私は先に、高橋富雄のすぐれた著書「徳一と最澄・・・もう一つの正統仏教」(中公新書、1990年6月)にもとづいて徳一と「いわき長谷寺」との関係を考察してきた。そして、高橋富雄の徳一研究の神髄として次のような彼の言葉を紹介した。
つまり、『 徳一根本所依の霊山が、いずれもこのような、庶民信仰の山としてあったということは重要なことである。そのような仏教以前の神信仰を踏まえ、これと融合・習合していったからこそ、徳一は信仰の辺主になりえたのである。しかしまた、徳一のような理性神に媒介されての民間信仰だったために、かれらもまた、このきびしい教主を大師とも菩産とも仰ぎ続けることのできる聖信の人たちたりえたのであった。』・・・と。そして、私は、次のように述べた。『 このことについては、じっくり勉強しないと何を言っているのかよく判らないと思う。おいおい時間をかけて勉強することとしたい。まずは、高橋富雄の著書「徳一菩薩・・ひと、おしえ、がくもん」(歴史春秋社、2000年7月)をひも解き、徳一が歴史的にどういう位置にあるかを明らかにしたい。前に述べたように、中沢哲学を始め、新しい哲学によって、唯識哲学や華厳哲学の再整理が行なわれ、高橋富雄の見解を参考に、徳一が晩年目指したものの近代化がなされれば、仏教に新たな息吹が吹き込まれるに違いない。それが世界平和に役立つ。きっとだ!私は確信をもってそのことが言える。しかし、ことは誠に重大であるので、急いではならない。じっくり時間をかけて勉強することとしたい。まずは、高橋富雄の著書「徳一菩薩・・ひと、おしえ、がくもん」(歴史春秋社、2000年7月)を勉強しよう。』・・・・と。
それではいよいよ高橋富雄の著書「徳一菩薩・・ひと、おしえ、がくもん」(歴史春秋社、2000年7月)を勉強したいと思う。以下は、緑書き以外は高橋富雄の原文のままである。緑書きは、私が、私の読みやすいように高橋富雄の文章を修正又は註書きしたものである。高橋富雄の言いたいことが若干伝わらなくなった部分もあるかも知れないが、大筋は変わっていないと思う。「読みやすさ」を重視した修文である。でも、以下の文章の全部を一気に読むのは結構大変かと思う。いずれ会津や筑波など徳一ゆかりの「場所」を旅しながら、いろいろと徳一を語っていきたいと考えている。したがって、この際は、以下の文章にさっと目を通しておいていただくだけでありがたい。
第1部 伝記徳一(ひと)
1、伝記から学ぶ
第1部 伝記徳一(ひと)
最澄と空海は、南都仏教(奈良仏教)を批判して、平安新仏教を創設した偉大な宗教改革者であったことはいうまでもありませんが、徳一も最澄と空海に並ぶ偉大な宗教改革者であったと思われます。徳一は、旧仏教の法相宗の内側にあって、一方には新仏教を反批判して南都仏教の正統を擁護するとともに、他方においては、旧仏教が新仏教に優るとも劣らぬ「真正改革」を推し進める使徒として、活躍したのでした。
南都仏教から平安仏教への変革期にあって、「断絶」と「連続」、哲学にいう「非連続の連続」という命題を一身に担ったのは、この「法相学僧」にして「東国化主」でもあった徳一その人でなかったかと思います。(註:化主はケシュと読むが、ここでは東国で実践活動をした教祖的な要素をもった高僧というような意味合いで東国化主という言葉が使われている。)
「都市仏教の改革」を目指すのでしたら、思い切って、帝都はもとより、畿内からもその周辺からも立ち去って、都的なものを一切断ち切って、遠国(おんごく)の鄙(ひな)(田舎・地方)の人になり、「山の僧」に徹するということでないと、真の改革、つまり革命になりません。これをやったのが徳一です。
もう一度申し上げます。徳一は、「都市仏教からの離脱」を目標とした平安仏教の「山岳志向」としては、もっとも徹底した改革者だったのであります。
ところで、天平のころ、法相宗の大徳に神叡(しんえい)という僧がいて、大和国吉野山の比蘇山寺に籠り、「虚空蔵求聞意持法(こくうぞうぐもんじほう」(虚空蔵菩薩を念じて仏智を体得する修法)を修して、仏法を原点に立ち戻らせる行を積み、これが南都仏教における一つの流行をなして、「比蘇の自然智宗」と呼ばれていたという。すなわち、徳一や空海のころすでに法相宗を中心に「山岳仏教」の芽が出ていたのであります。若かりしころ、四国の深山幽谷をめぐって、「虚空蔵求聞持法」の行を積んだ空海の行道は、実は南都仏教ですでに道を開いていたものの継承、発展だったのです。
徳一の磐梯山や筑波山での修行がどういう形のものだったかはよくわかりませんが、のちに徳一を修験の祖のように伝えているところからすれば、その行者徳一の風貌が求聞持法修法の空海のそれに似通ったものになることは疑いありません。
南都には、いわゆる「南都六宗」(三論(さんろん)・成実(じょうじつ)・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)・律(りつ)・華厳(けごん))のほかに、律宗を伝えた鑑真(がんじん)が伴せ伝えた天台宗、その他、空海が伝える新密教(みっきょう)以前の「古密(こみつ)」(「雑密(ぞうみつ)」、さらに中将姫伝説にかかわる「当麻曼荼羅(たいままんだら)」で知られますように浄土教の経典などもすでにそろっておりまして、大まかに見れば、平安仏教のお膳立ては、ほぼ出揃っていたのです。
奈良仏教が、その見えない手で用意した未来への糸口は、最澄・空海・徳一、三人三様でした。
最澄は、壮大な華厳哲学を用意した「鍵鑰経典(キー・キャノン)」として、鑑真将来の天台宗を捉えました。
空海は、南都六宗の側に昼行灯(ひるあんどん)のように瞬いている雑密の中から真密を選び取りました。
徳一は、法相宗が始祖・世親(せしん)から「唯識(ゆいしき)」という理論ばかり学び取っていた伝統を去って、「浄土論」の著者として、浄土信仰の考案者でもある世親の原点まで立ち帰り、「東北化主」の道を歩いたのです。すなわち、三乗(菩薩・縁覚・声聞)というの出家道としての救いに対して、在家の人たちが、在家のままで救われる道を説きます。すなわち、徳一は、「人として救われる道」(註:地獄の苦しみから逃れる道)と「天上まで上る道」(註:極楽往生する道)を説くことになります。それが人乗(にんじょう)・天乗(てんじょう)とされているものです。そのために、徳一は「菩薩」と崇められ、それでもおさまらないで「大師」とまで尊称されることになるのです。
どうもこの点が高橋富雄の最終的に辿り着いた徳一に対する評価であろうかと思われます。徳一は、筑波において神仏習合の今までにはない新しい仏教を実践していきますが、この段階で徳一の影響は筑波、会津、いわきにとどまらず、関東の中枢部(鎌倉)に影響を与え始めたのではないかと思われます。神仏習合のはしりは日光や箱根とは切っても切れない関係にある・・・かの勝道上人ですが、神仏習合をわが国の本格的な道筋をつけたのは徳一ではないかと私は思っています。神仏習合というのはもっともわが国の国情にあった信仰形態だと思います。それを壊したのは明治政府ですが、明治の国家神道ではなく、わが国古来の神道にやはりもういちど帰る必要があるのではないかと思います。徳一の目指した神仏習合のような形態になるのかどうかは判りませんが、今後、世界に通用する新しい信仰形態をわが国は生み出していく必要があるのかも知れません。新しい宗教ではありません。いろんな宗教を認めたまま、そのままということですね、そのまま複数の宗教を信仰するという信仰形態がこれからの世界に必要なのではないでしょうか。キリスト教と仏教の共存、イスラム教と仏教との共存、キリスト教と神道との共存、イスラム教と神道との共存などなどです。そういう姿が日本のあちこちで見られるというのは実に楽しいことではありませんか。このようなことまで視野に入れて、高橋富雄の上記の徳一観を評価して良いのではないかと思われます。
しかし、実は、私としては、徳一の歴史的評価のもう一つの側面は、奈良仏教というか・・・唯識すなわち伝統的な仏教哲学を最澄の激しい攻撃から防御したことだと思います。唯識は新しい科学技術によって新たな発展をする可能性を持っています。その唯識を守ったのが徳一です。徳一と最澄の「三一権実論争」については、一応、横川僧都・源信によって決着がついたとされていますが・・・・、果たしてそうでしょうか。私は、科学技術に裏打ちされた新しい唯識論によって、或いは中村雄二郎や中沢新一などの新しい哲学によって、「三一権実論争」の評価をやり直さなければならないのではないかと考えているのです。これは世界平和のためにどうしてもやらなければならない作業ではないかと思うのです。そういう考えを私は持っていますが、ここでは高橋富雄の徳一論を進めなければなりません。
ところで、「三一権実論争」の「権(ごん)」は方便という意味であり「実」は真実という意味であります。ですから、私が思いますに、三乗という考え方が法華経のいうように一つの方便であって真実は別のところにあるというのは間違いであって、唯識の考え方からするとあくまでも三乗が真実であると思います。したがって、私の考えでは、「三一権実論争」という言い方でなく、「三一論争」という言い方の方がいいと思います。以後、私は徳一と最澄の論争を「三一論争」と呼ぶことにしましょう。横道が過ぎました。さあそれでは、高橋富雄の「徳一と最澄・・・もう一つの正統仏教」(中公新書、1990年6月)に戻りましょう。
これは、奈良の「正統教学」としての法相宗学としては「改革派」ということになります。天台や真言からのゆさぶりに対する「法の砦」としての徳一が、法相にとって救世主でしたから、この「改革法相」は黙認されたものの、平時でしたら、最澄・空海同然の「異端」となるものでした。徳一は得一だろう、得一は、『老子』の窮極の道たる「一」を得ること、徳一は、その「一を得る徳第一の者」の意味――そんなことが、いろいろと言われています。
中国では、道教と融合した仏教のことを「格義(かくぎ)仏教」と言いますが、「徳一菩薩道」としての人天乗仏教は日中を通じて、最も筋の通った「格義仏教」ではないかと思います。(註:人天乗すなわち二乗(人乗と天乗)とは、在家の人(修行僧でなく一般の人)が地獄の苦しみから逃れる方法と極楽往生できる方法、この二つの方法があるということで、徳一はその実践活動をしたにちがいないと高橋富雄は考えている。私も同感である。私は、その結果的な姿というが・・・神仏習合という信仰形態であると思う。)
『真言宗未決文(しんごんしゅうみけつもん』を通しての真言密宗との対決も、かなり緊迫しておりまして、「三一権実論争」の再来を思わせる面もあったのですが、これはそれほどの修羅場(しゅらば)を見せないで、引き分けた格好になっています。問題は深刻で、禍根(かこん)は後世長く残りますが、それは「空海後」のことです。空海が生きている間は大事に至らなかったのです。それというのも、空海の「優雅な処世術」、意地悪く言えば「老獪(ろうかい)な微笑外交」が最悪の事態を回避していたからです。
その空海の「優雅な微笑外交」が、都の春風に乗って、徳一宣教の国会津に、花のたよりを伝えるかのように、心地よいメッセージをもたらしたことがあるのです。推定弘仁六年(八一五)四月五日付空海書簡が、惠日寺の徳一のもとに届けられたのです。
その全訳文を、まず掲げておきます。
インド僧摩騰(まとう)が、後漢(明帝永平七=六三年)に来遊することがなかったならば、中国の人たちは、長く仏教の妙音を聞くことがなかったろうし、康居(こうきょ)国の康僧会(こうそうかい)が呉(ご)国(赤烏(せきう)十=二四七年)に来て、仏法を伝えることがなかったならば、この南方中国の人たちも、永久に無縁の衆生になり終わっていたことでしょう。
承るところによれば、徳一菩薩、御房もまた同じように、戒行すぐれていること、磨き上げられた玉のように光り輝き、博識・広智また鏡智のごとく澄明と、拝聴いたしております。
富貴を離れ、頭陀僧(ずだそう)となって都を離れて、地方教化の旅に出、法杖(じょうほう)をつかれて東国に向かわれました。東国の地に仏法の旗幟(はたじるし)を立てられたのは、貴僧がはじめてです。東人(あずまびと)たちが仏法に開眼(かいげん)するのも、この時からです。
まことに釈尊の尊い慈悲の月は、これを映す水があれば、どこにもその影を映し現すように、御房の菩薩行(ぼさつぎょう)もこれを全くひとしくして、ところとして、到らざるはないさかんな有様です。
まことにありがたいことです。よろこばしくおもいます。
さて、この空海、大唐中国に留学して、真言秘密の法門を学習し、その経典も携え齎(もた)らしたのですが、残念ながら数は多くなく、広く国内に流布するに至っておりません。そこで、多くの方々の結縁(けちえん)を得て、その合力によって、これを書写し、弘布し発揚したいものだと念願しております。
そのため、この弟子康守(こうしゅ)を、貴房おいでの東国の地に派遣することにいたしました。幾重にもお願いするのですが、この仏道弘通の為を思うて、ご援助賜わり、小子の願いを叶えていただけますなら、幸いこれに過ぎるものありません。詳細は別記に譲ります。
貴僧と拙僧と、居所遠くして、雲樹(うんじゅ)親しく交りを結ぶこと叶わず、さりとて、なんとしても昵懇(じっこん)を賜りたい至情、何人も拒み能わぬものがあります。風の便りにでも接することがあればと願っています。謹んで申し上げました。意を尽くしません。
四月五日 沙門空海謹上
陸州徳一菩薩御許へ頓首
名香一包お送り申上ます。軽少ですが、誠の心お汲み取り下さい。査収賜れば幸甚です。
重ねて頓首再拝
初対面です。しかも大事な写経の協力を依頼するという用向きがあります。自然、鄭重に輪をかけたようになって、もともと美辞麗句型の文章が、外交辞令にいっそうの磨きをかける結果になっていることは否めません。
にもかかわらず、「この人」に「このような人」として見出されたことは、歴史徳一としても感謝だったでしょう。質実型の徳一はモジモジしながら聞いたかもしれません。
その徳一が『真言宗未決文』を書いて、この空海を敵にまわすというのは、よくよくのことです。「大義、親を滅す」というところでしょう。空海は『秘密曼荼羅付法伝(ひみつまんだらふほうでん)』(『広付法伝(こうふほうでん)』)というものを書き、その中で、十一箇条提示された疑問の中の一つ「鉄塔疑(てっとうぎ)」というものに答えました。しかもサラッとです。本気になって扱おうとしなかったのです。このことについては、拙書『徳一と惠日寺(1975年)』が相当詳しく述べておりますから、ここでは割愛いたします。空海の側ではいろいろと論じてはいるのですが、徳一の一分のスキもない正眼の構えに、聡明な空海が勝負を避けて、徳一の独り相撲にさせたというのが真相でしょう。
最澄と徳一、二人は「不倶戴天の敵同士」として歴史に登場しました。「生きることは戦うことである」"vivere est militare" という格言があるのですが、二人は何かそのような、根源的な「他者(ダス・アンデレ)」として向き合わされているのです。
わたくしなどの目には、「三乗か一乗か」(乗は悟りに至る道を乗り物にたとえていう。声聞・縁覚・菩薩の三乗の別があるとするのが正しいか。菩薩乗一道に帰着するとするのが正しいか。三一権実の争い)の論は所詮、相対の問題であって、絶対の議論は、その三乗と、捨て去られた他二乗(人乗(にんじょう)・天乗(てんじょう))との間、悉有仏性(しつうぶっしょう)(註:人は誰でも仏心を持っているという考え)と無性(むしょう)(註:悪人がたえないのを見ても判るように、人には仏心なんてないという考え)との間にこそあったと思われますのに、この最高頭脳を東西に代表したお二人に、そういう方向への議論の進め方は、全く見られませんで、かなり感情的に、三一権実をめぐる死闘に終始してしまっているんです。
(註:なお、三乗については、先の文章の中でリンクを張っておきましたが、ここをクリックしていただいても結構です。最澄は、 便法として三乗の区別があるのはその通りだが、それを通り過ぎたところに本来の一乗があるとかんがえていたのか、或いは本来的には三乗を統一した方法があると考えていたのか、はた又本来的には三乗のうち菩薩乗だけでいいと考えていたのか、その辺の正確なことは私には判りませんが、おそらく現実的な便法として三乗があるのはやむを得ないとしても修行僧はみんな本来的には菩薩乗を目指すべきだと考えていたのではないでしょうか。そして、最澄は、本来、人間はだれでもみんな、もちろん努力次第だが、菩薩になれると考えていたのではないでしょうか。すなわち、最澄は悉有仏性(しつうぶっしょう)の立場であった。理想主義者だったのです。それに対し、徳一は、唯識にもとづいて、人はそれぞれに個性があり善人もおれば悪人もいる。千差万別だがマナ識により人は誰でもこだわり心がある。本来仏心なんて無いのだ。すなわち、徳一は無性(むしょう)の立場であった。現実主義者だったのです。
なお、ちなみにお申しておきますと、後年、法然と明恵のより激しい宗教論争は、お互いの立場が逆転します。すなわち、法然は、現実主義者であったがゆえに現実の地獄のような状況を脱するためにはどうしても阿弥陀仏の助けを借りなければならなかったのであり、明恵は、理想主義者であったがゆえに釈迦を理想として自力で菩薩の道を歩んだのでした。最澄の系譜である他力信仰は悉有仏性(しつうぶっしょう)の立場であり、奈良仏教の系譜である自力信仰は無性(むしょう)の立場であると思います。)
もしお二人が、純粋にクールに戦っていたら、こうはならなかったのでないかと思われます。どうもここには、ロゴス(理性)だけではおさまらないパトス(激情)のようなものが混線して、議論を熱中させてしまっている感があるのです。こう、と思い込んで命懸けというところがあるのです。そうして「売り言葉」に「買い言葉」の、あまり品のよくない、地獄行きに成り兼ねないような「悪口」「妄語」さえ出てくるのです。論戦が最高潮に達したときの主著の一つ『守護国界章』に、著者最澄が噛んで吐き捨てるように、徳一を痛罵していることばがあります。
わたくしは、この「徳一認識」こそは、最澄の「徳一コンプレックス」だったと考えます。この「コンプレックス」がそのまま深層心理に住みついてこのことばになったのです。その若輩の田舎者に急所々々を突かれる腹立たしさを正当化するパトスの論理が、このことばだったのです。
(註:高橋富雄はこのようにいうのですが、私はそうは思いません。現実に、奈良仏教は腐敗の極に達していて、だから・・・都を奈良から京に移さなければならなかったのであり、徳一の理屈はともかく、最澄は、何としても現実を認める訳には行かなかったのだと思います。)
1、伝記から学ぶ
『今昔物語』の「如蔵尼物語」は「地蔵の助けにより活(よみがえ)りを得たる」「地蔵尼君物語」としても貴重です。惠日寺にはその「如蔵尼墓」と伝えるものもあり、それにも伝承があるなど、今もこの物語は生き続けています。
ところで、化主徳一哲学の柱は、三乗一乗論の外に出された「人乗」「天乗」の二乗論であります。それは「五性各別(ごしょうかくべつ)」の仏性論(ぶっしょうろん)で「無性」とされた娑婆の一般衆生が、地獄・餓鬼・畜生の三悪道をのがれ出てて、真実人間に立ちもどり、最終、天上界に成道することだという考えであります。「如蔵尼よみがえり」そしてその「往生物語」こそは、まさにその「菩薩道実修物語」であり、徳一の考え方を表わしているのではないかと思われます。
『私聚百因縁集(しじゅうひゃくいんねんしゅう)』、その成立は正嘉元年(一二五七)ですから、徳一時代より四〇〇年以上も後のことになります。また伝承記録であって実録でありませんから、一つ一つ歴史事実ということはできません。にもかかわらず、常陸在住のはっきりする一地方僧住信のこの本は、在地に根ついた「徳一伝承記録」として大変貴重なものであります。その関係部分を全文、現代語訳で紹介しておきます(意訳)。
最澄の出現で、日本中は法華一乗の天台宗で持ち切りになりました。その時、宗論(各宗の宗義を討論し合う)があって、諸宗の高僧・長老たちは、こぞって最澄に反対しました。この時、一つの珍事件(ちんじけん)がありました。得一大師という人が、この宗論に参加すべく奥州から上洛(じょうらく)したのですが、その行粧(ぎょうそう)たるや、まったく常軌(じょうき)を逸(いっ)したものでした。奥州から遠路、牛に乗ってのお出ましで、牛の角(つの)の間に机を立て、その道すがら「破天台論(はてんだいろん)」の天台難破の本を書いたというのです。この本は今は行われず、従って話題にする人もありません。
さて、叡山(えいざん)を見上げて言ったというのです、「伝教という小僧は、あの山にいて、(この得一の批判にあうのを)悔(くや)んでいることであろうよ」。そう言った途端(とたん)、口の中で舌が裂(さ)けたということです。それで伝教の名声はいよいよ盛んとなりました。伝教は得一を「麁食者(そじきしゃ)」と名づけました。これは天台の無二亦無三(むにやくむさん)の一乗法(二乗も三乗もなく一乗が絶対ということ)を生(なま)かじりした半可通という意味でした。
そうは言うものの、この得一大師という人も只者(ただもの)ではありませんでした。もとは西大寺(さいだいじ)僧。家をたずねれば、左大臣(ママ)(右大臣または太政大臣)藤原惠美押勝卿(ふじわらえみのおしかつきょう)の四男という歴とした家柄です。嵯峨天皇の勅命を奉じて、弘法大師の順錫(じゅんしゃく)(巡廻して教法を伝える)に随行して、東国に求道の業を重ね、仏法をひろめました。そのおかげで人々は現当二世(げんとうにせい)(現世・来世)の利益にあずかることができるようになりました。
得一が建立(こんりゅう)した伽藍(がらん)(寺院)は、諸国にまことに多いのです。中でも常陸・陸奥両国が目立ちます。奥州会津の石梯山(磐梯山)には清水寺(きよみずでら)を建てました。会津大寺(あいづおおてら)というのはこれです。大同元年丙戌(ひのえいぬ)の年、平城天皇九(ママ)年にあたります。その時から、今この本を編んでいる正嘉元年(一二五七)丁巳(ひのとみ)の年まで四五〇年余りになります。
その時に、その清水寺を弟子の今与(こんよ)(金曜)という者に授けました。そして、一首の和歌を詠みました。「縁(えにし)あれば、我また今与(来んよ)石梯の、山の脚(ふもと)の清水の寺」。今日ではこの寺を惠日寺と呼んでおります。
それから常陸国に出て、中禅寺(ちゅうぜんじ)(筑波山寺(つくばさんじ))を建てました。その他、諸所に建てた寺々のことは、一々(いちいち)詳しくのべることはできません。
得一の遺徳の残る寺々では、必ずその利益は霊験あらたかです。ここにおまいりして頭を垂れる者は、きっと現当二世の願いをかなえてもらえます。それはあたかも、響きが声に応じ、影の形に従うように、所願かなわないことはないのです。末代の今日といえども、得一建立の寺には、雀も入らないとされているのです。得一大師という方が尊い仏の権化(ごんげ)としてこの世に生まれかわられたものであることを、だれが疑いましょうか。
ある説に、得一は修因(ママ)(修円)和尚の正嫡の弟子だとも言います。大和国の神野山で修行している時、天(神)のお告げを受けて、東国に修行に下るようになったとも伝えています。
以上がほぼその全文に近いものです。
これから後の徳一は、この線の、この流れの中で語り継がれて今日に至っているのです。その中味はかならずしも正確な事実を伝えているとは限らず、むしろ「伝説的」とか「物語的」と考えるべきでしょう。しかし、実にそこのところに「歴史の真実」が秘められているので、あながち「伝説的」、「物語的」だと言って切り捨てる訳には行かないでしょう。ここでは空海の東国巡錫が語られ、徳一はそのもとで修行したことになっています。もちろん、これは事実ではありません。しかし、私などは、かえって、空海巡錫伝説と、徳一開基伝承との調整に苦心している跡がありありとうかがわれることから東国の徳一に対する特別の想いというものに共感を覚えざるを得ないのです。私は、『百因縁集』物語にかえって「虚構の真実」に通うものを読み取らないわけにはいかないのであります。
『神明鏡』も『百因縁集』と同じように、厳密な意味での歴史記録ではありません。しかし、「おらが徳一信仰」においては、二つ相並んで、古典的歴史としての役割を果してきたのです。わたしたちは、こういう民間伝承の語部たちの歴史から、「もう一つの真実」を聞き取る歴史学も持たねばならないのです。
徳溢大師は、(藤原)内麻呂(ママ)(仲麻呂)惠美押勝という人の子です。法相学僧でしたから、南都(奈良)においでになりました。春日の神も鹿島の神も、法相宗をお守り下さる神であるので、その鹿島の神の擁護(ようご)を頼んで、常陸国に下り、筑波山に四八か所の霊場を建立なさいました。そのほかにも国内に数十か所の霊場を建立されました。本尊は多く観音像もしくは薬師像でした。中でも長谷寺は、平城天皇勅願寺と号し、大同二年(八〇七)丁亥(ひのとい)年の建立です。
また、奥州会津にも、観音を本尊に、清水寺を建立、磐梯大明神を鎮守といたしました。その時の歌。「縁あれば我また金(こん)と磐梯の山の麓に清水の寺」。いははし、というのは磐梯大明神のことをいいます。その寺号は、今は改めて、惠日寺と号する、と言っているそうです。
さらに、同陸奥国岩崎郡の湯嶽(ゆのたけ)に観音堂を建立、観音像を安置、供養の寺規(じき)を制定なさいました。そして、戒定慧(かいじょうえ)三学の三つの箱を、この山に奉納いたしましたので、この湯嶽の山は三箱山(さばこやま)と呼ばれました。この山の麓の湯も、それにあわせて、三箱(さばこ)の湯(ゆ)と言いならわすようになったのです。
徳溢大師は、大進西明寺というところに入定(にゅうじょう)なさいました。今でも、静かな夜には、その入定窟(にゅうじょうくつ)から、鈴の音が聞こえてくるということです。
『私聚百因縁集』と『神明鏡』での徳一伝説の大きな違いは、前者が惠日寺中心の会津物語を本命としているのに、後者は、惠日寺にふれるにしても、中心がはっきりいわき方面、海道物語になっていること。これが第一点です。第二点は、前者では清水寺、後者では長谷寺が、それぞれにおける徳一根本寺院とされていることです。
「惠日寺」は「慧日寺」として、法相中国第三祖溜州(ししゅう)大師慧沼(えしょう)『能顕中辺慧日論(のうけんちゅうへんえにちろん)』の遺鉢を継いで、「日本慧日論寺」として、法相三乗主義の牙城となることを旗じるしに名づけられたものです。徳一著の『慧日羽足(えにちうそく)』もそのこころです。「慧日寺」の号もそうであれば、徳一時代、錦の御旗としてなければならないことになります。しかし、その「学問寺慧日寺」が最初の本号だったか、それとも「化主徳一寺清水寺」が先の本号だったかは、また別の問題になります。なぜなら、この寺における徳一の宗教活動(アクティヴィティズ)は、化主として始まり、その長い実績の後、三一論争を戦う学僧徳一時代が来るからです。「化主徳一寺」。それは「清水寺」であるよりほかありません。「清水寺は、本性上、惠日寺の先」です。歴史的にもその事実は重く受け止めなければならないのです。『神明鏡』の一番大きな問題点。それは「平城御願」とされている「勅願寺長谷寺」問題をどう考えるか、ということです。
『神明鏡』の中の特筆大書に値する記事。それは「平城御願長谷寺」記事です。徳一根本大寺として自他共に任ずる会津惠日寺、常陸筑波山寺にもこの種の言及がないからです。 確かに常陸国では徳一ゆかりの寺が、筑波山のほかにもかずかず知られています。 このような状況の中で、わたくしは、問題の長谷寺は、陸奥国岩崎郡(現いわき市営磐)長谷寺ではないかと推定しております。所在地には「湯長谷(ゆながや)」の地名もありますが、「長谷(ながや)」は「長谷(はせ)」に由来します。ここには、「徳一開基」を銘記した胎内銘を有する文保二年(一三一八)紀年銘十一面観音像が現存します。
湯嶽は、長谷寺奥院の神山(みわやま)だったのです。式内社佐麻久嶺(さまくね)神を「サホコ(狭鉾)山神」と崇め、その「サホコ神」を「サハコ神」と訓み替えての「戒定慧三箱(かいじょうえさばこ)山」だったのですから、いわき産土(うぶすな)の聖なる神山を護法大明神山と見立ての長谷寺だったこと、磐梯山が磐梯大明神とあがめられて清水寺(惠日寺)の鎮守(というより神という名の仏すなわち権現)とされたのといっしょでした。
「得一」と『老子』が言う時、それは「一を得る」意味です。「一」とは何でしょうか。これは「天地の原理」としての「道」の意味です。この「理」としての「道」が、「用」としてはたらくことが「徳」です。それでこの本は「道徳経」とも呼ばれるのです。
こんな言い方をしますと、まるで儒教と同じように聞こえます。「天の命ずる、之を性と謂う、性に率(したが)う、之を道と謂う」のあの方式ですね。それといったい、どこが違うのでしょうか。
『老子』という本は、その儒教との違いを明らかにするための本です。そこで言います。「道の道とすべきは常の道に非ず。名の名とすべきは常の名に非ず。名無きは天地の始め、名有るは万物の母」。これが「老子事始め」です。聖書に言う「はじめに言葉(ロゴス)があった、言葉(ロゴス)は神と共にあった、言葉(ロゴス)は神であった」というあの言い方にまことに近いですね。
『老子』のこの言い方からしますと、「名として名づけることのできない常道としての天地」、それが「元始」であり、その「名無き元始が、はじめて名を持って万物の母」すなわち「生」となる――そういうことになります。
こうして「一」とは、その「元始の理としての天道」のことです。「万物の母」として「地の徳」になる――そういう文脈(コンテクスト)です。それで、「道、一を生ず、一、二を生ず、二、三を生ず、万物を生ず」になるのです。「哲学」の極地です。
『老子』の精髄を、老荘の徒が自覚した以上の明確な目的意識を以て、わが「人物徳一」は「得一哲学実践者」になっていたということになります。「老子得一」は「名の名とすべき名のすべて」をここで数えていますから「万物の母」を意味しています。すなわち「天地人三才のすべて」のもとづくところを指しています。「得一」は、天が清くなるゆえんです。「得一」は、地が平安(寧)になるゆえんです。「得一」は、人・万物が生あるゆえんです。「人物得一」わが徳一は、この道を求めて「老子学徒」になったのです。
法相教学においては、庶民(在家衆生)の成道(死後の往くべき道)は人乗(にんじょう)・天乗(てんじょう)として、出家者の声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)三乗のような成仏教とは区別され、無仏性とされていたのです。学僧徳一は、その「無性」とされている人たちのための「有性の道」として、この「万物生の道」に学んだのです。その「人乗の道」は「平安に満ち溢れ」(寧・盈)ています。その「天乗の道」は「元始の清」に輝いています。
法相教学の中で否定されていた「無性」を「生」に転じ、人乗・天乗のその成道先を、天地とともに永遠なものにさきわいとるという大きな悲願が、「化主徳一」に、「第二仏道」まさに「徳一菩薩道」として、この「得一の道」をとらしめたと思うのです。
「徳一・最澄論争」の持つ歴史的な意味について、まず島地大等師「徳一の教学について」を紹介しておきましょう。要点は以下の如くです。
この議論は、成仏の方法として、智的方法(徳一の立場)によるか、主意的方法(最澄の立場)によるか、信仰主義(最澄)によるか、道徳主義(徳一)によるか、宗教(最澄)によるか、論理(徳一)によるかというような大体的色彩を分かつものであって、この争の終局は、永遠の修養を必要とする徳一の論理主義が敗れて、直感に絶対の力を認めようとする最澄・空海らの宗教主義が勝ったことである。この思想の転換は、爾後の永き日本の宗教史に於て、哲学と宗教との方面に於ては、殆ど遺憾なき発展を遂げたるも、不幸にして、道徳の方面には十分の発展を見ることの出来なかったという批難を甘受しなければならない。
純粋合理の論理妥当の法相理知主義と、情意直感の飛躍の論理の天台主意主義が対決して、前者が敗れ、後者が勝って、爾後の日本仏教史においては、純理を徹底追求する求道精神が失われて、飛躍直感の総合の論理のみが大乗として重きをなすに至ったということであります。これは大事な点です。徳一は純粋理性を宗教として追及するという崇高な求道精神において歴史的意義をもっていることになるからです。道徳的、倫理的宗教を追求した人、それが徳一といえるのかもしれません。その視点をも加えて、この一大論争をまず巨視的に整理し直しておきます。
(一)徳一「と最澄が論争した「三一権実論争」は、「三乗真実」か「一乗真実」か、「五性各別」か「悉有仏性」かを争う仏教論争として、大乗仏教成立の根本を問うところの第一義論争です。釈迦出世以来の仏道の大分水嶺を、三乗に越えるか、一乗に抜けるかの議論でした。
(二)三一権実の問題は大乗興起とともにインドに始まりました。西域をわたって中国に来たり、中国仏教の最大の課題となりその最終決着のために、半島新羅を経て日本に渡り、徳一対最澄の死闘を生み出したものです。ですからこれは、いわゆる「三国伝来」の全アジア的な世界史のテーマになる思想問題です。
(三)「三乗」は法相宗が代表しました。「一乗」は天台宗が代表したのですが、この点では真言宗も同じです。南都仏教でも、三論宗・華厳宗は一乗派でした。こうして、この論争においては、法相宗が一宗以て奈良仏教の正統を代表し、改革派の新教、旧派の中の新教派とも戦う様相を呈しました。法相が南都正統であることが、この過程ではっきりしました。そして、この論争の勝敗が、南都仏教と平安仏教の明暗を分け、以後の日本仏教の大勢を決することになります。
(四)三一論争・仏性論争は、教学上、教条主義と信仰主義、理性主義と主意主義、厳格実践主義と飛躍直感主義など、仏教上における原理の根本的対立を鮮明に主題化した原理論争として、史上稀有のものです。一乗のみが真大乗、三乗は権大乗(ごんだいじょう)いや小乗的であるという評価が固定化されて、日本仏教はよい意味での合理主義・道徳主義を失っていくことになります。
(五)この論争の一方の当事者、徳一は会津にいました。この世紀の大論争の問題提起は、会津から、都へなされました。その会津僧は南都教学の主流法相宗を代表していました。日本史上、東国が、東北が、日本の学問を代表する、都も地方によって代表されるという出来事はこれまでありませんでした。その成り行きいかんで、日本の心が大きく左右されるという歴史も、前後に類を見ない深刻なものです。
徳一は終始一貫して、法相教義の根本から論じ、唯識の原点から立論しています。従って、先行の中国・インドの祖師・論師を引用し、これに依拠し、同様にして、相手側の天台大師をはじめとする祖師・論師を非難・攻撃することはあっても、わが国における先師・先学に言及することは、全くないのです。
そのようにして、徳一は、中国唐代掉尾(ちょうび)の三一論争。三乗神泰(しんたい)対一乗義栄(ぎよう)(新羅の人)、三乗慧沼(えしょう)対一乗法宝(ほうほう)の論争をまっすぐ継承して、最澄と対決することになります。
真諦三蔵(しんたいさんぞう)(四九九―五六九)は、西北インド、バラモン出身の僧です。万巻の梵語(サンスクリット)仏典をもたらして五四八年、中国に渡来、ほとんど独力で漢訳に従事、鳩摩羅什(くまらじゅう)、玄奘(げんじょう)、義浄(ぎじょう)と並べて、四大訳経家(やくぎょうか)と称せられている人です。龍樹(一五〇ごろ―二五〇ごろ)は「大乗仏教の父」と称される人。諸宗、諸学の太祖と仰がれている祖師です。
「理仏性(りぶっしょう)」「行仏性(ぎょうぶっしょう)」の体系的な理論家は法相教学の大成者、慈恩大師窺基(じおんだいしきき)(六三二―六八二)に待つのですけれども、その原(ウル)理論のはじまりは、遠くこの二〜三世紀交のインドの大乗の父に求られております。
「理仏性(りぶっしょう)」。あるべき本然の仏性(成道の可能性)のこと。聖書にいう「ロゴス」(神性)に近いものでしょう。これに対して「行仏性(ぎょうぶっしょう)というのは、「現実としてある仏性」のことですから、「事実としての仏性」ということになります。「ゾレンとしての(あるべき)仏性」対「ザイン(存在)としての仏性」。そういう図式でしょうか。
インドからの渡来僧真諦は、六世紀半ば中国において、大乗仏教初祖竜樹の理仏性説(真如理性(しんにょりせい)はなお純粋理性(ライネ・フェアヌンフト)というがごとし)に従って、事実問題としては「無仏性」ということもあるとする行仏性説をしりぞけて、「悉有仏性(しつうぶっしょう)」すなわち「一切皆成(いっさいかいじょう)」(すべての人はみな成仏する)の宗義をうち立てた。これが第一提題(テーゼ)の趣旨です。
これに対して、「行仏性」においては、五性各別(ごしょうかくべつ)なのです。声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう)それおれに成道が種子(しゅじ)(可能性)として決定している「定性(じょうしょう)のほかに、そのいずれとも定まっていない「不定性(ふじょうしょう)」と仏性を全く有さない「無仏性(むぶっしょう)」というのが、各別に定まっている、ということになります。「三乗」というのは、この五性の中の「声聞定性」「縁覚定性」「菩薩定性」にそれぞれ対応する成道コースのことで、この差別は、不変・絶対のものだとして、「三乗真実」と唱え、それ故、「悉有仏性」「一切皆成」を唱える一大乗の主張は「方便」だとしたのです。
対して一乗派は「一乗真実(いちじょうしんじつ)、無二亦無三(むにやくむみ)」「二(乗)なく、亦三(乗)なし」と反論しました。それで「三一権実論争」というわけです。
徳一は、ここで、「三乗か一乗か」ということを「五性格別(ごしょうかくべつ)か悉有仏性(しつうぶっしょう)か」という「仏性論」に置き換えていたのです。
三一権実論争の正面の課題は、直接的には一乗真実か、三乗真実かにあるのだから、仏性論は、当面は背後に退くけれども、一乗は、本性上、一性皆成を予想し、三乗はもともと五性各別にもとづいての権実論であるから、原理的には全体を仏性論と言ってよいのである。
わたくしは、学僧徳一の立場をこのように「仏性論」に集約し、法相仏性論は「五性各別論」であることに注意を喚起するのです。そして、みずから、「三一権実論は仏性論でなければならない」とした徳一が、いったい、どのようにその法相仏性論たる「五性各別論」を体系化したかを追及することが、徳一研究の本命だったはずなのに、研究史は果たしてそうなっているのか――そう問い直すのです。
わたくしには不思議でならないのです。法相は、天台・真言のプロテスタンティズムのチャレンジのもとで、原点に立ち帰るルネッサンスが求められていたはずです。それは「元始法相」からの出直しを呼びかけていたはずです。その時、その博識(エルディシオン)を誇った法相学僧たちが、どうして、始祖世親の元始、「唯識論でもある、浄土論でもある」法相原点に立ち戻ることができなかったのかと考えるからなのです。
『浄土論』世親は「世尊(よ)、我、一心に尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)に帰命し、安楽国に生ぜむと願す」と至心発願していたのです。これは「普く諸(もろもろ)の衆生と共に安楽国に往生せん」ことを期しての願生偈(がんしょうげ)です。このためにこの「浄土論」は「浄土往生のすすめ」第一の聖典として、中国で曇鸞(どんらん)(四七六―五四二ごろ)の注釈書『浄土論証』以後、浄土教根本所依の論疏(コンメンタール)とされ、浄土三部経に次ぐ扱いになっています。しかし肝心お膝元の法相ではお蔵入りのまま封印されているのです。しかもこれは華厳経などとの接触のもとに、唯識思想の内側から形成されていったまさしく「識転変(しきてんぺん)」(唯識変革)の「もう一つの法相唯識」だったのです。
法然に浄土宗を、特に親鸞に浄土真宗(『教行信証』に決定的影響を与えたのは『浄土論証』である)などを興させる前に、法相ルネッサンスとして「世親浄土論宗」ということになって然るべきだったにもかかわらず、忠実な有識世親宗徒は、反浄土論世親宗徒に頑固にとどまったのです。
もしここにだれか、ここに「法相源信」「法相源空」なる人が出て、「然り、地獄・天空・皆浄土、有性・無性・斉しく成道」と受けとめても、法相はそれを「異端法相」とすべきでなかったのです。なぜなら、それは「唯識世親的」でなかっただけで、「浄土論世親的」としては、正統世親宗だったからです。
わたくしは、化主徳一の謎に包まれた道を、この忘れられ捨て去られた浄土願生世親道を再発見し、それに結ぶ法相反改革の道と考える見方があって然るべきだと思っているのです。ただ、唯識世親だけを正統として来た法相の伝統が化主徳一を源信にも源空にもさせなかったのです。しかし、その唯識の証明の過程で世親はすでに六道輪廻、特に地獄の虚妄についての根源的反省を加えておりまして、唯識の内側から「識転変」=「唯識改革」への展望は、はっきり開かれていたのです。化主徳一はそれに「歴史現実的(レアル)=理想的(イデアール)」の道を開き始めた人である――私はそう考えます。
(註:ここがどうも肝心のところですが、私は、高橋富雄の見解に半分は同意し半分は反対です。三乗というのは修行僧の修行方法が三通りあるということであり、二乗(人乗と天乗)とは、在家の人(修行僧でなく一般の人)が地獄の苦しみから逃れる方法と極楽往生できる方法、この二つの方法があるということです。三乗に焦点を当ててそのあり方を問題にする場合は「唯識世親的」、二乗に焦点を当ててそのあり方を問題にする場合は「浄土論世親的」、と高橋富雄は言っている。法相宗というのは、在家を相手にせず、修行僧を対象にその修行のあり方を問題にしてきたので、それは世親の考えとは違うのではないか、というのが高橋富雄の認識です。その点について私も賛成です。しかし、唯識というのは、何も修行僧だけを対象にした理論ではなくて、一般の人も含めた心のありように関する理論であります。したがって、「唯識世親的」という言葉の使い方についてはちょっと問題があるのではないかと思われます。
実は、そういう問題があるのですが、その問題は横においても、高橋富雄の認識に大変大きな問題があると思われるのは、源信や法然や親鸞の阿弥陀信仰に対する認識です。阿弥陀信仰には、その根底に、阿弥陀仏のもとで人間すべて平等であるという絶対的な信仰があります。私は、キリスト教やイスラム教などと同じように原理主義と呼んでもいいかと思いますが、阿弥陀仏に対する絶対的な信仰というものはえてして他の宗派を認めない、まあ言うなれば排他的な宗派とならざるを得ないのではないでしょうか。事実、法然は明恵と、三一権実論争を上回る激しい宗教論争をしています。原理主義は妥協を許さないのです。キリスト教もそうだし、イスラム教もそうです。日本人の感覚からすれば、いい加減だと言えばいい加減なのですが、まあ何でなければならないということはない。日本の神は「やよろずの神」ですからね。原理原則にこだわらないのです。唯識というのは、人間そのものに違いがあるので、救いの方法もいろいろあるということを、理論的に明らかにしているのではないでしょうか。
「場」というものは、のちほど、最新の科学にのっとって勉強することになりますが、メディオンとシステムと環境からなっています。メディオンはそもそもマナ識やアーラヤ識によってそれぞれ違いがありますが、システムの違い、環境の違いによって、さらにメディオンは影響を受けて、いよいよ違いは大きくなっていくのです。そのメディオンたちによって人間の心はでき上がっているのです。「場の文化」とは「違いを認める文化」であり、それが日本の本来の文化ではないでしょうか。阿弥陀信仰というのは、日本古来の信仰からすれば、やはり異教だと言わざるを得ないのではないでしょうか。神仏習合こそ日本のあるべき信仰形態だと私は考えます。そして、その道筋をつけたのが徳一だと私は考えています。徳一の神仏習合には密教も阿弥陀信仰も含まれていると考えるべきではないでしょうか。)
私は今にして思うのです、法相は「三乗真実」を以てでなしに、「五乗真実」を以て、「一乗真実」と戦うべきだった、と。
その際、外に「一乗」と戦う前に、まず内に「在家二乗」(人乗・天乗)の主題性を前面に立てて、「出家三乗」(声聞・縁覚・菩薩)との間に、徹底した「三二成否論争」(三乗成道・二乗不成是非論」を行っておるべきだったのです。
なぜなら、「三乗か一乗か」の権実論争は、まさに「第一真実」(実)か「第二真実」(権)かを争う相対論争でしたのに、「前三乗と後二乗の間」の差別の問題は、「絶対の差別」を分ける根源にかかわる問題だったからです。
にもかかわらず、歴史の現実はそう進まなかったのです。法相は、この絶対の差別の論断は「行仏性理論」で手際よく片附けて、これを論外に押し出してしまい、自分の方から論点を三乗に絞って一乗に挑戦したのです。勢、一乗側も、三乗だけを目標にその一大乗論を構築するに至ったのです。法然をして「浄土を判ずることあさし」と評せしめたのは、もちろん、もともとは天台の不覚に出たものですけれども、何分の一かは、相手側法相が、論点を三乗に絞ってきたことにもよるのです。
法相を救うものは、こうして、五乗論に復帰し、失われた二乗道(人乗・天乗)を、五条道の基底に据え、その「回復された五乗道」に見合う「五性論」を再構築することです。それがこれから進むべき2000年ミレニアムの哲学的宗教のひとつの側面であるかも知れません。
「五性各別」「五乗各別」の法相のもとで「各別皆成道」を実現するのです。天台一乗のように無差別の観念往生ではないのです。現実の差別に即して、それぞれ往生の道が具体化されるのです。(註:私は、高橋富雄のこの見解にはまったく賛成です。そうなのです。現実の違いを認めた上で、それぞれ悟りの道を目指さなければなりません。脳と身体の学習プログラムを実践するのです。努力次第ですから・・・・、往生できるかどうかは判りませんが・・・・。)
清水観音も長谷観音も、民俗のこころがみほとけにしたものです。そのこころは、観音によって、信仰のかたちを与えられたのです。かれらは、その信仰の広場の鎮守の森に、この「文化の神」を勧請して、その「産土の神」にめあわせて、あたかも夫婦神(めおとがみ)でもあるかのような神仏同体の信仰形式をとったのです。
はじめに「神山(みわやま)」がありました。そこには「石座(いわくら)」と呼ばれる「神座(みかぐら)」の石境(いわさか)(聖域)があって、そこに天上から神が地上に降り立たれる御座所がありました。そこは「聖なる祭場」「斎(いつ)きの広場」になります。村人いや国人はみなここに集うて、神を迎える行事を執り行いました。後に「国祭」と呼ばれるものです。
祭りは村のまつりごとはじめです。国まつりごとのハイライトです。この神が、田の神、作の神、福の神となって、村中・国中を巡幸なさって、七福をさずけてくださるのです。天にお帰りになるのも、この山からです。お送りする時も、村人・国人総出の祭になるのです。
大事なことは、彼らの祖先の霊が、平素この神山の守り神になっていて、天神の来往巡幸には常に伴っていることです。神山は祖霊の山として、「天上からの道」と「天上への道」を媒介していたのです。
その神山が、今や化主徳一が斎(いわ)鎮めるところとなって、天上界と人間界とを、「里から山まで」は「人乗道」、「山から天界まで」は「天乗道」として、まっすぐ開道し、はき清めることになったのです。
「山岳仏教」。「神仏習合」。「修験道」。そんなふうなことばで、何となくわかったようでわからない。この「混沌(カオス)の宗教の森」にも、この「化主徳一の宗教」は、かなり確かな栞として役立つのではないかと思います。
「得一」は「一を得る」だが、「徳一」は「徳、一なる者」の義だというふうに言いました。しかし「徳を一にす」というふうな言い方もあることを考え合わせますと、確かに「徳一菩薩道」は一大乗の世界になります。
「得一」。「一を得た者」です。
「徳一」。「得を一にする者」です。
「徳一」。「徳、一なる者」です。
その「一」が老荘的か仏教的か、「徳」は儒教的か仏教的かなどということは、学者たちの間でのことです。「おらが徳一」においては、それらが「すべて一なるもの」であるが故に「徳一菩薩」なのです。
徳一菩薩の声、それは山々の呼び声であり、はるか太古からの呼び声であるのかもしれません。私たちは、徳一菩薩の声を聞き、山々の声を聞き、そしてはるかなる太古からの呼び声に耳を傾けなければならないのではないか。そうすることによって中沢新一の言うところの多層性の感受性(「チベットのモーツアルト」中沢新一、せりか書房、p42)を養うことができるように思う。
以上である。以上が高橋富雄の徳一論である。この高橋富雄の徳一論は、徳一の仏教哲学と古代信仰の結びつきを良く説明できていると思う。私も高橋の見方とまったく同感である。私たちは、徳一菩薩の声をもっと聞かなければならないと思う。徳一菩薩だ。
徳一の歴史的価値はいうまでもなく最澄との「三一論争」にあり、私は、法相宗「唯識論」と相まってこの論争の重要性がもっと叫ばれて良いのではないかと考えている。源信の評価によって「三一論争」の最終決着が図られたとされているが、そんなことはない。「唯識論」の21世紀的発展と相まって「三一論争」の再評価がなされて然るべきではないかと思うのである。イスラム教原理主義やキリスト教原理主義は判りが良いかも知れないが、「平和の原理」としてはダメである。最澄や法然もこれ又然り・・・である。違いというものは認められなければならない。
私の考えでは、かかる観点から、「三一論争」自体極めて高い歴史的価値を有しており、徳一研究は、「三一論争」にその重点が置かれて当然だと思うのだが、高橋富雄が指摘するように、仏教哲学と古代信仰の結びつき・・・・・、これはとりもなおさず徳一の目指した宗教改革だが、私には、これも又、極めて高い歴史的価値を有しているのではないかと思えてならない。しかし、このことについては、おいおいと勉強していきたいと思う。
冒頭に述べたように、いずれ会津や筑波など徳一ゆかりの「場所」を旅しながら、いろいろと徳一を語り、「平和の原理」について勉強していきたいと考えている。しかし、徳一を語り、「平和の原理」を語るためには、どうしても「唯識論」の基礎知識が必要である。まずは、唯識の勉強を始めたい。今回の高橋富雄の著書「徳一菩薩・・ひと、おしえ、がくもん」も大変だったが、「唯識論」もさらに大変かも知れない。大変かもしれないが是非おつき合い願いたい。その難関を突破しないと・・・どうも「平和の原理」の核心部分に近付けないのではないかと思うからだ。「唯識論」がある程度理解できれば、中沢哲学との繋がりを考えながら「平和の原理」をある程度判りやすく説明できると思う。「劇場国家にっぽん」の姿をある程度はっきりしてさせることができると思う。しばらくは我慢して欲しい。みなさん、根気ですぞ!・・・・・根気!根気!