山寺百話(原著:伊澤 不忍 編集:伊澤 貞一)
一、慈覚大師及び立石寺-----15
1 山寺閉山慈覚大師-----15
2 慈覚大師伝説-----17
3 地主権現磐司磐三郎-----20
4 磐司伝説-----21
5 伝教大師の坐像-----22
6 千年不滅の法燈-----23
7 根元中堂の位置-----24
8 中堂再建-----26
9 入定窟(にゅうじょうくつ)の開扉調査-----28
10 立石寺の境内-----32
11 六社明神-----33
12 石倉-----34
13 赤山(せきさん)明神-----35
14 十二明神-----37
15 鳥目田-----38
16 十王堂(仁王門)-----39
17 聖徳太子像-----40
18 立石寺の読み方-----42
19 山寺の修験-----43
20 根元中堂前の舞台-----45
21 阿所川(あそがわ)-----46
22 姫岩-----47
23 日光東照宮神像の山寺御動座-----48
24 山寺の主な建造物-----49
(1)根本中堂-----49
(2)三重塔-----50
(3)納経堂-----51
25 山寺の古碑古佛-----52
(1)如法経所碑-----52
(2)古碑古塔-----54
(3)佛像-----56
二、山寺を訪れた方々-----59
26 西行法師と最明寺入道-----59
27 雪舟-----61
28 芭蕉-----62
(1)翁が訪れた当時の山寺-----62
(2)芭蕉翁句碑-----66
(3)●塚-----68
(4)芭蕉翁の宿坊-----70
29 無●庵筏舟(むみゃくあんばつしゅう)和尚-----71
30 東宮行啓-----72
三、無形文化財-----75
31 立石寺の舞楽-----75
32 しし舞-----76
33 夜行念佛-----77
四、山寺雑話-----80
34 二口越-----80
35 山伏峠-----82
36 最上小僧-----83
37 カンコ普請-----84
38 文政七年の洪水-----85
39 嘉永六丑年の大早魃-----86
40 ほほ岩-----87
41 花咲石-----88
42 壇やら-----89
43 曽平地蔵-----89
44 峯の浦の生如来-----90
45 世界最古の木製櫓(やぐら)時計-----92
46 岩石の破壊-----94
47 義経奉納の絵馬-----96
48 鳳輦(ほうれん)-----96
49 茶-----97
50 先住民の遺跡-----98
51 山寺の石工(石工)-----99
52 光(ひかる)姫-----100
53 剣道家伊澤伝蔵正武-----101
54 二口番所-----103
55 山寺の祭典-----103
五、民俗伝習行事-----105
56 百度参り-----105
57 七つの石鳥居潜り-----106
58 火伏せ-----106
59 取り児・捨て児-----108
60 剥(む)け日-----110
61 御臍柴燈(むさいと)-----111
62 湯立て-----111
63 憑(よ)り付(つ)け-----113
64 疫神送り-----114
65 初成りの胡瓜-----115
66 涅槃会(ねはんえ)-----117
67 彼岸の行事-----117
68 年中行事の唱え言-----117
69 してはいけない日-----120
70 屋敷内の草木-----121
71 食べるべき物・食べない物-----122
72 送り物-----123
73 農家と旧暦-----124
74 地蔵尊と鶏-----126
75 石の風呂-----126
76 農家の休日・餅つき日-----127
77 鳥總(とぶさ)-----129
78 ことの団子-----130
79 山の神-----132
80 箱枕と木枕-----133
六、妖怪伝説-----135
81 賽の河原の鬼-----135
82 中性院の枕返し-----136
83 観明院の化物-----137
84 産橋(うめばし)と猫が沢の小豆とがえ-----137
85 中ノ岩の大蛇-----138
86 あまのじゃくの架橋-----140
87 天狗の空木(からき)返し-----141
88 天狗にさらわれた話-----142
89 森の弁天-----143
90 コベタの蟒(うわばみ)退治-----144
七、動物-----147
91 河獺(かわうそ)-----147
92 猪-----148
93 狼-----150
94 鹿-----151
95 猿-----152
96 狐-----153
八、樹木-----155
97 極楽院の椿-----155
98 八房の梅-----156
99 往古の銘木・巨木-----157
100 おじいさんから聞いた山寺の話-----伊澤文子-----162
不忍略歴-----169
あとがき-----172
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p16
大師は師の遺志をついで、叡山の大成と東北地方の開発教化に全力を盡されたが、この山寺は貞観二年(八六〇)の開山である。大師の開山もしくは中興とされる所は霊山・松島・箆嶽(のこだけ)・黒石寺・中尊寺・天台寺・恐山・象潟・小瀧・女鹿・鳥海・羽黒・葉山等の多きを数える。
p17
1 大師が隣村の寒居山風立寺(ふうりゅうじ)を開創して後、お通り沢(大師が通られたのでこの名がある)を登り、芦沢峠を越えて山寺に出られた。途中荏(*1 えごま)の刈り株で足を痛められた。それで今もエゴマを植えない畑がある。
*1:荏 くちびるばな科・しその仲間、果実より油を搾る
2 大師が始めて山寺の地を踏まれ、遥かに天華岩を望み、いよいよ山寺に着いたことを喜び、そこで直ちに感謝の読経をされた。その地を今も地蔵畑と呼び、板碑が残っている。また、この畑には今も不浄の肥料を施さないことになっている。
3 大師が山寺に住んでいた磐司(ばんじ)という狩人と遇って色々と土地の状況を問われたという所がある。そこを対面石といって山寺一の名石とされている。
4 お山の四寸路の所は大師御作の道と言い伝えられているので、昔のままの姿を保存するために手を加えないようにしている。
5 大師が開山の際、護摩(*1 ごま)を修されたという所を護摩壇といい、釈迦堂の下方の岩洞がそれである。
*1:護摩 炉の中に火を燃やし供物を焼いて本尊に供養する。智慧の火で迷いの薪を焼くことを意味する。
6 釈迦堂のわずか手前の大きな岩堂を座禅窟と呼んでいる。その名の通り、大師が座禅をされた所である。
7 大師が山寺を開くとき住まわれたのは、華蔵院であったという言い伝えである。
8 山寺や近郷の人が大病にかかった時、入定窟(岩洞に大師の遺骨を安置しているところ)内の大師の遺骨を削って服用させたと言われている。
9 大師が、樂樹(*1 もくげんじゅ)またの名をセンダンバのボダイジュ(ジュヅダマの木)を山寺に植えられたと言われ、現在*1 三代目のものが残っている。
*1:立石寺本坊にあるのがそれと思われる
10 傅教大師が中国の天台山から比叡山に伝えた法燈を開山大師が山寺に移し、その火が更に若松寺に分けられた。
11 如法堂(奥の院)前に獨鈷(どっこ)水という井戸がある。立石寺縁起によれば
『奥之院に霊水あリ往古大師開山の節山上に水なくして後米往僧供華水に憂へんことを愍み給ひて所持の*1 獨鈷を以て地を穿ち給へば清水忽ち湧出す因て獨鈷水と謂ふ其獨鈷今宝物の内にあり』
と記してある。井戸の位置が現在堂前になっているのは、明冶二年如法堂が焼失し、その後再建の際堂の位置を奥に変更したためである。
*1:獨鈷 密経の修法で用いる金剛杵の先端の分かれていないもの。鈷は股の借宇。長さ十五センチ内外加持祈祷に用いる。
12 金石壇(かないしだん)という字(あざ)が荒谷より清池(しょうげ)に通ずる道路の北方・横街道のわずか東の畑中にある。往古開山大師が燈油田を定めるため天に誓って獨鈷を投げ、これがこの壇の上に止まった所であるといわれている。明冶維新までは毎年ここの畑から年貢としてエゴマ四石九斗三升九合を立石寺に上納し、常燈にあてられたもので、畑反別は一町五反三畝四歩であった。
13 荒谷には山寺山王廿一社の一つである観音様が祀られている。その境内に礫石(つぶていし)というのがある。高さ三・四尺、周囲五尺ばかり重さは数百貫もあろう。
慈覚大師が山寺を開いたとき、石倉山に登って村山平野を眺めた折り、たまたまこの石を見つけ頂上から大声で「アラヤー」(荒谷)と叫び、南に向って投げた。その石の落ちた所が字礫石で耕地面積十三町六反余である、
p20
山寺の地主権現磐司磐三郎の祠は、お山の五大堂の岩窟にあり、高さ一尺三寸木彫の坐像が安置されている。元狩人であったというので傍に石造の犬を置いている。
さて、磐司はどんな人であったか其の説は色々あってこれと定めることはできない。ある学者は奥羽に於ける山岳神話であると言い、あるいは半神半人であるとし、またぐっと現実的に蝦夷人であるなどの諸説がある。
当地の伝説では普通の人間で狩人であったとされているが、ただ、猿の子であると言われている。これは磐司の父は日光の猿摩呂であったためと思われる。
磐司は初め奥州名取都の沃谷で狩をしていたが、後に山寺に移り千手院に住んだ。慈覚大師が山寺の土を初めて踏んだとき、対面石の所で面会し、土地の状況等につき談合した。互いに語り合う中で二人は共に野州(栃木県)の同郷人であることがわかり、大師の開山には全力を盡して助力したため、地主権現として祀られたのである。
後、磐司は山寺が佛の山になって狩ができなくなると秋田に去ったと語り伝えられている。
p21
1 山寺千手院の人口、一つ石に磐司が矢を研いだ所とされている矢研清水(やとぎすず)というのがある。今もこんこんと清水が湧き出ている。
2 この清水の上に磐司が弓をかけた松、弓かけ松があった。別に笠松とも言われた。
3 千手院部落の端に一基の古碑がある。これは磐司の犬の碑(墓)であると一般に信じられている。また、犬の碑と山王神社との間は磐司屋敷跡と伝えられている。
4 仙山線面白山トンネル入口付近に「大声立」という所がある。これは磐司が大声を立てて犬を呼んだ所とされている。
5 面白権現近く焼枯(やつかれ)という所がある、昔磐司がここで化物を退冶したということである。
6 千手院の先にマリ山という所がある。この名称は磐司の犬の名が「マリ」であった事から取ったということである。
以上六項、後藤長富氏、佐々木太四氏談
p23〜p24
山寺には一千年不滅の法燈がある。
宗祖伝教大師が中国の天台山国清寺より伝えたもので、比叡山の常燈、立石寺の常香、九州の常火がそれで、日本の三火と称されている。
慈覚大師が比叡山より山寺に伝えた法燈は三つに分けられ如法堂(奥の院)の常火、
開山堂の常香、根本中堂の法燈とした。この三火も大永元年(一五二一)天童頼長によって山寺一山悉く焼かれて絶えた。しかし立石寺中興円海和尚が再び叡山から分火を受けた。ところが、元亀二年(一五七一)、比叡山が織田信長の焼打に会って法燈が絶えたため、こんどは立石寺より法燈を移したのである。それ以来二つの法燈は今日に至るまで断えることなく慈烟(煙)を掲げ続けている。
明らけく後の佛の御代までも
光伝えよ法(のり)のともしび (伝教大師)
p28
入定窟とは慈覚大師のお骨を納めてあると伝えられてきた岩窟の事である。
古来、入定窟を開扉したとは文献にも口碑にもない。ただ、この地方の人が大病に罹かった時、大師の骨を削って服用させたという言い伝えがある。
昭和二十三年十一月一日、県の史蹟調査員により、翌二十四年六月には国立博物館調査課主任小林剛博士、●十月には同博士と東京大学人類学教室の鈴木尚博士により開扉の上調査された。
窟は百丈岩頭にあって、入口は東西に開き、真南に陽を受け、笠を伏せたような形で最も高い所で三尺余、横二間、入口は四重の板扉によって塞がれ、窟内はやや方形で奥行五尺五寸、塵一つない清浄さであった。
金棺は縦六尺四寸、横一尺六寸四分、高さ九寸(以上外側)内側の深さは七寸八分、外面は黒漆塗で全面に金箔が張り込められいるが大方は剥げ落ち、棺の角やその他が削られている。棺の内部も黒漆塗で塗には内外ともに段紋が現れている。
御尊骸は頭蓋骨なく、代りに木彫の頭像が置かれている。この頭について、小林博士は大要次の様に発表された。
1 古い彫刻には頭像だけ造られたという例はない。これだけでも史的意義があるのにその彫刻が極めてすぐれていることは、更に価値を倍加するものである。
2 頭部の全長七寸三分、顔だけの長さ六寸七分、幅五寸五分で、等身よりやや小造り材は欅である。もとは恐らく、肉色に彩色されていたのであろうが、現在はほとんど木地を現わし、所々にわずかに胡粉の下地の跡が残っている。
3 作風はかなり写実的で、ことに眉目や口辺はかなり個性的であるが中でも、最たるものは眉で、こんなに高く眉だけを造り出したものは他に類例かない。
4 箱根神社の萬巻上人の像と、奈良東大寺開山堂の良辨憎正の像は、共に平安初期の肖像彫刻として有名なものであるか、これらに比較して木造頭部は、いささかの遜色もないばかりか其の造立年次に於てこの方が古いのではないかと思われる程である。
5 木造頭部は首の部分はほとんど造られていない。また、後頭部が平たくそがれていること、これは始めから頭部だけのものとして、また仰向けに置くことを想定して造られたものである。
棺内の遺骨は大師の御尊骸のみと信じられていたのに意外にも五体であるというのに驚かされた。その内四体は比較的新しいものだとされるからこの分は除き、千年を経た骨についてのみ博士の説を記す。
1 干年以上の骨は四肢だけで橈骨、大腿骨(左右)●骨の四本である。
2 骨は灰白色を呈し、表面は凹凸著しく、長期にわたる腐蝕作用がある。破損も著しく、いずれも両端を欠き骨幹部のみである。腐蝕作用あるにもかかわらず重量大きく、化石人骨格特に我国貝塚人骨に匹敵する程である。
3 形態学的に四肢骨は貝塚人又はアイヌのそれと相違し、現代日本人的である。
4 この骨は男性的である。
次に棺についてである。蓋の内側に五輪形の塔婆(高さ六寸、六分角桐材)が打ち付けられ、それに左の文が記されている。
正面 康元二年六月十四日本願(一二五七)
左 建長八年九月四日熊野(一二五〇)
後 御山夢想阿彌陀經如法經
右 書写示現經也
即ち熊野権現の夢想によって、阿彌陀經を慈覚大師が定められた古式により、一字三礼し、禅定の智水で石墨草筆を以て書写した所にのみ仏の法の力を示し現はした尊い御経だというのである。
この塔婆の右奥に経文があった。経は長さ二尺二寸、幅五寸石墨草筆によって書かれたものである。その奥書は左の通りである。
クワケノニ子ン、五月廿二日 ノヒケ ●カイ、又上ノタメナリ チ□(不明)
本願●
即ち康元二年五月廿二日書き終ったものであるが、日付の下の文字の意昧はわからない。「●カイ」は法界であり「ス上ノタメナリ」は衆上のためなりで、この経を奉納した目的を示したものである。
以上の調査から結論的には、骨格と木彫の頭像と棺とを慈覚大師と結びつけて考える事は不可能ではないものの断定はできないとの博士の意見であった。
p35
慈覚大師が入唐中、山東省の赤山(せきさん)法華院に登り、ここ*1 赤山明伸に求法の目的達成を祈願した。もし、目的成就して無事日本に帰ることが出来れば禅院を建立すると誓ったのである。それで比叡山に赤山明神が祀られたのである。
東北では秋田男鹿半島の赤神山日積与永禪院と山寺立石寺にある。秋田では赤山という地名にもなっているし、境内も広く堂々としたものであるが、山寺ではそれがわからなくなる所であった。山寺では赤山と呼ばず赤(あか)文珠と言い伝えてきたからである。
たまたま、千手院のある古老からその赤文珠が赤山であると聞いたので、同じ千手院の老人二・三人から聞きただした所、碓かにそれに相違なかった。*2 文珠菩薩は*3 本地であリ赤山明神は垂迹(すいじゃく)であるからである。
千手院のこの明神は字(あざ)宮の沢の奥で、社殿はおろか萬年堂さえない。ただ清流に臨んだ赤褐色の巨岩で、その大きな岩洞の裡にわずかに水のしたたる所がありそこを佛と拝するのである。
流れにそって経塚がある。一字一石といって、経文を一つの行に一文字を写して納めたものである。もうほとんどが流出したので阿の経を書いたものか判然としない。立石寺貫主壬生芳田憎正は多分金光明経ではなかろうかと言っていた。
以前は立石寺賞主が毎年祭典に参詣したもので、その際は村惣出で道普請をしたというようなこともあったと聞いた。
*1 赤山明神 中国登州赤山県の神 慈覚大師中国に在しし時、この神の援助加護を受けしを以て本朝に勧請せしも未だ神祀を建つこと能はず。弟子遺命を奉じて西坂本に神祀を建つ。(仏教大辞典)
*2 文珠菩薩 地元では文珠様といっているが
(1) 赤山明神の本地は地蔵菩薩とするが正しい。(村山修一編「比叡山と天台仏教の研究」)
(2) 源平盛衰記(第十)此明神は又赤衣に白羽の矢を負いつつ舟の上に現じ給ひつつ大師を守護せられけり(中略)本地地蔵菩薩なり、太山府君とぞ申す。「慈覚大師研究」福井康順編
*3 本地・垂迹 本地とは本来の仏の姿であり垂迹とは仏・菩薩が人々を救うために仮に神として現れた姿である。ここでは本地文珠菩薩、垂迹は赤山明神となる。
p76〜p79
慈覚大師が山寺開山にあたリ、狩人磐司の協力によって比較的容易にお山を開くことができた。その後この地方一帯は殺生禁断の地となった。それでしし共が喜んで一同打ちそろって大師にお礼に参上した。しかし大師は、それは私のためにというより磐司のおかげでそうなったのだから、先ずその方にお礼を申すべきであるとお諭しになった。
このお諭しによって付近の村々から数組のしし舞が山寺を訪れるのである。旧七月七日は地主権現磐司の祭典に当るが、先ずもって磐司祠で舞い、次に大師堂で舞う例になっている。
さて、しし舞というのはほとんど全国的のものであって、何も山寺に限ったものではないが、山寺のものは獅子や青鹿(かもしか)ではなく猪であることが特徴であると伝えられている。
夜行念佛は俗に「念佛」といわれ、旧七月七日山寺祭典の前夜がこれにあたる。近郷近在から二、三十人が一団となって神佛を讃える歌を鉦にあわせ、ほとんど夜通し歌って回るのである。
山寺一の木戸(追分地蔵尊)を初め、各堂社前で唄い、順次お山を巡るので、それが次々と村々から押し寄せるため、お山は上も下も右も左も悉く御詠歌と鉦と寺々に止宿した信者の念佛で埋まるのである。一方、馬形部落の頭にある「常願寺」(貞観寺という説もある)が夜行念佛の根本道場であったとして、ここにも参詣することになっている。
講員の仕度でるが、負摺(おいずり)を着、金剛杖をつき、一文字笠を被り、裁着(たちつけ)に草鞋(わらじ)をはき、参詣初めの三年間は笠の周囲に細長い紙を一面に腰のあたりまで垂らすのである。
此の行事は空也(こうや)上人より始まったといわれている。上人を讃仰することはもちろんであるが同時に、その根源は慈覚大師にあるので、当山寺に参詣するのである。
大師は承和五年(八三八)に人唐して五台山の南麓にある大聖竹林寺に詣でた。この寺は法照禪師の五●念佛の根本道場で、それは極楽浄土の水鳥樹林の念佛の声を伝えたものとされている。大師はこの音曲なり作法なりを法照禪師よリ悉く学ぴ取られたのである。
大師は清和天皇の皇子貞保親王と共に当時笛の名手であったので、音曲については深い趣味と理解があったのである。引声念佛を容易に学ぶことができたのもこういう素地があったためである。
帰朝後、叡山に於いてこの念佛を諸弟子に伝え、それが良忍上人や空也上人等によってさらに発展し、終に謡曲から平家琵琶となり長唄等となったので、夜行念佛の声明その根源は慈覚大師にある。開山大師に参詣するのもこうしたわけである。
山寺には引声念佛は伝えられていないがどういうわけであろうか。山中には四菩薩●に*1 摩多羅神が祀られていないし、また延年舞もなかった。ここから推察すれば最初からなかったものか或は中絶したものであろうか。
大正十三年五月と十月の二回、壬生憎正は京都の真如堂を訪れて研究し関係記録を全部写し取り、山寺にも道場を開こうと計画なされたが、時到らず悲願を達成できなかった。
*1 天台宗の常行打堂の守護神
p94
当山寺は、奥州七北田(ななきた)の砂の山寺、江州の石山寺、出羽の岩山寺と呼ばれるだけあって、至る所岩石であり、その景観の優れた所から慈覚大師の開山となったわけで、開山当時は勿倫の事、慶安後も採石することは寺領、御領いずれも村内一同申合せの上禁止して居ったのである。
ところが明冶九年八月三島通庸が山形県令となり、山形南の逆巻(さかまき)に眼鏡橋を架けた。明治十一年四月着工、●年片九月竣工、長さ一九二尺、五つの眼鏡で工費一万六千円であった。この橋の石材は全部当山寺の産である。
この時、山寺の岩石は官地たると民地たるとを問わず運搬に便利な所から採石し、營營繕車と呼ばれた牛車を使用して運んだのである。
この時不思議にも採らなかったのは宮崎の硯石、川原町の不動岩及び対面石であった。
破壊された主な岩石は大石沢の滝の前並に泣岩、三輪神社境内、八王子の門前、立定院前の蛙岩、対面石下の神供岩、登山口の文珠岩、ドンダエママの獺岩(かわうそいわ)其他で、み佛坂の石碑の台石まで割ったほどである。
お山では立石寺の東から蛯堂付近にまで及ぴ、将に笠石まで割ろうとした時、立石寺貫主の代理として金乗院住職栄田和尚が出県して、「他の個処でいくらでも採石できるのであるからお山の採石は止められたい」と陳情し、それか容れられたのである。それから間もなくして逆巻の橋が出来上がった。
其の際、採石の残りがあったのを荒谷の村形小八が沸下をして貰った。つては県の採石係で山寺に来ていた旧水野幡御用石工片岡兵冶で、片岡と小八は懇意だったのである。
其の後この片岡の世話で村の者数名が明治十三年三月十七日に出願して、官地である大石沢で採石を始め。またお山では●珠岩付近にまで及んだ。
明治三十三年、末松謙澄博が登山なされ岩石破壊の状況を視、官地の採石を直ちに禁止する様、書を農商務大臣及び宮城大林区署長に送ったので、即時中止になったのである。
註 なお民地での採石は続けられ昭和十年代までに及んだ。石を運ぶ馬車引きの姿も
村の風物誌で、私が馬車引きにならんか、いい銭になるぜと馬鹿にされたものだと話していた。採石する人がいなくなったのはセメントの普及による。
p113〜p116
憑り付けは別に神おろしとも云って、人間に神霊か憑り付いて先の事や原因などを聞き出すことができるのである。
明冶の中頃までは各部落とも、年に一回位行なわれ、特に烏鳴きが悪いとか、狐か昼啼いたとか、或る家の御飯が赤くなったなど、災難の前兆であるとして臨時に行なうこともあった。
憑り付けは字の鎮守の堂で行なうのが通例である。修験が来ると先ず誰に憑り付けるかを部落民と柑談して決定し、この「より人」を座の中央に足を組んで坐らせ、耳の穴に紙を詰め、白木綿で十分に目と耳の上を巻き、幣束を両手に握らせて膝の上にのせる。これで準備ができたのである。
それで修験は宝前で経を読み、つづいて憑り人の前で「心経」を繰り返し繰り返し読み続ける。この時同席一同も声高く唱和するのである。やかて憑り人の幣束の先から揺れ始め、ついには両手がひどく揺れる。これで神が憑り付いたのである。
その様子をみて修験が何の神かを問うと、八幡とか不動とか秋葉山などと答える。次は聞きたいことを尋ねるのである。災難があるか、何時頃起るとか、どうすれば災難を免れられるかとか。もう聞くことがなくなればやめる。
やめる時は修験か憑り人の背に何か書いて横に倒すが、すぐ眠ってしまう。間もなくして目を覚ます。通常の人間にもどったのである。
ところが、何度心経を読んでも憑り付かないことがある。そういう時は別の人を選んでやりなおすのである。
さて当地では憑り付ける際は「心経」を読むが、西置腸群東根村浅立では「サンゲ、サンゲ六根清浄 山の神は三十六童子の一に礼拝」と何辺も繰り返し大声で唱えあげるとのことである。
「谷柏村御用留帳」安永十年(一七八一)五月七日の條に「片谷地にて神おろし数日致し候よし、かみ付不申 毎日物人りばかり可有之由」、伝々とある。
憑り付けは広く行われたようである。
疫病(コヒラ、腸チフス等)は悪神の仕業と考えられていたので、この病気にかかれば先ず修験にたのんで祈祷してもらう。
修験は錫杖を振りなからしばらく読経し、それから病人の枕もとに座りさらに経読しながら部厚い経巻で何百回となく、病人の頭を打つのであった。
易者や巫女によるものもある。すると型の如く藁人形を作って、七色菓子と銭若干と小豆飯のお握りをいくつか添えて送れと教える。家の人は人にさとられないよう夜更けに村端の路傍に、右の品を添え疫病を送るのである。
この人形を見て道行く人は疫病のあることを知り用心するから、必すしも無駄ではなかったろうと思う。
毎年初成りの胡瓜は神に供えてから食べるという習慣がある。即ち畑から二本揃ったものを採って佛壇に供える。その翌朝その二本の胡瓜を大川に流すのである。これは牛頭天王に供えるので、この天王は疫病を押えて流行させないようにする神である。私の幼少の頃は疫病にひどく悩まされたものである。
この習慣は今(昭和三十年代)でも行われている。
p123
送り物には虫送り、二百十日の風送り、コレラ送りなどいろいろあるが、ここにコレラ送りについて記してみよう。
当村では、この悪疫の流行したのは明冶十七年の真夏であった。
千手院某の葬式に行った親類の人々が家に戻ったところ、いずれも俄(にわか)に病んで死んだという話があってから、病気は各字に飛び蔓延した。
警官が噴霧器で石炭酸を吹き散らしながら各戸を調査し、病人がいるとすぐに所部の十二台の仮小屋の避難院に運ぶのであった。
各字では、道路の口々に番をして交適を遮断し、用件ある人訪ねて来ても部落には人れず、番の人が取り次いでやった。
病死者が出ると、古箱などにに故人を人れて、新たに造った川原の仮道を通らせ、下山寺の田中ぐぼ(田中御坊)に運人で焼いた。当付での死亡者は六十余人であったと記憶している。
この時、コレラ送りが行なわれた。時刻は夕食後で、まず上山寺で字の頭に大きな木の枝を伐って、その上に藁人杉を載せ、枝に綱をけて曳き出し、送る者は刀を帯び、槍や竹槍でこれを突き、盛んに鉄砲を打ち放ち、字下に運ぶとこれに火をつけ、続いて修験か九字を切って病が戻れないようにするのであった。
このようにして次は中山寺、続いて下山寺が行なって、村から病を送り出すのである。
p132
山寺には昔、七つの院の名があって、その院の名が部落名になっているが、そのいずれにも山の神を祭る万年堂があり、小さな自然石が神の依代(よりしろ)になって祀られている。
芦沢院には六カ所、千手院には二か所、其他の部洛には各一か所の計十二か所に祀られている。
大祭は旧二月と十月の二日で、各部洛とも契約(戸主会)があって、重要問題はこの会で議決される。ただし、死火、産火の者はその席に列することは許されず、勝手(台所)に据って仰せ渡しを聞かねばならない。
当日山の神に供えるものは神酒や御供えは勿論であるが、特別なものとして、米の粉で粘って作った男根、女陰、斧、鋸、山刀、鎌を供えることである。
この日は山の神が木の数を調べる日であるからと言って決して山には入らない。もし山に行くならば必ず神罰を受けるとされている。
さて、山の神については異説もあるが、当地では甚だ醜い女神であるとされている。それは主婦(妻君)をへりくだって言うとき、山の神と呼び、また春の彼岸前後に山稼に行く時は、木で男根を造って神前に供えて行く地方もある事からも女神であることがわかる。
また、この神は冬は山の神であり、夏は里に下りて田の神になるとも考えられている。
p135〜p154
お山の西谷、極楽院の東の岩洞に地蔵尊が祭りられている。小石が沢山積み重ねられているが、ここ賽の河原と云って子どもが死後送られる地獄とされている。子供が供養のため小石を積んで塔を作る所である。
一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは郷里兄弟我がためと唱えながら小石を積む。二つまでは容易に積めるが、三つ目からはなかなかむずかしい。ようやく積み重ねたのに夜になると鬼が来て、何だ、こんなに歪んだ塔では供養にならぬと、子供を叱りつけ、鉄の棒で残らず打ち散らす、その音がガラガラガラと毎夜、極楽院に聞えて来る。それに続いてワァーッと子供の泣声が流れて来ると聞かされた。
山上の立石寺塔頭(たっちゅう)、中性院に宿泊すると、西枕に寝たのが翌朝になると東沈になっており、北枕だった者は必ず南枕で目覚めるという。これが世間から不思議がられ恐れられた。
これはこの寺に近郷の丸子氏一族の祖先である婆さんの木像が奉納されてあり年々法事を営むが、この婆さんの仕業であるとされている。
山寺以外にも枕返しの話がある。上山市では、沢庵和尚の描いた掛図に足を向けて寝ると枕返しされると言い、最上郡古口の三宝荒神にも、同地の修験宅にもある。同郡角川の奥長谷部落では、昔三山の山伏が泊り、神に足をむけて寝ると枕返しされると云われた。
山上の仁王門をくぐり、勾配の急な石段を上っての寺が観明院である。
この寺には化物が出るというので昔から住職は一度も据わったことはないと伝えられ、現在も相変わらず無住である。
ではどんな化物かと言うと、誰も見たことはないがただ不思議なことに、参詣者が佛壇に上げた賽銭は翌朝どれもこれも、二つに割れている。これは化物の仕業だろうと言うのである。
うめ橋と言うのは立石寺の、裏境内大石沢から流れ来る産水川(うぶみずがわ)に架した土橋を言う。もとは産橋と云ったが、寛永中、山形城主烏居侯の供養碑を宝沢から運ぶ時勾配をゆるやかにするために両岸をうめた。それで「うめ橋」と言うようになったとの事である。
ここは私の幼少の頃までは両岸ともに大きな樹があって、夕刻など特に淋しい場所であった。夜更けになると、この橋の下で「小豆(あずき)とがえ」と云う怪物が出て、ザクザクザクと小豆をとぐような音がする。大人でも気味悪がって夜半通るのをひかえる程であったと。
さて小豆とがえは「小豆研ぎ」の転訛であろうと思われるが、この怪物の正体は何であるか、ある人は大ガマであろうとも言うが、多分河獺(かわうそ)だろうというのが大方の意見であった。
千手院の猫が沢の下流、両岸樹木の繁った所にもうめ橋同様小豆とがえがでるのであったと伝えられている。
これと同様なことが寒河江市の慈恩寺にもあり、「白河風土記」にも次の様な記録がある。
炭ガマに就テ宿スルモノ時トシテ鬼魁ノ怪ヲ聞クコトアリ其怪ヲ伐木坊あづき磨ト云フ(中略)あずき磨ハ炭舎ニ近キテ中夜ニあずきヲトグ音ヲナス其声サクサクタリ出テ之ヲ見ルモノナシ因ッテ名ツクト云フ
白河風土記 巻四
千手院奥の中ノ岩は、今は小さな水溜りでただ湿地になっているが、その昔相当大きな深い沼であった。ここはどんなわけがあったものか、お山の寺から交代で卯の刻に読経する例になっていた。
たまたま沢の院がお勤めを終った時、後に美しい娘が拝んでいたが、僧より一足先に戻った。それが一週間も続いたもので妙な娘もいるものだと思っていた。
その後、娘は途中で沢の院を待っていて、住職が通りかかると、「お願いで御座います」と言った。沢の院が訳を尋ねると、
「実は私は人間ではありません。口惜しいことにこの沼の大蛇なのでございます。来世はどうしても人間に生れたいので、どうぞお血脈をいただかして下さい。」
と、涙を流して願うのであった。沢の院は、
「そうか、しかし今すぐという訳には参らぬ。尚この上一週間も参詣せよ。」
と諭した。
やがて結願の時血脈が授けられた。娘は非常に喜んで
「これと云って御恩返しも出来ませんが、今後、干魃の時があったら、あなた様がこの沼にお出になって『沢の院』と呼んで下さい。そうすれば必ず雨を降らしてさしあげます。」
と言って姿を消した。
干魃の時、沢の院がこの沼に来て、娘の言うとおりにすると忽ち雨が降ったとの事である。
註 中の岩の沼は灌漑用溜池として昭和二十六年に整備されている。
大昔、あまのじゃくが千手院の須彌山(すみせん)(材木岩)から山王院の材木岩との間に、一夜で石橋を架けることを思い立った。
併し何といっても仕事が大き過ぎて、如何に頑張っても架け終らないうちに鶏が鳴いて夜か明けてしまった。そこで今度は奥山寺に引っこんで架けたのが現在の行石橋である。
ここは山寺から東三里の所にあり、橋の長さ四十六米、高さ二十米、水の流れる谷は高さ十米、横二十四米あり、(小笠原健夫氏実側)渓流は滝となって下り、その下は
断崖千仞。橋の付近は樹木重なり合って昼なお暗く、誠に霊気身に迫る仙境である。
ある時樵夫が橋上の樹を伐ろうとしたことかあった。この時
「コラコラ、その樹を伐るならば、お前を家に返さんぞ」
と大声で天狗に叱られたことがあると語り伝えられている。
中国の天台山国清寺には堂々たる打石橋があり趙州のそれと南嶽のそれとあわせて天下の三石橋と称されている。天台宗では石橋を重んずることからこのような伝説が生れたものと思われる。また、慈覚大師が山寺を開いたのも、この石橋があるためだとも言われている。
大木を伐り倒すには始め斧で「ハマ」を作る。斧を入れるたぴにパンパンパンと音がする。次に反対側から鋸を人れて矢を入れて矢を張るのであるが、その音もよく響く。いよいよ木が倒れる時、枝が傍の木の枝とぶつかり合って折れ、幹が地面を打ってドシンと地響をたてる。
奥山に行き、またはそこに泊まると、この大木を倒すような音を聞く。これを天狗の空木返しという。
実際大木を伐るのと空木返しとの相違点は、最後の地面に倒れる時のドシンという音が空木返しにはない。
山奥に深く人る炭焼きや樵人はこの空木返しは普通の事として怪しまないが、近年全くなくなった。、地蔵堂の下駄職、布施虎五郎という人が明治十年頃、東岳の腰に泊まったときこれを聞いたと言うが、山寺では恐らくこれが最後ではあるまいか。
面白山に源を発する楓川の流域は往古より女人禁制で、この掟は明冶の初め頃までかたく守られていた。
江戸時代の中頃、この禁制を犯した千手院の後藤某の妻が中沢口で天狗にさらわれた事がある。
千手院の農家はどこの家でも春の彼岸頃になると、奥山に小屋掛けをして薪を伐り、秋になって雨で水量が増すのを見計って村まで流すのであった。この後藤某は至って気が弱く、独りで小屋に泊まるのを恐ろしがるので、夫婦で小屋に泊りこんでいた。妻は日々糸とりをしていたが、ある日用事のために山を降り家に向ったが、そのまま行方不明になった。それで村中大騒ぎとなって皆で探したが発見できなかった。
後日になって、奥羽山脈の頂上、蕎麦角(そばかど)岩の下、天狗岩の上のほうで死骸が発見された。これは全く天狗にさらわれたものと村人に信ぜられ、それ以来、一層女人禁制がきびしく守られることになった。
二口街道、馬形部落から数丁の所に見渡山という小山があって、その頂上に弁財天が祀られ、南面する萬年堂の神の依代は小さな自然石である。
ここは山寺三弁天の一つで、殊に立石寺一山の守護神、山王大権現の中七社の一つで巌岩(いわたき)の宮と称され厚く祀られている。
この小山は誰一人として見渡山と呼ぶ者はなく「森」と呼ばれ、佛は森の弁天と言われるのである。
この森の裏は険しい断崖で立石川が岸を洗っている。川はここで大瀑布をなし、深淵をつくっている。
旧正月三日間、朝早く弁財天は白馬に跨って、この淵の周囲を三廻りすると信ぜられ、この淵で釣をすれば赤子の椀や足がかかって来ると幼少の頃はよく聞かされたものである。
コベタという狩人は所部の人で本名は武田久八である。奥州鹿嶋台に生れた人で、その父も狩りが大好きであったと言う。あだ名のようなコベタではない。火縄銃の名人であった。
私の幼少の頃、冬になるとこのコベタが毎日村を廻って、雉や山鳥を捕って歩く余程の老人であった。捕ったものは糸に結び付け、肩に掛けて廻るのであったが、多い時は十羽以上にもなっていた。
ある時、このコベタは秋田系の犬を連れて東岳に行った。犬が異様に吠えるので、そこへ走って行ってみたら、蟒が犬に巻き付いて將に呑まんとしていた。コベタは手早く傍にあった棒切れを取って、犬と蟒の間に突っ込み、それを台にして山刀を抜いてズタズタと切って殺した。しかし、その事がもとで病気になり、七日間ばかり煩って死んだ。
病床にある時、子息の久吉を呼んで、「東岳で大蛇を切り殺したから見て来い」と言ったが、恐れて行かなかったとの事である。
子の久吉は父も祖父も殺生をしたというので供養のため仏門に入って一生を終わった。
私が六、七歳の頃、母が大病にかかった。医者の手当を受けてもなかなか全快しない。皆で非常に心配していたら、ある人が蟒の骨を飲ましてはどうか。その骨は貫津村の何某という人が持っていると云うので、早速人をやって貰わせることにした。
使いの者が先方に行って来意を告げると、その家のお年寄りが奥から煤けた孤渋紙の包みを持ってきた。この骨は他所から願われて与えたので、今残っているのはこれだけだとの事である。、その内から大人の親指より少し太い位の骨を只一つ貰って来た。
この老人の話が続く。この人はもと木挽職で、ある年、村の奥山で働ていると傍の大木の上に蟒がいて、木挽の仕事を毎日見下しているのであった。木挽は斧を研ぎ澄して、よし降りて来たらこの斧で真二つにしてやると息気ごんで待ち構えていた。
ある朝、木挽が例の通り仕事に出かけていったら、その巨木に落雷があって樹を裂き蛇も潰されていたので、その蛇を繰(から)んで家に背負って帰った。家でそれを剥いで骨を取って置いたのだと話してくれたとの事であった。
私は貰って来た骨を面白半分に鮫の皮でおろして、日に三度母に飲ませた。骨をおろす時の妙な香が、今も鼻についているようである。母の病気はこれを飲んだためかどうかは分らないが、其後日一日と快方に向かい、間もなく全快した。これは碓かな事実であるから、昔山寺に蟒がいたというのも事実であろう。
註 通称コベタについて実家に問いあわせたところ次の様な事情であった。本名武田彦四郎(久八)・千手院長野の生れ、明治二十四年九月没。江戸末期を立てて仙台棚田家の婿となり足軽鉄胞組に人り鹿嶋台に住む。廃藩置県のため失業し山寺に帰り一子久吉をつれて武田家に入婿、コベタとは先代権蔵の事であったが俗称まで引き継いだ事になる。久吉は性相院後藤真田僧正により授戒、所部弁財天千手院観音の別当となる。
蟒を退冶した場所は、大東岳の麓、初めの小沢の水のなくなる地点、今でも気昧悪い所である。犬は秋田犬であったが、コベタはこの犬を背負って帰ったが翌日死んだ。コベタは死の直前うなされて「おっかない、おっかない」を連発したという。
山寺は殺生禁断の地で、ほとんど一千年間は動物の極楽地であった。従って川魚といえども村人は誰一人として捕るものがない。繁殖する一方であった。初冬の頃になると、アブラハヤの如きは淵に幾百千の数が身動きもせず現れているのであった。また、風呂の水くみにも魚が手桶に人らないよう注意して水を汲むが、それでも湯が涌いた時見ると、二、三尾は死んでいたり、湯加減の水を汲めばやはり手桶にまぎれこんで来るのであった。殺生禁断が解けて十数年も経ているのにこんな有様であったから、それ以前にはなお沢山いた事であろう。
こんなわけで、河獺ちもかなりいたろうと想像される。山寺には河獺のしわざと考えられる小豆とがえの伝説が二カ所にあり、川原町の頭には河獺岩という岩があったことでも推察できる。
山寺にはいつの頃まで住んでいたかと言うと、大正期の秋の夜半、池で水が跳ねる音がするので、或いは河獺かと思ったが、そのまま眠ってしまった。翌朝、池を見ると、水が非常に濁っていて、二、三十匹もの鯉が泳ぎ狂って、しばらくやまなかった。
その日、家の者が字大構(かまえ)で木に登っている河獺見たと言い、ある者は日向(ひなた)の堰を登るのを見つけ、これを迫ったが石橋の下に隠れたので、しばらく見張ったもののあきらめて帰ったと云う。二、三日して峯岸の頭で人家の庭の松の木に登っていたのを見つけ、数人で迫ったが稲田で見失った。その後、二、三年はつづけて見つけているが、あとは全く来なくなった。これが本村では最後である。
当地には猪が非常に多かった。芦沢部落の程近く字大構の茅野で子を生んだ。子供達は日中、親のいない時をねらって、子を引き出し遊んだという。また狩人のコベタと云う者が村端で槍で猪を捕ったこともあったと伝えられている。
私の祖母が、元日の朝仏壇に向かっていたら、何か池でパチャパチャ水音がするので、格子戸を開けてみたら、大きな獣がいるので、家の人皆を呼んで見た。それは猪が誤って池の落ち、這い上がろうとしているのが池の周囲に雪が積もっていてなかなか上れず、もがいているのであった。しばらくしてはい上がり向かいの寺山に逃げて行ったことがあった。これは祖母から直接聞いた話しである。
山寺には猪の供養碑がある。地蔵庵境内の西南隅で、県道に近く東向きに建っている。碑の高さ約一米九十六糎、厚さ約三十糎の自然石で、刻まれた文字は次の通りである。
猪畜追福 施主 山寺惣中
南無天月地蔵菩薩
如是畜生発菩提心
宝暦五乙亥年
二月六日 (矢萩徳五郎氏調査)
宝暦の凶作の年、猪が稲の穂を咬みその汁を吸うので百姓は困り果てた結果、一同協議の上、宝暦四年秋、立石寺の許可を得て、村中総出で猪狩りをした。え物は芦沢部落の三辻に山と積まれ、総数十七頭であった。やがてこの猪を村端の字赤石(今の高●堰と天童堰の分れ目)にあった大きな柱の枝に吊り下げて、村一同で供養した。そして翌五年春、供養碑を建立した。その碑は何時の頃か一の木戸の地蔵尊境内に移された。施主山寺惣中とあるのは下山寺惣中の意味で、中山寺・上山寺は含んでいないのである。
江戸末期、芦沢部落のある農家(伊澤金七宅)の縁下に犬が子を生んだ。ところがある晩、犬がしきリに吠え、縁下では子犬を食うらしい異様な音がする。ムシロを取って板敷の隙間から見ると獣の目がピカピカと光った。それ、狼だと急いで湯を沸かし、板の隙間から湯をかけたところ狼が逃げ去ったという話がある。
その頃、天童や山形に用達しに行って帰りが夕刻少し遅くなると、石倉山の方で狼の叫び声が聞こえたそうである。またある年、狼か宿山(芦沢)から村里に下って来るので危険であると村相談の上狼狩りをすることになった。剣道家伊澤伝蔵正武の弟子も多数応援することになり一同揃って山近を辿り、日向に着いた時、狼が対岸の小高次のハサミ坂を下るのを認めた。この時正武の高弟後藤三蔵か鉄砲で打ち倒した。年代は明らかではないが、正武は文政十一年十月四日、六十余歳で病気しているから大体その頃と推定されてる。
置賜の亀岡には百年ばかり前まで狼がおり、また、最上の鮭川村には文久年間までおったとの事である。
学者の説では、北海道に住んでいた大型の狼は明治二十二年に絶滅し、本州の小型の狼は明治三十八年に絶滅したろうとの事である。
山寺ではどこの家でも鹿の角を拾って二、三本は持っていたものである。用途は蓑(みの)かけにする位で、只魔物にしていた位である。老人は冬には鹿皮の羽織を着ていたし、財布はほとんど鹿皮であった。私の家には今も長さ二尺幅、一尺位の大きな財布がある。これは昔上納金を入れ、小走(こばすり)に背負わせ役所に運ばせたものである。
鹿は何時ころまで当地にいたかと云うと、別項に記したコベタと云う狩人か槍で捕ったと云われ、また当芦沢の者で私の父と同年輩位の人が若い時に、タクミ沢で友人四、五人と鹿を捕らえようと追い回したことがあったと云うから、江戸末期までいたと推定される。
山寺は昔から殺生禁断の地であるから獣が多かったのであるが、猿は特に山王大権現の神使であるから一層厚く保護されて来た。それでお山だけでも維新までは幾百頭も
いたと云う。
山の寺院では、もし留守にでもするなら、屋内に入り込んで佛壇を掻き廻したりしたし、麓の民家でも大根など畑に囲っておくと、それを掘り返し手送りしてまたたく間に山上に運ぶこともあったという。
ところが明治三年の冬、山形県庁の大川平さんという役人か来て、お山で鉄砲を打ち、十三頭ほど捕獲してから姿を見せないようになったと言う。
明治三十五年頃までは毎冬秋田からマタギ(狩人)が来て、奥山寺で猿を捕ったかが、それ以後マタギは来なくなった。
註 昭和六十一年頃から猿の群れが村里に現れ種々話題になっている。
狐は相当多かった。私が七才位の頃、家内中で、芦沢の畑仕事に行く時について行って狐を追ったことがある。また、母に抱かれて寝ていたら玄関前で赤ちゃんの泣き声を聞いた。母に赤子が泣いていると言ったら、母から、狐だ黙っておれ、と言われた。その泣き声は真に迫っていたが、ついにギャア、ギャアと叫んでやんだ。狐火は何回も見ているが赤子の真似は一生にこの一回だけである。
これも幼少のときであるが、ある寒い冬の夕食後、家族は皆爐辺によって話していた所、父は、狐が流し尻を漁っている、きっと雪で食物に困っているのであろう、お握りをやれと言った。姉がお握りを作り、私が提灯を持って二人で裏口を出たら、一問半ばかりの所に黒い犬のようなものが三頭見えた。お握りを置いて戻りかけると狐はすぐ食べかけたことがあった。
その後、次第に狐は少なくなった。これは石材を採るために発破(はっぱ)をかけたが、その音で来なくなったと云い、猟師が鉄砲で打ったとか言うがどうなのであろう。現化村里には殆ど居なくなって奥山で年に四、五頭捕れるだけである。昭和二十八年、産橋(うめばし)付近でも芦沢下でも狐か啼いたと聞いた。
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(5)奥付:
山寺百話 頒価 1,500円(税込)
平成三年十二月 発行
平成八年二月 第四刷
原著 伊澤 不忍
編集 伊澤 貞一
発行者 伊澤 貞一
山形市大字山寺1814
電話 0236(95)2956
印刷 渡辺印刷
山形市七日町1丁目2番51号
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