地蔵信仰と矢田地蔵

 

 

 京都の繁華街といえば京極である。最近は京都駅も賑やかになってきているが、やはり京極というか河原町通を中心に御池通から四条通にかけて、私は一番注目されて良い場所であると思う。ただ単に商店があるというだけでなく、これほどわくわくする「知のトポス」は他にない。寺町三条を少し上がったところに、矢田寺がある。

 

 

 

すぐ近くに例の本能寺があるし、京極には古い寺が多いのだが、私がみなさんにどうしてもお参りして欲しいのはその矢田寺である。是非是非お出かけ下さい!

 

 裕の井、猿が辻、廬山寺、梨の木神社、京都市資料館、下御霊、革堂へ、そして古本屋や古道具屋を覗きながら、本能寺からこの矢田寺まで・・・・・ゆっくりゆっくり歩くと良い。もちろん逆でもいいが、まあ京都人の感覚からすれば、やはり上から下ってくるのが良い。上がりが矢田寺という訳だ。矢田寺には是非是非お出かけ下さい!

 

 矢田寺の本尊は、燃えさかる火焔を前にして、まさに地獄の中に現われたかのごとく道具立てが見事である。地蔵信仰を誠に見事に象徴していて、俗に「代受苦地蔵」と呼ばれる。

 

 

 

 

 小野篁(たかむら)が、あるとき、閻魔大王の要請を受けて、奈良は郡山(こおりやま)の矢田寺の住職で有徳の誉れも高い満米(まんまい)上人を地獄に招待、八寒八暑の地獄を案内した。そのとき火焔の中で亡者(もうじゃ)を助けようと一心に働いている僧を見つけた。いぶかしむ満米上人に向かってその僧は、「私は地蔵菩薩である。娑婆(しゃば)に戻ったら私の姿を造れ。生きている人を済度してやろう」と告げたという。地獄から帰った満米上人は小野篁の協力を得て、承輪12年(845)に郡山の矢田寺に模した別院を五条坊門のあたりに建立し、地獄で出会った地蔵菩薩を写したお地蔵さんを本尊にした。その後、応仁の乱などで伽藍は焼失して転々としたが、戦国時代の天正七年(1579)に現在地に復興された。

 

 

 

 本堂のひさしにつるされた鐘は、珍皇寺の「迎え鐘」に対して「送り鐘」と呼ばれ、使者を冥土に送り返すときについたという。今では日々の苦が鐘をつくごとに消えていくといわれている。是非是非鐘をついてください。この鐘をつき、高野槙を納め、絵札を買ってくる・・・、これが御盆の習わしである。

 

御盆には・・・・珍皇寺の「迎え鐘」の響きに乗って祖先の霊が帰ってくる。この世に・・・。そして、御盆のひとときを私たちとともに過ごしたのち、矢田寺の「送り鐘」の響きに乗って帰っていく。あの世に・・・。あの世とこの世・・・。素晴らしい。この世とあの世・・・.どちらが本当なのか、本当にわかりませんね。

祖先と私たち、これもどちらが本当なのか・・・・。祖先を大事にするということはきっと私たちを大事にするということに違いない。そう・・・、私たちは「世襲」のなかに生かされているのですから・・・・・。

 

珍皇寺の「迎え鐘」と矢田寺の「送り鐘」を衝いているとふとそんな気がしてくる。本当に・・・・京都の御盆はなんとも言えないほど・・・刺激的ではないか。

 

「世襲の論理」・・・・それは今の私たちを大事にする思想である。だから先祖は大事にしなければならないのである。御盆は先祖をお迎えしまたお送りする大事な行事である。

 

それでは「送り火」に御案内!

 

 

Iwai-Kuniomi