天海 1536‐1643(天文5‐寛永20)
てんかい
戦国期〜江戸初期の天台宗の僧。会津(福島県)の人。通称南光坊天海。江戸幕府創始期に以心崇伝と並んで,幕府の宗教行政の中心人物であった。
徳川家康・秀忠・家光の3人の将軍につかえ,とくに家康の懐刀といわれた。
11歳で出家し,はじめ随風と称した。
14歳で比叡山に登り,その後三井寺,さらに南都の諸寺を遊学。
1571年(元亀2)延暦寺が織田信長の焼打ちにあうと,山門の衆徒をひきつれ,甲斐の武田信玄のもとに身を寄せた。77年(天正5)には奥州会津の蘆名(あしな)氏のもとに移り,90年豊臣秀吉の小田原の陣に赴き,秀吉に従った。この年常陸不動院を復興,99年(慶長4)武蔵国仙波喜多院に入り,ついで下野の宗光寺に入った。
天海の令名をきいた徳川家康は,1607年比叡山の探題奉行に任命,このとき,東塔の南光坊に住んでいたので,のちに南光坊天海と呼ばれた。翌年家康の招きで駿府に赴く。
12年家康の指示により,仙波喜多院を修造して関東天台宗の総本山とし,東叡山と号した。
14年豊臣秀頼が東山方広寺に大仏を再建し,巨鐘を鋳造すると,家康方の黒幕としていわゆる鐘銘事件にかかわり,大坂の陣の戦乱をひらくきっかけをつくった。16年(元和2)家康の死去に伴い葬儀の導師となり,久能山に葬った。同年7月大僧正に任ぜられる。
17年天海の指示で家康の遺骨が日光山に移される(日光東照宮)。25年(寛永2)江戸上野に東叡山円頓院寛永寺を開いて関東天台宗総本山とし,これまでの中核であった喜多院を元の山号星野山にもどし,その権限を寛永寺に移した。37年寛永寺において活字版大蔵経の開板を企て,12年を経て48年(慶安1)に完成した。世に天海版といわれる。
天海はこの完成前の1643年108歳で死去。48年慈眼(じげん)大師の諡号(しごう)を賜った。
天海の業績は大別して二つある。一つは家康の葬儀での活躍,もう一つは天台宗の宗勢拡大である。
家康の葬儀に際しては,山王一実神道をもって権現号でまつることを主張,崇伝は従来どおり吉田神道により明神号で行うよう主張して対立した。結局天海の主張どおり東照大権現の神号がつき,幕府内部に不動の地位を確保した。(註:権現についてはここをクリックして下さい!)
天台宗の宗勢拡大については,まず将軍の権力を背景にして寺院法度の起草に参画し,中世的宗教権力の集中していた比叡山の勢力削減に努力する一方,別に関東天台宗の本山をつくって宗内の総本山としたことである。ついでこれを軸として本寺・末寺の関係を強化した。また他宗寺院の改宗や,すでに廃寺となっている古跡寺院を復興し,数多くの寺を天台宗の寺院として組み込んだ。天台宗中興の祖ともいえる人物である。 圭室 文雄
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.