歌垣

うたがき

 

男女が集会し相互に掛合歌をうたうことによって求愛し,あるいは恋愛遊戯をする習俗で,年中行事あるいは儀礼として行われることが多い。分布は古代日本のほかに,現代では中国南部からインドシナ半島北部の諸民族において濃密であり,フィリピンやインドネシアにも類似の掛合歌が行われている。中国貴州省南東部のミヤオ族の場合では,歌垣はミヤオ語で遊方といい漢語では揺馬郎という。村には遊方を催す場所が,村はずれの山の背に決められており,2月2日の敬橋節のような祭日や農閑期に行われる。毎晩8時か9時ごろから,夜中の1時か2時ごろまでつづく。女は15〜16歳,男は16〜17歳になると参加できる。60〜70組の恋人が集まり,互いに向かい合って手をつなぎ,軽やかに裏声で恋歌を対唱し,愛情を伝え合い,他の組の邪魔はしない。ベトナム北部のバクニン省の農村では,旧暦3月5日から12日までの村の鎮守の祭りには,毎晩集会所での儀式が終わったあとで,若い人たちは村の門のそばの繁みの下で掛合歌をやった。対になって歌い,その内容は愛をテーマとしていた。それから恋人たちは隠れたところに行って交わったが,その際,少女の同意なしに連れて行くことはできなかった。こうして親密になった二人は,祭日後,結婚することができた。このような歌垣は,元来は集団的な成年式だったと考えられている。歌垣で婚約し,その後,多くの場合は収穫後に結婚式を挙げるというのが古い形式であったろう。この歌垣を催す民族には焼畑耕作をやっているものと,水稲耕作を営むものとの両方が含まれているが,おそらく元来は山地の焼畑耕作文化の要素であったろう。中国南部では,歌垣の習俗とほぼ重なって,結婚しても夫妻は別居し,しばらく一方が他方のところに通い,子どもが生まれてから同居する不落家の習俗が分布し,日本の妻問い婚を思わせる。

                        大林 太良

[日本古代の歌垣]  歌の掛合い,歌のことばの呪的信仰に立つ男女の唱和,歌争いが歌垣の原義らしい。東国方言カガイも同義か。なぞかけのカケと同意であろう。〈歌垣〉(《古事記》清寧天皇条),〈歌場〉(《日本書紀》武烈天皇条)と字をあてるのは,男女相囲む形や場を意識するためか。《文選(もんぜん)》でカガイに〈刊歌〉をあてるのは,その踊り歌う意による。春秋,一定の時期・場所に,村々から盆踊に集まるように,老若男女相会して飲食・歌舞し,性を解放した行事である。初めは春の国見と相関したともいうが,ともかく豊作の予祝や感謝と結んだ歓楽であった。場所は,山の高み,野,水辺,また言霊(ことだま)の行きあう衢(ちまた)の市(いち)の広場など,とくに常陸筑波山・童子女(うない)松原(《常陸国風土記》),肥前杵島(きしま)岳(《肥前国風土記》),大和海柘(石)榴市(つばいち)(《万葉集》巻十二。現,桜井市)・軽(かる)(軽市(かるのいち)。《古事記》允恭天皇条。現,橿原市)などが知られ,歌垣山の名も残る(《摂津国風土記》)。〈……率(あども)ひて 未通女壮士(おとめおとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ刊歌(かがい)に 人妻に 吾(あ)も交はらむ 吾が妻に 人も言問(ことと)へ……〉(《万葉集》巻九。筑波山)。それは,季節のサイクル,身体性のリズムにも応じて想像力を開く歓楽であり,日常性をこえて聖化されたお祭り騒ぎ,群集のカーニバルであって,神も心をにぎやかにした。〈筑波峯の会(つどい)に娉財(つまどいのたから)を得ざれば児女とせず〉などという俗偵もあった。しだいに農耕を離れ予祝性を低めて,成年・未婚の男女の成年のしるしや求婚・約婚を主とするものも増し,ひとりの女性を争って歌い勝って得るというような場合もあったようである。

 奈良時代中期からは唐の都市の踏歌(とうか)の習俗と混じて宮廷化,芸能化した。王族・貴族や渡来系の氏族の男女230〜240人が2列に相並んで,宮廷風に編曲された古曲を唱和した風流な歌舞をも歌垣といい,平城宮で天覧もされ,都市の士女も見て歓を極めたという(《続日本紀》天平6,宝亀1年条)。文学史的には,歌垣の歌はもと性欲的気分や掛合いの機知・悪口などになぞめき,奈良時代の知識階級にはひなびて見えた。また歌の間から抒情の動機もめざめてき,創作詩の構成要素にもとりこまれて,歌い返す女歌の心を複雑にするようにもなった。後の歌合や連歌,懸想文(けそうぶみ)の世界などへも遺響する。行事は西南諸島の毛遊び(もうあそび)その他に遺存する。                      本田 義憲

 

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