東北・北海道への期待
東北・北海道が21世紀における国土づくりのフロンティアになるかどうかは別にして、私たちはこれからもっと東北・北海道の可能性について語らなければならないと思う。
私は、これからの時代・・・21世紀は、中村雄二郎がいうようにリズムの時代であり、自然との響き合いとか宇宙との響き合いというものが大事であると思っている。また、高度情報化の時代は、梅棹忠夫のいうように感性の時代であると思うが、IT(情報技術)の活用を図る工夫とともに自然との響き合いとか宇宙との響き合いを十分に感じうる工夫というか仕掛けというものが必要である。しかも、その仕掛けのためには・・・・、何よりも風土を生かすということが大事であり、私は、高齢者を中心とした地元の人々の協力が不可欠であると考えている。
民俗学は地域の風土というものを明らかにする上でなくてはならない学問である。柳田国男がいなかったら「遠野物語」は生まれなかったし、宮沢賢治がいなかったら「イーハートーブ」はなかった。宮沢賢治はいうまでもなく岩手の人である。私は、宮沢賢治のような人が今後も出来るだけ多く東北にでてくることを願っているが、今ここでは柳田国男の方に焦点を当てたい。柳田国男は兵庫県の人である。兵庫県の人がどうして「遠野物語」が書けたのか。それは・・・・民俗学のおかげであろう。
これからはIT(情報技術)の時代である。IT(情報技術)を駆使して民俗学をどう生かすのか。その地域の風土、その中には人々の意識をも含むが、その地域の風土というもののデータベースをどう構築していくのか。それは国土政策上これからの大きな課題である。まずは国が音頭をとらなければならないが、そのための総合的な取り組みというものが必要である。その先端的な地域が東北・北海道なのではないか、・・・・私にはそう思える。
私は、今、武家社会源流の旅を続けている。先を急ぐわけではないが、武家社会というものは、鎌倉幕府によって始まる。そういう一般の理解で良いのだが、もっと厳密にいえば、武家社会は北条泰時によって始まるというべきである。なるほど頼朝によって東北が武力統一されたということだが、法律制度としては、北条泰時による御成敗式目ができた。武家社会を律する憲法がやっと出来たのだ。したがって、その成立をもって武家社会が確立されたと考えるべきである。
「鎌倉憲法」の思想的指導者は明恵であり、明恵についてはおいおい学んでいきたいと思うし、明恵の華厳哲学を受け入れた東北を含む東国の宗教的土壌について触れていくこととしたいが、その前に、大和朝廷の東北経営について簡単に述べておきたい。
ここでは権力による東北経営について述べるのだが、権力が及ぶということは人や文化がそこに相当は入り込むということであり、この点についてはくれぐれも十分留意しておいてもらいたい。坂上田村麻呂に興味がいくのは当然として、私としては、その向こうに多くの人々の動きがあるし、物資の動きもある・・・・・、そのことを十分意識してもらいたいのだ。
日本書紀の敏達(びたつ)天皇10年(580年)の記事では、エミシの族長が・綾糟(あやかす)らが大和にきて服属の儀式を行ったことがでてくる。律令国家が出来て藤原鎌足が活躍する・・・おおよそ100年前のことである。また、日本書紀には、637年、大仁(だいじん)の上毛野君形名(かみつけののきみかたな)を将軍に任じてエミシを討たせたという記事があるし、642年、越の辺りのエミシ数千人が服属してきた記事がある。
坂上田村麻呂がエミシを平定するのが801年であるが、その間、絶え間ない動きが記録されている。647年の淳足(ぬたり)柵設置、648年の磐舟柵設置、655年のエミシ服属、658年の阿倍比羅夫活躍、708年の出羽郡設置、709年の佐伯らの活躍、712年の出羽国設置、724年の藤原宇合の活躍と多賀城の築城、733年の出羽柵の移設、758年の陸奥桃生城の築城と出羽雄勝柵の設置、759年の雄勝郡と平賀郡の設置、767年の陸奥伊治城の築城、774年の大伴駿河麻呂の活躍、780年の伊治(いじこれはり)の反乱、789年のエミシ征討軍の敗退、794年の大伴乙麻呂の活躍、797年の坂上田村麻呂の鎮守府将軍就任などの記事である。
こののち坂上田村麻呂の大活躍があるのである。坂上田村麻呂は、平和の使者であり、平和的解決を図った偉大な将軍である。坂上田村麻呂の存在自体歴史上特筆すべきことではなかろうかと思う。坂上田村麻呂に関する遺跡も実に多い。この人を語らずして東北を語ることはできないであろう。
なお、源氏が東国で力を持つようになるのは、1062年からである。1051年に、前九年の役が起こって源頼義が大活躍をするのだが、引き続き1062年、阿倍貞任を源頼義が討って源氏の基礎が固まるのである。源義家が清原氏を討って勇名を馳せるのは1087年である。かの有名な新羅三郎(しんらさぶろう)・義光が兄義家の応援のために陸奥に下向するのはこの時である。八戸に新羅(しんら)神社というのがあるが、新羅(しんら)三郎ゆかりの神社であろうか。新羅(しんら)三郎の墓は元服の地・大津は歴史博物館の裏山にある。新羅(しらぎ)神社の隣だ。