薬師

やくし

 

人々の病をいやし,苦悩から救うとされる仏(如来)。サンスクリットのバイシャジヤ・グルBhaioajya‐guru の訳。薬師瑠璃光(るりこう)如来とも呼ばれる。薬師は菩醍時代に12の大願を立て(その中に自分の名を聞く者を不具や病気から救うという項目がある),仏となって東方の浄瑠璃世界の主となり,日光菩醍,月光菩醍(日光・月光)を従えている。采死の病人を救うために薬師如来に祈る供養法(続命法)が行われ,また薬師経を唱える信者を十二神将が守護するとも説かれる。別に七仏薬師(しちぶつやくし)の伝承があり,これによると東方に次々に如来がおり,最も遠い第7の如来が薬師であるとされる。七仏がそれぞれ独立した仏であるか,七仏は薬師仏の別名であるかが古来論ぜられている。            定方 里

[日本における薬師信仰]  薬師は日本でも古くから治病に験ある仏として重んじられた。最も初期の薬師信仰の例として有名なのは,推古天皇と聖徳太子が,用明天皇の遺命によって607年(推古15)に造像したと伝える法隆寺金堂の薬師像である。しかしこの像については,造像年代を引き下げる説もあり,飛鳥時代の薬師信仰の存在は明らかでない。薬師信仰が盛んになるのは7世紀末以後であり,680年(天武9)天武天皇は皇后の病によって薬師寺建立を発願し,720年(養老4)藤原不比等が病むと諸寺で《薬師経》をよみ,745年(天平17)聖武天皇が病んだときも薬師悔過(けか)を行うなど,天皇家や上流貴族の病気の際は薬師に祈願するのが通例であった。平安時代に入り密教修法が盛んになると,《七仏本願功徳経》による七仏薬師法が発達した。七仏薬師法は,薬師7体を並べて祈るもので,9世紀の円仁がはじめたというが,10世紀の中ごろ天台宗の良源が摂関家の安産祈願に修して以来,有名になった。東密では七仏薬師法を行わないが,台密では除病安産など息災増益の秘法として特に重んじた。民間でも薬師は早くから治病の仏とされたが,《日本霊異記》や《今昔物語集》などの説話の数からみれば,観音や地蔵の信仰ほどには盛んでなかった。ことに室町時代ころを境として,治病信仰の中心的地位も,より幅広い利益を兼ね備えて民衆に親しみ深い地蔵に譲る形となっていった。    速水 侑

[図像]  薬師如来の図像については,本来明確な根拠に乏しい。《薬師経》は形姿について説かず,一応,如来としての一般的な姿,すなわち通仏相と理解される。また密教の両界曼荼羅には描かれない。日本では飛鳥,白鳳,奈良,平安の各時代を通じて,きわめて多くの造像が行われ,当初は通仏相として右手施無畏・左手与願の印相をもつ,釈梼如来と同体の像に表現された。法隆寺金堂像,薬師寺金堂像,唐招提寺金堂立像,東寺金堂像などがあげられる。一方,薬師如来の図像的特色として一般に知られる薬壺を持つことを明確に規定した儀軌は,不空訳《薬師如来念誦儀軌》などのほかに見当たらず,むしろ薬師如来の名称から連想される,医薬の効験を示す仏としての解釈から,後世になって生まれた図像的特徴と考えられる。中国においては薬壺をもつ像はなく,むしろ鉢と錫杖を持つ例が多い。日本では平安時代以降に薬壺を執る像が多く,さらに通仏相の施無畏・与願の印相をとる像に,後世薬壺を付け加えたとみられる場合もある。

 平安時代初期には,造形的に優れた薬師如来像が相次いで造立された。座像としては新薬師寺像,醍醐寺像,奈良国立博物館像(もと京都若王子社の本地仏)など,立像では元興寺像,神護寺像,室生寺像などが著名で,いずれも平安時代初期の量感を強調した木彫の優作である。さらに文献からは,比叡山延暦寺根本中堂の本尊が薬師如来であったのをはじめ,多くの薬師如来像の作例がこの時期に集中的に造立されたことを知る。

現在各地の国分寺に伝わる本尊の多くが薬師如来であり,平安時代初期には宗派を問わずきわめて盛んに造顕が行われた。

薬師如来の脇侍としては日光菩醍,月光菩醍があり,中尊薬師如来とともに三尊形をなす例も多い。また十二神将を伴う例もある。十二神将を伴う早い例としては,新薬師寺像や京都大原野の勝持寺像がある。

 絵画では平安時代にさかのぼる作例は見当たらず,高野山桜池院の《薬師十二神将図》が鎌倉時代の作例として知られるものの,他に薬師如来を描いた仏画は多くない。         百橋 明穂

 

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