真の自立のために
私は、鼎談のなかで、「教育の問題でも、自立した青少年の育成が大切と民主党は言っていますが、国家や地域、共同社会あっての個人という視点が抜け落ちています。そうしたものとのつながりを大事にして教えていくことが、まず必要ではないでしょうか。」と述べ、「そうでないと本当の意味の自立はあり得ない。」と申しました。
しかし、一般的には、個人の自立ということを考えた場合、国家や地域ばかりでなく、会社などもそうですが、共同社会あっての個人などという考え方は受け入れられにくいのではないでしょうか。つまり、私が言っていることとは逆に、個人の自立のためには、極力、そういった共同社会と個人との関係を切断すべきであるというのが・・・・一般的な考え方ではないかと思います。
そこで、以下、この点につき、若干、補足的な説明をしておきたいと存じます。
神戸の酒鬼薔薇(さかきばら)という14才の少年が引き起こした小学6年生殺人事件は、なんともはやショッキングな事件でありました。
五木寛之さんは、その著書<他力>の中で「はじめてドストエフスキー的な犯罪というか、形而上学的な感覚で殺人が起きた、そういう時代が始まったのだと思ったのです。」と述べておられますが、時代がこれをなさしめたと考えるとき、極めて深刻な事件と言わざるを得ないのではないでしょうか。
「なぜ人を殺してはならないのか?」・・・・・。今私がもっとも注目している社会経済学者・佐伯啓思さんは、こう言っておられます。「この問に答えるためには、われわれは個人の自由の絶対性から出発する近代社会の外に出なければならない、ということである。個人の自由というものを起点にしてはならない、ということだ。近代の<個人>と<自由>と<理性>に基礎をおいた合理主義の枠から出なければならない。」(「現代日本のイデオロギー」、佐伯啓思著、講談社、1998年4月、P30)
私も全く同感で、私たちが共同社会を営んでいくためのある種の秩序というものは、ながいながい経験の積み重ねから自ずとできてくるもので、それはもう理屈を超えたものだと思います。「人を殺してはならない」ということは一つの極端であって経験からくるとことの絶対的な真理だと思いますが、・・・・それ以外にも・・・・・日常の生活習慣から生じてくるところの慣習法的なものがいろいろあって、そういった生活の知恵というものをマスターしていないと、共同社会を楽しく生きていくことはできないのだと思います。
個人が自立するためには、共同社会を楽しく生きていくための・・・・生活の知恵みたいなものをマスターしないといけない。・・・・「郷に入れば郷に従え」というではありませんか・・・。人との関係がうまくいかないと、自立どころの話ではなく、結局は、自滅せざるを得ないのだと思います。
私の尊敬する哲学者・中村雄二郎さんは、トポス(場)の研究で有名ですが、個人と共同社会の関係を考える場合に中村哲学は大変参考になります。
「場」の概念は大変難しくのでありますが、ここでは、一応、国家や地域などの共同社会とお考えいただいて結構です。
国家や地域などの共同社会には、日常の生活習慣から生じてくるところの慣習法から、共同社会の中で意志的に制定された法律制度までいろんな制約条件が存在します。これらの制約条件は、一般的には、個人の自立に邪魔になると考えがちかも知れませんが、中村哲学は、そういう考えを明確に否定します。
中村哲学では、そういった制約条件は、必ずしも生命的なものを圧殺する反生命的なものではないと考えます。むしろ、逆に、可能的なもの、潜在的なものを現実化し、立ち上がらせる働きを持っていると考えるのであります。(「述語的世界と制度」、中村雄二郎著、岩波書店、1998年5月、P175)
ところで、我が国において「我」というものは、実は、西洋のように独立し自立した「我」ではなく、相手との関係に応じて成り立つ「我」だといわれておりますが、中村雄二郎さんはこう言っております。(「触知しうるイデー」、中村雄二郎著、エッセー集成4、青土社、1993年7月、P259)
「この相手との関係に応じて成り立つ<我>というのは、単純に主体性や能動性ばかりをよしとする考え方からは退けられるわけですが、具体的な人間関係のなかで大変大事なことであり、これがなければ人は経験から学びつつ自立を確立していくことはできないのです。」
そして、さらに中村雄二郎さんは、「この相手との関係に応じて成り立つ<我>とは、<共通感覚>=<コモン・センス>の働きに依存するところが大きく、それが欠如するときおとなしい型の精神分裂病や離人症を引き起こすことは、精神医学によってすでに明らかにされてきています。」とも言っておられるのです。
個人の自立にとって、相手との関係とか共同社会との関係が如何に重要であるか・・・・、そして、・・・国家や地域、共同社会あっての個人という視点が抜け落ちていたのでは本当の意味の自立はあり得ない・・・・、私はそう確信するのであります。