空海、最澄、そして徳一
奈良時代から平安時代に時代は大きく変わったが、わが国の仏教も南都六宗から真言宗と天台宗という新しい宗教に移っていく。空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれたということだが、その時期、徳一というこれまた偉大な宗教家がいたということは余り意識されていない。当時、わが国のニューフロントは東北地方だが、その東北地方においては、最澄は徳一に抑えられて全く手がでなかった。
最澄は、唐の留学から帰り、天台宗を唱えて奈良仏教を攻撃したので、徳一は最澄に反撃を加えて五カ年間にわたって大論争を展開した。理論闘争において最澄は徳一に勝てなかったのだ。最澄は、徳一を折伏(しゃくふく)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一に遮られて成功しなかったということだ。
徳一は、藤原氏の菩提寺である興福寺で法相宗を学んだ僧だが、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子、すなわち藤原不比等の曾孫であり、血筋が抜群である。徳一は、子供の頃、道鏡のために不遇を極めるが、道鏡の失脚の後はいうまでもなく順風の中に修行を積んでいく。いうまでもなく南都六宗というか奈良仏教の立場であり、良弁(ろうべん)らとともに明恵(みょうえ)に繋がっている。徳一は、会津に磐梯恵日寺(ばんだいえにちじ)を建てて、法相宗の布教につとめた。徳一は、貴族の出でありながら、子供の頃の苦労が幸いしたのか、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済に努めた大人物であった。
磐梯恵日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部をその境内とするほど広大な敷地を有し興隆をきわめたという。藤原一族の援助もこれあり、寺は年毎に栄え、信仰を求める人々はぞくぞくと磐梯恵日寺(ばんだいえにちじ)に集うて集落を形成し、寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたという。磐梯山麓に光り輝いた法相教学の栄光がほうふつと目に浮かぶ。
徳一は、後に東大寺の僧も勤めることになるので、良弁の(ろうべん)の流れを受け継ぐ僧といって良い。徳一は、良弁(ろうべん)開基の大山寺において、その発展に尽力する。大山寺の三代目の座主に空海を引っ張ってきたのは徳一である。空海は徳一は敬意を払い徳一との接点を大事にしたようだし、空海はまた東大寺とのつながりを非常に大事にした。このように、良弁(ろうべん)と空海と徳一の三人は東大寺と大山寺で繋がっているのである。そしてその延長線上に明恵(みょうえ)がいる。なお、鎌倉の長谷にある石碑によれば良弁の父・藤原時忠は藤原鎌足の玄孫ということになっているので、もしそれがそれらしき真実を語っているのであれば、良弁と徳一はかなり近い親戚ということになる。良弁の開基した大山寺に徳一が助力するのも頷けることではある。