祟りたたり

 

神霊,死霊,精霊,動物霊などが一種の病原体として,人間や社会に危害を加え自然界に災禍をもたらすとする信仰現象のこと。しかし〈たたり〉はかつて折口信夫が説いたように,もともとは神が何らかの形でこの世に現れることを意味した。それがやがて,神霊や死霊の怒りの発現もしくはその制裁や処罰の発生として〈祟り〉が意識されるようになった。すなわち神の示現としての〈たたり〉から霊威による災禍もしくは危害をあらわす〈祟り〉へと変化したのである。

 はじめの,神の示現としての〈たたり〉は,古く神霊が磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ)に降臨することであったが,同時に特定の人間に憑依(ひようい)して託宣や予言を下すことでもあった。たとえば神代紀の天鈿女(あめのうずめ)命,崇神紀の倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命,仲哀紀の神功皇后などが突然神がかりして,狂躁乱舞したり神霊の意志を伝えたりしたのがそれである。こうして〈たたり〉が人間に現れる場合は憑霊状態を示し,いわゆるシャマニズムのさまざまな心的機制を生ぜしめることになるが,今日,下北半島のイタコや沖縄のユタなどに伝えられているホトケオロシやカミオロシなどの巫儀も,この〈たたり〉現象に属する。

 次に,神霊や死霊の示現が災禍や危害をともなうとされる場合の〈祟り〉は,当の神や死者の怨みや怒り,そして浄められずに空中を浮遊する邪霊,鬼霊の働きなどによるものとされ,とりわけ平安時代になって御霊(ごりょう)や物の怪(もののけ)の現象としてひろく人々の間に浸透し,恐れられた。なかでも〈祟り〉の現象が社会的な規模で強く意識されたのは平安前期の御霊信仰においてである。御霊とは政治的に非業の死をとげた人々の怨霊をいい,それが疫病や地震・火災などをひきおこす原因とされたのである。このような御霊信仰の先例はすでに奈良時代にもみられ,僧玄隈(げんぼう)の死が反乱者である藤原広嗣の霊の祟りによるとされたが,平安時代に入ってからはとくに権力闘争に敗れた崇道(すどう)天皇(早良親王),伊予親王,橘逸勢(たちばなのはやなり)などの怨霊が御霊として恐れられ,863年(貞観5)にはその怒りと怨みを鎮めるための御霊会(ごりようえ)が神泉苑で行われた。また承和年間(834‐848)以降は物の怪の現象が文献に頻出するようになるが,これはやがて《源氏物語》などのような文学作品,《栄華物語》のような史書のなかでも大きくとりあげられるようになった。その場合,物の怪も主として病気,難産,死,災異などの原因とされ,それを退散させ駆除するために僧による加持祈裳が行われた。そしてこれらのさまざまな祟り現象の頂点を示す事例が,菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊による怪異な事件であった。清涼殿への落雷から醍醐天皇の死にいたる一連の社会的・個人的な異変が,大宰府で憤死した道真の怨霊によるとされたのである。この平安朝を通じての最大の祟り霊は,やがて北野天神としてまつられ,学芸の神としての天神信仰が形成されることになった。最大の祟り霊が反転して強力な守護神に変じ,崇敬されるようになったのである。

 以上からもわかるように,祟り霊はその規模のいかんを問わず祭祀や祈裳によって鎮められるとの観念が生みだされた。つまり祟りと鎮魂との相関が意識されることになったのであるが,それは全体として閉鎖的な社会・政治環境における精神病理的な現象であったと考えることができる。ところで,このような祟りと鎮魂のメカニズムは,道真の事例においてみられるように,それ以降の日本の政治史にもしばしば現れるようになった。とりわけ権力や政権の交替期には政治的に非業の死をとげる人間が大量に生みだされるため,その死霊や怨霊を鎮める儀礼がさまざまな文脈において行われた。たとえば現代の問題としていえば,戦争の犠牲者を靖国神社にまつり,その霊を鎮めることによって国家の政治的罪悪性を免罪し,祟りの発現を回避しようとする企てが支配層によって行われたのもその一例である。また今日の新宗教運動の多くが,現在の不幸や病気の原因を先祖の霊の祟りの作用であると説明し,その祟りの消除のため先祖供養を勧めているのも,古くからの祟り信仰に基礎をおいたものということができるであろう。

 以上述べてきた祟り現象の諸相は,要するに特定の人間の執念や怨念が凝りかたまって呪詛霊となり,それに感染することによって異常現象が発生するというものであるが,これはある意味でニーチェのいう〈ルサンティマン(怨恨感情)〉の発現と類似している。かつてニーチェは,原始キリスト教の成立とフランス革命の発生の心理的動機を,社会の水平化現象をひきおこすルサンティマンによって説明しようとした。すなわち逆境にある者,虐げられた者の反抗の倫理,不自由な,持たざる弱者たちによる強者への復讐の感情がそれであるとしたのであるが,これは日本における祟りの発現が,つねに共同体内部における社会病理学的現象として意識されたことと好対照をなす視点であるといえよう。怨恨感情の解放が社会変革への導火線となったというのがニーチェの考えであるが,これに対して日本の伝統的な祟り信仰は,その病原体としての祟りを呪術・宗教的に鎮静させ,最終的にそれを除去することを目ざす点で社会変革のための心理的動機にはなりにくかったということに注目すべきであろう。  山折 哲雄

 

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