,3世紀には貿易や小国間の外交もみられる。以下,前述の時代区分に対応して言及した両国の交渉史を通観しておく。

新羅・大和両王朝の国交は,6世紀前半ないし中葉から,新羅の加羅地方進出に関連して開始された。しかしこの時期はまだ口頭外交で,その内容を正確に知ることができない。

 

国書を交換する外交は621年から始まるが,この時期は主として大和王朝が新文物を新羅から導入しようとする文化外交であった。

新羅は645‐656年に積極的な対日外交を展開したが,その後,統一戦争のため667年まで国交を途絶した。

この間663年には,日本軍が百済復興軍を助けて出兵し,白村江で新羅・唐連合軍と戦って敗れた(白村江の戦)。

 

671年以後,新羅は対唐戦争に対処するため,対日外交を積極的に推進し,支配下に入った高句麗,百済,耽羅(たんら)(済州島)の使者をも日本に派遣した。しかし日本は複雑な東アジアの国際政治に介入することを好まず,新文物導入の文化外交を主としていた。新羅の対日外交は,協調的であったが,日本に対する警戒心はきびしく,文武王の遺勅(681)では,東海の竜神となって日本軍の侵入を防ぐといっている。また722年には日本軍の侵入を防ぐため首都慶州の東に毛伐郡城を築いた。735年新羅は唐との国交が修復すると,日本に対し対等外交を要求したため,両国の外交がしだいに疎遠となり,779年以後国交は途絶した。

 

 8世紀に入ると日本との貿易がしだいに盛んとなり,8世紀の中葉には日本の貴族が新羅の奢侈品を購入するため,一度に綿数万屯を支払うほどであった。

 

9世紀中葉,張保皋は博多に支店をおいて対日貿易に従事し,東アジアの貿易を牛耳っていた。

 

一方,新羅末期の国家体制の動揺を反映して8〜9世紀には,多数の新羅人が関東地方などに入植し,先進的な農業・牧畜技術などを伝えて日本の社会や文化に影響を与えた。 

 

                                                井上 秀雄

Iwai-Kuniomi