
言うまでもなく、縄文時代から弥生時代にかけて、人々は容易に水の得られるところに集落を作りました。それがクニ、クニの発生に繋がっていき、やがてそれらのクニ、クニは力のある豪族にまとめられていく。そして最終的には、結局、大和朝廷に統一されていくのでありますが、関東では、大和朝廷の全国統一過程において、群馬、埼玉、東京・神奈川にそれぞれ勢力のある豪族がいたようであります。
それら三豪族の発生過程はよく判りませんが、それを想像するには、少なくとも関東平野の形成過程を頭に描いておく必要があるようです。縄文海進は紀元前4000年頃がピークで、その頃、関東における沖積平野のほとんどは海であったのですが、それ以降、・・・・海の後退につれて次第に氾濫原が作られていくわけです。その氾濫原で稲作がお行なわれ、クニ、クニが発生するということでありますから、河川を抜きにして豪族の発生というものを考えるわけにはいきません。風の吹きだまりというものがありますが、川の流れにもそういうものがあって、氾濫原の形成過程もそういうものを考えておく必要があります。
氾濫原ということでは、利根川、荒川、多摩川など・・・大河川のほとりが有利でありますが、それら大河川のほとりであればどこでも良いかとなると、そうではなくて、大河川の近くの丘陵地の近くで、水の容易に得られやすいところということになります。このようなことから、群馬、埼玉、東京・神奈川に地域を束ねる大豪族が発生した。氾濫原と水のお蔭ですね。
しかも、面白いことに、・・・・東京・神奈川が関東では一番早く地域が発達していたようで、最初、そこの豪族は親大和朝廷であったようであります。大和朝廷との結びつきの中で勢力を拡大していったのかも知れません。しかし、やがては、群馬の豪族と連合して・・・・大和朝廷に対抗することになり、結局は大和朝廷に滅ぼされるのですが、・・・・・・・あの平将門と同じように、その反骨精神は見上げたものではないでしょうか。
野毛大塚古墳や御岳山古墳を作った・・・ここ等々力渓谷近辺の豪族は結局滅んでしまうのでありますから、その反骨精神が板東武士にまで引き継がれた訳ではありませんが、板東武士が朝廷に対して「一所懸命」に対抗して鎌倉幕府を作り武家社会の基礎を作ったことを思えば、・・・・ある種の感慨というものが湧いてきます。板東武士のルーツをここに見る思いです。開拓者としての独立精神です。
群馬の豪族(上毛野君かみつけのきみ)も含め、結局は、関東地方全体が大和朝廷に屈服することになるわけですが、関東地方がずっと我国のフロンティア(開拓のフロンティア)であったため、関東地方の豪族は基本的に開拓者としての独立精神が旺盛であったと思います。その開拓者としての独立精神が鎌倉幕府を作った・・・それが私の考えであります。そう考えると、・・・・・平将門や等々力渓谷の豪族(小杵おき)におおいに声援を送る気になってくるではありませんか。

武蔵野台地は、多摩川によって侵食され、多摩川のところで30メートル程落ち込んでいます。これを国分寺崖線といいますが、多くは坂になっていますが、崖状になっているところでは水みちがそこに集中して、いたるところで湧き水が出ているのです。
ここ等々力渓谷では、崖状になっているところに立派な滝があります。そもそも等々力という地名はその滝が轟き落ちるところからきているようでありますが、その滝は・・・・・役の行者ゆかりの行場になっていたようです。それによって俗にいう等々力不動が創起されたのではないかと思います。等々力不動は明王院といいますが、その御本尊は役の行者祀ったとされる不動明王であります。今なおその滝は行場になっていますし、滝の上には神変窟という祠もあり、・・・・・・役の行者を念いながらお経をあげる人が絶えません。
なお、ちなみにいっておきますと、野川は、古くはそこを多摩川が流れていた時もありますので、国分寺崖線を考える時は多摩川と考えて下さい。今は、地下水が少なくなったので、湧き水の量も極端に少なくなってしまいましたが、それでもいたるところで今なお湧き水を見ることができます。国分寺崖線を守る会などもありますが、そういう運動は大変いいことですね。
次は、隣接する等々力不動です!
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