「知のトポス」・宇治というところ

 

 

宇治十帖の発端「橋姫」は、「その頃、世(よ)に数(かず)まへられたたまわぬ古宮(ふるみや)おはしけり」で始まる。「その頃、世間から忘れられ ておいでの古宮(ふるみや)がいらっしゃった。」という意味である。古宮(ふるみや)とは源氏(薫<かおる>)の異母弟・宇治八宮のことである。

さて、世は、光源氏の時代からその子供・薫(かおる)の時代に移っている。源氏物語の主人公が光源氏からその子供・薫(かおる)に移っているという ことだが、実をいえば、宇治十帖における本当の主人公は「浮舟」である。源氏物語の起承転結からいえば、この宇治十帖が結論部分であり、まあいうなれば、 紫式部は宇治十帖を書きたいために源氏物語を書いたのである。だとすれば、この宇治十帖で・・・紫式部は最終的に何を言いたいのか。いうなれば「源氏物 語」の心髄は何かということである。

 

ところで、紫式部がどのよう想いをもって「源氏物語」を書いたか。芸術や哲学というものは、できるだけ、史料を調べて作者の想いに迫らなければなら ないが、「場所をして語らしめる」ということも誠に大事なことである。「劇場国家にっぽん」では、「場所性」というものを重視していて、たとえば「源氏物 語」でいえば・・・・、「源氏物語」を理解する上で当然「宇治というところ」をしっかりと理解しなければならない・・・・という考えである。「宇治という ところ」の何んたるやを知らずして「源氏物語」を語ることはできない。

 

 

「宇治というところ」を知る上で何と言っても「橋姫神社(橋姫社)」を知らなければならない。「橋姫」については、「貴船」のところですでに述べた。宇治の橋姫は地元ではそのように語られているし、「京都謎とき散 歩(左方郁子、廣済堂出版、平成9年)」でもそのような説明がされている。実際は、そうでなかったかも知れ ない。「貴船」に出てきた「鉄輪」の出典は平家物語の剣の巻だと言われているが、おそらく時代とともにいろんな橋姫のイメージが作られてきたので あろう。「宇治というところ」がそういう地獄のイメージをつくり上げたのかも知れないし、「源氏物語」がそういう地獄のイメージを作り上げたのかも知れな い。いずれにしても、現在の「橋姫」のイメージは、地獄のイメージである。舞台が物語を作り、又物語が舞台を作る。「宇治というところ」には天国と地獄が ある。

註1:「袖中抄」や「花鳥余情」によると、橋姫は宇治橋下の姫大明神のことで宇 治の離宮にまします神(菟道稚郎子うじのわきいらつこ)と恋仲であったため、夜毎、宇治の離宮の神が橋 姫に通ったという言い伝えがある。菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の離宮は現在の宇治神社及び宇治 上神社の辺りにあったと考えられている。古宮(ふるみや) の住まいもまあその辺りである。「源氏物語」では、宇治を訪れた薫が、大君に「橋姫のこころを汲みて高瀬 さす竿のしづくに袖ぞ濡れぬる」の歌を贈り、大君を橋姫にたとえたと考えられている。

註2:橋姫とは、一般的には橋の守神をあらわす言葉であるが、宇治の橋姫といえば、橋姫神社の祭神・瀬織津姫尊 (せおりつひめのみこと)である。延喜祝詞式によれば、瀬織津姫尊(せおりつひめのみこと)は、急流にあって、人の罪を海に運び去る神。

註3:神社の由来によると、646年、宇 治橋架設のときに、宇治川上流の桜谷に鎮座していた瀬織津姫尊(せおりつひめのみこと)を橋上の「三の 間」に祀ったことが始まりとされている。その後、洪水による橋の消失などで、宇治橋の下に祠が移されるなど、時により祠は移動している。現在の祠は、明治 3年に定められたものである。現在の宇治橋上にも以前の祠跡の「三の間」が再現されている。

 

 

ところで「源氏物語」の心髄はその地獄性にある。以下に、梅原猛の「地獄の思想(中央公論社、昭和58年)」により、「源氏物語」の核心部分を紹介 しておく。(註:本文・梅原猛の源氏物語論はここ!

 

薫が浮舟を京都へ引きとる日が近づく。それとともに、匂宮が浮舟を奪いとる日も近づく。浮舟はどちらかの男を選ばねばならぬ。

 

 彼女が薫を選び、匂宮をあきらめるには、彼女はあまりにも匂宮に引かれすぎていた。匂宮の愛は彼女の肉体への愛である。それははげしくもえ、すぐ にさめるかもしれない。しかし、その男の強烈な魅力をもあきらめきれない。薫にすなおに従うには、被女は女体というあまりにもろい肉体の所有者なのであっ た。

 日は迫っている。彼女はどうしても決断がつかない。ついに決断をつける。それはどちらかを選ぶ決断でなく、彼女の身を捨てる決断である。宇治川の 流れは早い。飛び込めば、ひとたまりもない。彼女はある夜ひそかに家を出て、宇治川に身を投げようとする。

 

 浮舟が突然いなくなった。家のものは大さわぎである。宇治川へ身投げしたにちがいない。みなそう思って、泣きながら死骸のない葬式をすます。

 

 しかし、浮舟は死んでいなかった。彼女は横川の僧都に助けられていたのだ。高徳の僧として有名な横川の「なにがしの僧都」は、母尼と妹尼をとも なって、宇治川のほとりに立ちよる。そのとき、彼らはひとつの変化のものをみる。

 

 

 「近く寄りて、その様を見れは、髪は、長く、艶々として、大きなる木の根の、いと、荒々しきに、寄り居て、いみじう泣く」人であった。まさに死な んとする人であった。死なんとする人をつれてくるとは、病気の老尼にとって縁起でもないという意見にたいして、僧都はすばらしい言葉を語る。

 「まことの、人のかたちなり。その命、絶えぬを、見る見る、捨てん事 は、いみじき事なり。池に泳ぐ魚、山に鳴く鹿をだに、人に捕へられて、死なむとするを見て、助けざらむは、いと、悲しかるべし。人の命、久しかるまじき物 なれど、残りの命、 一二日をも惜しまずは、あるべからず。鬼にも、神にも領ぜられ、人に、おはれ、人に、はかりごたれても、これ、横ざまの死にを、すべ き者にこそあめれ。仏の、かならず、救ひ給ふべき際なり。なほ心みに一瞥し、湯を飲ませなどして、助け、心みむ。遂に死なば、いふ限りにあらず」(「手 習」)

 

 浮舟は、まさに鬼にも神にも憑かれ、人に捨てられ、人にはかりごたれた、行くところのない人間であり、横ざまな死をとげるしか生きる道のない人間 であった。そういう人間こそ、仏が救いとるのだ。まさに大乗仏教の核心なのである。鬼や神に、しようのない煩悩にとりつかれ、生きる道を失い、自己の命をたたねばならないような人間、そういうしようが ない人間にこそ、仏の救う人間なのだ。それは大乗仏教の核心であるとともに、紫式部の確信でもあったかにみえる。

 

 横川の僧都は、源信がモデルだといわれる。たしかにこの言葉は、源信で なければいえないほど立派な言葉である。

註:宇治と源信との関わり合いについては、是非、恵心寺(えしん 寺)を訪れていろいろと想いをめぐらせて下さい。

 

梅原猛の源氏物語論は以上のとおりであるが、これは・・・・・・、単なる文学論であって、哲学ではな い。哲学として宇治を語るとすれば、「場所の論理」にもとづいて宇治を語らなければならない。だとすれば、宇治における天国と地獄を語らなければならない のだ。