日本的集落の構成原理

 

 

 先に述べたように、歴史と伝統に裏打ちされた陰の「場所」と科学文明に裏打ちされた光の「場所」の組み合わせ、それがこれからの国づくりに求められている。私達は、これから、光と陰の生活空間を生きなければならない。そして、それをそのままそっくり、わが国の観光資源にしなければならない。これが私が提唱する「劇場国家にっぽん」の基本的な考えである。

 これからの国土づくりは、光と陰の生活空間づくりでなければならない。私達は、そういう光と陰の生活空間の中で生活し、鋭い感覚を磨くとともにひっそり吐息を秘そめるような穏やかな感性をも磨かなければならない。グローバルな市場を戦い抜く鋭い感性と世界平和をリードする穏やかな感性を、私達日本人はともに磨かなければならないのである。そして、そういう生きざまをそっくりそのまま世界の人々に見てもらわなければならないのである。それが私がいうところの「劇場国家にっぽん」であるが、それはとりもなおさず中沢新一の目指す「モノとの同盟」でもあると思う。それをこれからの日本の国是としなければならない。

 

 さて、これも先に述べたところであるが、園田稔によれば、本来、わが国の「マチの構造」は、通常の日常的な生活空間のほかに、「鎮守の森」や「里山」というような日常的ではあるが非日常的な生活空間から成り立っていた。日常的ではあるが非日常的という意味は、お祭りとか山菜取りとか非日常的な生活形態の「場所」であるので非日常的、しかし行こうと思えば容易に行くことができるので日常的・・・という訳だ。ところが、近代の都市化によって、そういう「マチの構造」がすっかり崩されてしまった。これからの町づくりには、そういう「鎮守の森」や「里山」というようなコスモロジー(宇宙との響き合い空間)を考えねばならないが、都市では現実になかなかむつかしい。したがって、私は、園田実も言っているのだが、流域単位でそういう「鎮守の森」や「里山」に代わるコスモロジー(宇宙との響き合い空間)を作らなければならないと考えているのである。本来は日常的な生活空間に持つべき「鎮守の森」や「里山」を、それぞれの流域単位に日常的な行動範囲を広げて考えていこうではないかという訳だ。いずれにしろ、私たちは、そういう日常的な「場所」で、厳密な言い方をすれば日常的ではあるが非日常的な「場所」で、「歴史と伝統に根ざした精神文化のその奥ゆきを生き、陰にかくれたひそかなリズムに耳を傾けて、鋭い感性を磨かなけばならない。」・・・のである。園田稔の永年にわたる研究は、これからの町づくり、地域づくり、国土づくりに大変重要な示唆を与えている。以下、園田稔の研究の要点を次ぎに紹介しておきたい。園田稔の「マチ――日本的集落の構成原理に関するエッセイ」(季刊悠久第83号、鶴岡八番宮悠久事務局、平成12年10月)からの抜粋である。

 

 園田稔は、そのエッセイの中で「明治以来の都市計画のなかに、はたしてどれほど日本在来の集落形成への配慮があったのか」と述べているが、都市計画に限らず、明治以降わが国は欧米先進諸国に負けないよう近代科学文明の吸収に力を注ぎ、近代化の道をひたすら進んできた。そして現在があるのだが、その行き過ぎに反省すべき点がないではない。園田実はこう述べている。

「第二次大戦後の焦土と化した都市の復興にも更に強まり、今度はアメリカ風のもっぱら産業経済の効率化のみを追求した無機的な都市改造が推し進められて、今では国内どこの都市をみても、およそ無表情なコンクリート・ジャングルやヒート・アイランドばかりの羅列と化してしまっている。そこには、それぞれ土地の風土に根付いた個性的な景観を活かし、伝来の地方色豊かな町衆文化を更に高めることで、おのずから住民の文化的な帰属意識を高めるような配慮が少しも感じられない。要するに、いわゆるグローバル化を至上とするアメリカの資本主義文明を上質の文化とはきちがえて、日本の大都市がますますアメリカ化しつつ文化的個性を喪失してしまっている。およそ文化とは永い歴史風土に培われてこその伝統的個性のものである。たとえ経済が破綻しても民族は滅びないが、文化を喪失すれば民族は滅びてしまう。自動車や電話がグローバル化するように、情報言語に便利だからといって日本語を英語にすげ替えるならば、日本文化が破壊され、日本人の国際的自負も失われよう。

 国内の大都市がますます文明のグローバル化を強めるなかで、それに立ち後れる地方の小都会が辛うじて伝存してきた文化的個性を今や逆手にとってマチおこしの武器にし、大都市民が見失った生活共同の潤いと魅力を発揮しようとしているというのが、現今の実情ではあるまいか。」

 21世紀に入り近代科学文明の世界化が問題になってきている今日、日本古来の精神文化にふさわしいコミュニティづくりが重要だとする園田稔の研究は実に貴重である。そもそもの発想は柳田国男まで遡るらしいのだが、私は、この園田稔の研究を十分取り入れてこれからの町づくりの原則を固めなければならないと考えている。大畑原則というものも誕生しており、世界におけるサステイナブル・コミュニティの動きも視野に入れながら、今こそ、私は、わが国らしい町づくりを推進しなければならないと考えている。以下は、園田稔の「マチ――日本的集落の構成原理に関するエッセイ」(季刊悠久第83号、鶴岡八番宮悠久事務局、平成12年10月)からの抜粋である。

 

 

 わたしは、柳田の指摘する経済史的な日本に固有の町の発生因のほかに、もうひとつ遡った日本人の生活史的な文化の要因をも考えてみたい。それが、住民たちの生業や生活を支え、しかも安住の心を満たすべき心象風景たる家郷景観ともいうべき集落形成因である。具体的には、灌混用水の水源とも狩猟採集の資源ともなる里山や奥山が、また神々や祖霊が鎮まる霊性の世界でもあって、その象徴的な延長なり派生が集落に接する〈鎮守の森〉だという、今でもなお全国の古い集落の村や町にほぼ等しく見出だされる景観に着目してみたいのである。

 かつて農村工学の神代雄一郎は、日本の風土や文化にふさわしい農村のコミュニティ原理を発見するための実態調査を積み重ねるなかで、中国大陸や欧米に広く営まれてきた「広場村」つまり集落の中心に公共的な広場をもつコミュニティとは極めて対照的な「街村」、つまり一本の道路の両側に家並みが連なるという、彼が「紐状集落」と名付けた集落形成が日本の農村にほぼ共通する特色であることを見出だしたが、さて彼が当惑した点は、この街村を住民たちのコミュニティたらしめる公共の中心がどこに発見されるかということであった。近年しきりに国内各地で発掘される弥生時代の環濠集落も含めて大陸的な広場村であれば集落中央に共同の広場があって、現存する史的形態ではそこに集会のホールや神殿ないし教会の施設が歴然とコミュニティの中核を明示するが、彼のいう日本の「紐状集落」には、日本語のムラの語源である家々のムレ(群れ)を成すにしてもそのムラを統合する中心施設がその内部に見当らないことに、彼は当惑したのであった。しかし苦心の末に神代がこの当惑を解消した結論は、村の背後にいずれも「姿の良い山がある」という命題であった。そしてその山の麓に鎮守の森があって、それが等しく街村の裏手や奥に鎮座する村氏神を構成しているという形態こそが、一見しては家々の群れでしかない農村集落が、それでも村落協同体を実現し保持する文化的な仕組みであることを、神代は発見したのであった。彼が論じるその仕組みとは、まず道路を挟む「向こう三軒両隣り」という六戸の近隣単位があって街村全体が「往還」ともいう表通りを日常的には〈社会経済軸〉にして、外部の他町村とも交流しているが、毎年の春秋などの氏神祭礼には街村の裏手に当たる鎮守の社を通して神体山の神が神興などの行列を成して出御し、集落の「往還」をいわば横断ないし縦断する形でその一角や耕地や或いは川岸や海浜の臨時祭場(仮宮・旅所)に招迎される。こうして祭礼において出現する氏神往復の「神の道」こそが非日常的な〈宗教軸〉であって、この際にこれが〈社会経済軸〉たる「往還」と交錯する地点がいわゆる「ちまた(巷=道股)」ともなって、そこに聖なる「市」が立つコミュニティの中心が出現するというわけである。

 

 

 イチをマチと同義にして両語を言い換える例も枚挙にいとまない。特に近世の農村地帯に盛んであった「日限市」「特に月に三度の三斎市が立つ市場では、三日市、五日市、六日市、八日市、十日市などはいずれもイチともマチとも呼び慣わして地名になる例が多い。交易が盛んな土地では、六斎市が立って月に六度の定期市が立つような集落にはイチバともマチバ、あるいは村方にたいする町方とも称され、やがて常設市として市町を名乗るようになった。しかもそうした市町や市場町は近くの有力な神社の門前市に由来しているか、あるいは市場の一角に市神を祀って市の安全や繁栄を祈っている例が多いが「いずれにせよイチがマチであることは、ムラにとってのマチがすなわちマツリという祝祭の非日常的な時空間であって、人心が沸き立つような賑わいと交易や芸能が盛んに営まれるコミューナルな現象世界であることを意味している。日本語の二分範疇を使うならば、日常のケ(褻)の状態にあるムラ社会が時に非日常的なハレ(晴)のイチやマチの状態の実現をめざすことになる。その意味で、マツリは本来ムラのマチ化を指すのであって、それが盛んで力強いマツリであればあるほどムラに活気あるイチ化やマチ化をもたらすことになる。

 

 

実はもう一つ言及すべき大事な論点がある。それは、柳田が「町と称しながら三方里五方里の大地域を含み深山を含む」といゝ、また神代が村の背後に「姿の良い山がある」といったように、日本の集落構成には周囲の自然風土や景観がコスモロジーとして参入してこそ家郷性を帯びたコミュニティが完成するという原理である。別に言いかえれば、古来日本人の神聖な秩序観念には、日常的なコスモロジーの中心を人工的な生活世界の中央に見える形で求めるのではなく、むしろ生活世界の「奥」ないし「源」とも言える周縁的に隠れた形に求めるという傾向が強いのである。そのことは、たとえば国語学の阪倉篤義など近年のカミの語源論の成果にみるように、日本語のカミには本来的に水源の山谷にひそむ隠れた生命的霊性を指す意味がある。偶像など形を見せぬ神霊は、豊かで清浄なカムナビ(神山)やモリ(杜)、ヒモロギ(神樹)やイワクラ(神石)などをヨリシロ(憑代)にして宿る精霊であって、里宮である神社も普段は深い鎮守の森こそが祭神が奥深く鎮まることを暗示する。

 

したがって村が町になり都市になって結果的に神社が市街地に囲まれても、基本的には鎮守の森深く鎮座する形で日常的には森の自然に籠もるという様式は変わっていない。そして住民たちは、大陸的な都市集落のように都心に天高く費える大聖堂の威容に安心するのではなく、むしろ周辺風土の豊かな自然の霊性を鎮守の森に迎え人れているというコスモス的な「奥」ないし「本源」という形象に、家郷としての精神的安定を得てきたことを見逃すべきではない。

 

 この点については、建築学の榎文彦や上田篤が都市の路地裏の神社や鎮守の森の意義に関連して論じてきたが、近年ではフランスの地理学者オギュスタン・ベルクが彼の邦訳書『空間の日本文化』(昭和六〇年)のなかで「奥」や「裏」を日本的空間の特性として本格的に論じている。

 とにもかくにも鎮守の森が、日本的集落のコスモス的座標として、しかし集落の中央を占めるのではなく集落の周縁にその「奥」を構成し、しかも背後の住民生活を支える霊的な風土をも表象するという、いわばコミュニティ文化としての家郷の造形は、明治以来の都市文明化の大波にほぼ埋没してしまったかに見える。

 

 

Iwai-Kuniomi